道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

現代だからこそパターナリズムが正当化される理由(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑨)

 

 

 

 先日の記事でも述べたように、現代社会は、わたしたちの報酬系認知バイアスの欠陥をついて健康と時間(とお金)を奪うような商品やシステムで溢れており、そういう点ではわたしたちの生きる環境は有害なものとなっている*1

 現代社会、とくに都市におけるもうひとつの問題が、見ず知らずの他人しかいないことだ。外を出歩いたり車を運転したりするとき、周りの人たちは自分とは縁もゆかりもなく、互いに顔も覚えないような状況では、人は向社会的な行動をとらなくなり、衝動的な行動を取りやすくなる。たとえば、小さな町であれば車種やナンバープレートで「あれは〇〇さんの車だ」と他の住民に伝わってしまうから、そういう町に住む人の運転は丁寧なものとなる。危険運転をしているところをみんなに見られて、後ろ指をさされたり評価を下げたりすることを避けたくなるからだ。

 狩猟採集民の暮らしていた集団は多くて数十人から百人前後の小さなものであり、構成員は互いの顔や名前を覚えていて、集団の利益に反したり集団に害を及ぼすような行動をする構成員がいたらその評判はあっという間に伝わって、制裁や処罰が下されていた。人間の道徳感情は、周囲の評判がサンクションとして機能する小さな社会に適応して進化してきたものだ。わたしたちが行動や生き方に抑制や調整をはたらかす際には、自己完結的なセルフコントロールだけでなく社会的コントロールのシステムが存在することが前提となっている。

 現代社会の都市という環境は、社会的コントロールを奪い、自己完結的なセルフコントロールだけで行動や生き方を抑制・調整するような試練をわたしたちに課しているのだ。そして、『啓蒙思想2.0』では、人間の理性とは個人の内側だけに存在するものではなく、外側にある環境とセットになることでようやく十全に機能するものである、ということが繰り返し強調されている。社会的コントロールが奪われた状況とは、セルフコントロール能力に機能不全が起こっている状態だということなのだ。

 昔ながらの田舎の環境とは不自由で抑圧的なものであるように思えて、それを嫌がる若者の多くが、田舎から都市へと脱出する。しかし、社会的コントロールを奪われた都市での生活で、わたしたちがほんとうの意味で「自分の意志」で行動して「自分らしい生き方」をできているとは限らない。もしかしたら、人の網の目のなかで周りに気を使いながら自分の行動をあれこれ抑制したり調節したりしてはじめて、「人間らしい生き方」というものが実現できるのかもしれないのだ(人間とはずっとそういう生き物として進化してきたので)。

 

この点で、薬物依存、不倫、離婚、長期の失業といった、さまざまな形の破綻で個人に烙印を押すまいとするリベラルのやり方に、保守派が不満を表明しているのも一理ある。リベラルのいつもの主張は、こうしたことは当人の罪でないこともよくあるから、社会がつらい思いをさせて踏んだり蹴ったりの目に遭わせるべきでないということだ。もちろん、これにもっともなところはある。遺伝的にアルコールや薬物依存になりやすい人もいるし、子供の父親に捨てられる女性もいるし、経済危機で自分に責任のない数百万人が失業することもありうる、などなど。けれども、これらのどの問題にもセルフコントロールの側面が存在する。遺伝的にアルコール依存になりやすくても実際ならない人は大勢いる。相手の男は信頼できないと頭の片隅でわかっていて、子どもを作るのを控える女性は大勢いる。皮肉なのは、リベラルはこうした破綻に伴う社会的烙印を弱めることで、そうとは知らずに、成果をあげるのに必要なセルフコントロールをできにくくしている。それこそこうした烙印が重要な足場の役割をする理由である。烙印があるからこそ依存症に陥るのを、不倫に走るのを、親の責任を果たさない親になるのを、失業するのを避ける、もう一つの動機が与えられる。

(p.367、強調は引用者による)

 

 また、現代社会では個人の自由の範囲が拡大しており、それと同時にセルフコントロールを損なわせる構造があちこちで出来上がっている。たとえば、アメリカでも日本でも、国民の睡眠時間は年々減り続けている。その原因は労働時間や通勤時間の増加とも限らず、むしろテレビやゲームやインターネットなどの娯楽の発展により、夜更かしをする人が増えていることにある。また、商店や飲食店の営業時間は遅くなり、終電の時間も遅くなったことで、夜遅くまで外で遊ぶこともう容易になってしまった。これらの変化はたしかにわたしたちの生活を楽しいものにはしているが、寝る時間を奪うことでしんどいものにしていることも否めない。一方で、一昔前はゲームもインターネットもなく、テレビは深夜になったら放送終了していた。「もう寝る時間ですよ」というメッセージを、社会環境が個人に対して発していたのだ。

 

 先日の記事でも論じた逆適応が生じることで、諸々のお菓子や飲み物は異常なカロリーや塩分や糖分を含むように進化した。また、アメリカではいつの間にか「キングサイズ」のチョコレートバーが標準化して、自販機や小売店では普通サイズのチョコレートバーを買うことのほうが難しくなっている。このような状況を放置していたら、国民がどんどん肥満や生活習慣病になっていくことを止められない。しかし、食品のサイズやカロリーに対する法規制はパターナリズムとして批判される。

 パターナリズムへの反論でもっともの有名なものが、J・S・ミルが『自由論』のなかでおこなっている議論だ。ミルは、「ある人の気持ちや立場を最も理解しているのは、その本人である」「なにが自分のためになって、なにがそうでないかは、本人がもっともよく判断できる」と論じて、個人の選択肢や判断を法や国家がコントロールすることは不当であると論じた。

 

しかし現代の認知バイアスの研究は、ミルの主張に課題を突きつける。もしも私たちの犯す誤りがランダムで予測しがたければ、国家は個人の判断にとやかく言うことに苦労するだろう。役人が一度か二度、正しく推測する一方で半ダースは間違えてしまい、最終結果はマイナスとなる。しかし認知バイアスという概念に従えば、人は論理的に思考するなかで系統立った誤りを犯すのであり、そのため誤りはきわめて予測しやすい。つまり不合理に対処するときに、法的パターナリズムは最終的に利益を生み出せる可能性がある。

(p.371)

 

 たとえば、保健所の検査官がレストランに定期的な衛生検査を行って、衛生状態に問題があったら営業停止することは、レストランの経営側だけでなく「多少は衛生状態に問題があるとしても、そのお店で食べたい」という客側の自由も奪うという点で、パターナリズムである。この処置が正当化されるのは、厨房の状態がどうであれ出てくる料理が一見するとまともであったらその料理の危険性を判断する能力が個人にはないこと、「自分は食中毒になんからない」という楽観バイアスが存在すること、またレストランに着いた客はたいていは空腹であるために「この店は衛生状態に問題があります」という警告を掲げられていても関係なしにいますぐ食事をしたがること、などなどが背景にある。

 わたしたちは、空腹であるときには「衛生状態よりもいますぐ食事できることのほうが重要だ」と考えるかもしれないが、そうでないときには「レストランの料理のせいで食中毒になるなんて最悪だから、営業状態に問題があるレストランは閉まってくれていたほうがありがたい」と判断するかもしれない。わたしたちの判断は、状況やコンディションによって変わる。ミルは「なにが自分のためになって、なにがそうでないかは、本人がもっともよく判断できる」と主張したが、空腹であるようなタイミングでおこなった判断はあとから「あんな判断は自分自身のためにもならない」と後悔する可能性が高い。空腹という特殊な状態において下した判断が、自分自身の長期的な利益を考慮した判断となる可能性は低いのだ。……ならば、そのような判断をしてしまう機会がそもそも排除されるのは、自由は奪われるかもしれないがわたしたちにとっては利益となるかもしれない。

 そして、先述したように、わたしたちが生きる環境は認知バイアスヒューリスティックの弱みや欠陥につけ込み、セルフコントロール能力を奪う、敵対的なものとなっている。そのまま放置したら、わたしたちは短期的な衝動や誘惑に負けて、後から振り返ったら後悔するような行動を、どんどんしてしまう。だからこそ、現代では、パターナリズムの必要性は増しているのである。

 

 キャス・サンスティーンとリチャード・セイラーによる「ナッジ・パターナリズム」に関するヒースの評価はこちら。

 

 

アメリカの年金制度について、「加入したい人が書類を作成する」という既存のオプトイン方式から「原則として自動加入で、脱退したい人は書類を作成する」というオプトアウト方式に変更すべきだ、というサンスティーンとセイラーの主張に関して:)

 

ここでの重要な考えは、ナッジは人々の経済的インセンティブを「大きく」変えないということだ。あるいはむしろ「客観的には」と言ってもいい。なぜなら意思決定の時点でインセンティブは大きく変わるからだ。それは行動を変えるのだ。書類の作成はある種のコストである。必ずしも経済的なものではないが、コストはコストである。時間がかかるし、精神的な負担になる。だからオプトイン方式は、書類作成を求めることで、基本的に加入を妨げている。オプトアウト方式へ切り替えれば、コストは加入しない手続きのほうへ転換される。掛けられている年金額と比べたらわずかなものだから、たいしたことではないように思える。にもかかわらず、それが本当に負担でないならば、その転換が人々の決定に影響を及ぼすことはないはずである。

そうしてサンスティーンとセイラーが本当に奨めているのは、私たちの不合理が(ヒュームの言を借りれば)「自らを治療」するように外部の選択環境を整えることだ。私たちは目先に囚われすぎて自分の退職後を心配しないうえに怠け者すぎて書類作成もしない。退職後の蓄えを減らすために書類作成が必要になるようにすることで、不合理の一つを、もう一つと相殺するように利用できる。怠惰さが近視眼的な視点の治療薬になる。

(p.374 - 375)