道徳的動物日記

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読書メモ:『道徳の自然誌』

 

 

 

 トマセロの本は7年ほど前に『コミュニケーションの起源を探る』を読んで以来だ*1。『道徳の自然誌』は進化論に基づく道徳心理学の本であるが、たとえばジョナサン・ハイトの『社会はなぜ右と左にわかれるのか』やクリストファー・ボームの『モラルの起源』のような同じジャンルの本と比べると、かなり地味で「堅い」本となっている。そのために読み物としての面白さは少ないが、読者に対するサービス精神が過剰なあまり論旨や立証が粗雑になったりないがしろにされがちなハイトの本と比べると、かなりしっかりしたものだ。……とはいえ、トマセロの本であっても最終的には文化進化論とグループ選択が持ち出されるので、本職の進化心理学者から見たら怪しさや隙が感じられるかもしれない*2

 

 トマセロの議論自体は、一本の筋道が通っていて、わかりやすい。

 まず、人間以前の類人猿であっても「同情」を抱くことはできるし、獲物を狩ったり集団内での地位争いにおいて他の個体と「協力」することもあるが、わたしたち人間にはそれを超えた範囲での道徳が備わっている。

 初期のヒトは、協力するパートナーと自分との「等価性」を認めて、相応性を生じさせて、協力行為に対する共同コミットメントを作り出すことができた、という点で他の類人猿たちとは異なった。トマセロは初期の人が持っていた道徳性を「二人称の道徳性」と呼ぶ。

 

すなわち、共同コミットメントに関わる「わたしたち」として共に協同し、互いに責任を感じる二人称主体の(遠近法的に定義される)「わたし」と「あなた」が、対面でやり取りする際の二者間の道徳性である。この新しい道徳性が存在できるのは、協同事業それ自体の内部だけ、もしくはそうした事業を考慮している場合のみであり、他の生活領域ではありえなかった。このように特殊な協同的文脈の外では、初期ヒトの社会的やり取りもほぼ類人猿と同じようなものだっただろう。

(p.64)

 

 ヒトが二人称の同特性を獲得できたのは、ある種の自己家畜化のおかげとも言える。その背景には、「配偶関係が一対一のつがいへと変化しはじめた」こと、「両親だけでなく非血縁個体も含めて、協同で子育てをするようになった」こと、「ライオンやハイエナを追い払う屍肉漁りをするために、平等主義的な同盟を組むようになった」ことがある。やがてヒトは大型の獲物を狩猟するようになったが、もし狩猟に失敗したら、満足のいく代替品は得られない状況にあった。つまり、協同が強制される、相互依存の状態にあることで、協同を成立させるための二人称道徳性が進化していったのである。

 また、類人猿もヒトも「同情」を抱くことはできるが、ヒトは類人猿のそれとは質的に異なる新たな種類の同情も抱けるようになった。それは、相手に感情移入して、相手の立場にたった視点取得をともなう同情だ(「(アダム・)スミス的共感」とも表現されている)。

 そして、二人称の道徳により、ヒトは「共同志向性」を得て、「共同主体」を構築することができる。

 

共同志向性によって構造化された協同活動は、共同と個人という二重のレベルを備えている。各個人は、相手とともに共同目標を(共同注意の中で)追及する「わたしたち」でもあり、また同時に自分自身の役割と視点を持った個人でもある。こうした共同志向的活動に関わることで、パートナー同士がお互いに、特有の形で心理的に結びつけられる。すなわち、ここで共同主体(joint agent)と呼べるようなものが形成されるのである。暴風雨の中で二人が同じ場所へ避難しようとしている場合、場所を探すことは共同目標ではなく、それぞれが別々に持っている目標でしかない。チンパンジーのサル狩猟もこれと同じである。サルを捕まえるという共同目標があるわけではなく、自身でサルを捕まえようという個人的な目標があるだけである(これは後で獲物を独占しようとすることからも分かる)。対照的に、共同主体が作られるのは、お互いが「わたしたち」として共同で一つの目的に向かって行動しようとし、共通基盤の上で、その目的は両者が意図していることだと両者が共に理解している(お互いが理解しているとそれぞれが理解している)場合である。

 (p.80、文中の出典情報は省略)

 

 ヒトは、「相応しいパートナーに平等な尊敬を示せる、有能な協同パートナー」としての協力的アイデンティティに関する個人的感覚も作り上げていった。さらに、「わたしたち」という共同主体にコミットメントすることで、「〜すべき」という道徳感覚とそれに基づく自制を行うようになり、共同を破る相手に対する制裁の感覚も得るようになった。そして、共同コミットメントを通じて自分を縛り付ける偏りのない基準を内面化するようになったことは、公平正義という概念を生み出して理解することにもつながった。

 ……しかし、二人称の道徳性は現在のわたしたちが得ているような道徳性の前提条件ではあるが十分条件ではなく、原生ヒトは二人称の道徳を発展させた「客観的」な道徳性も備えている、とトマセロは議論をすすめる。

 

現生ヒトにとっての課題は、よく知った相手との相互依存的共同を基盤とした生活から、文化集団における非常に多様な相互依存相手との生活へと移行することだった。認知的に必要とされていたのは、共同志向性だけでなく、集合志向性(collective intentionality)という技術・動機だった。これらの技術が文化伝達という新規かつ強力な技術と一緒になり、さまざまなタイプの慣習的文化習慣が作られ、文化集団の文化的共通基盤の中で共有された。慣習的文化習慣での役割は主体と完全に独立だった。ここでの理想的役割は、われわれの中の誰であれ(すなわち、合理的な人間であれば誰であれ)、集合的成功を促進するのに必要な作業をこなすことである。どこかの時点で、こうした最大限に一般化された理想の基準がその役割(この役割には、その文化で貢献するメンバーであるという全般的な役割も含まれる)を果たすのに「客観的」に正しい(悪い、ではなく)方法として概念化されたのである。慣習的文化習慣に参加するために(それが制度へと形式化された場合も含むが)一番先にやらなければならないのは、この正しい作法にしたがうことだった。慣習的文化習慣や関連する役割の中には、すでに二人称の道徳的態度が取られているような対象に関わるものもあった。すなわち、同情と公平という潜在的問題に関わるものだ。こうした場合、規範的な理想的役割は慣習的な善悪だけでなく、道徳的な善悪をも定めていたのである。

(p.135 - 136)

 

 十五万〜十万年前、ヒトは「部族組織」というそれまでに比べて大規模な集団を成立させるようになった。部族組織(トライブ)はより小規模な複数の「バンド」から構成されており、バンドの人口規模は「ダンバー数」と一致するが、部族全体の人口はダンバー数を遥かに超える。したがって、間違って外集団の野蛮人に近づいてしまったり、集団間競争での敗北したりすることを避けるためには、見知った相手同士との相互依存と団結を超えて、より広い範囲で仲間を認識して結びつくことが必要とされる。そのための方法が、文化習慣を共有するという「類似性」に基づいて、集団内のメンバーを判別することだったのである。これにより、人間は、他の類人猿に比べて、仲間に同調したり仲間を模倣する傾向がきわめて強いという特徴を身に付けるに至った。そして、文化的アイデンティティも獲得するようになったのだ。

 集団内では、「あの場所の大きな樹」といった目印から集団の歴史などについての知識を共有することができ、これによってこれまでよりも遥かに柔軟な協調が可能になる。また、言語をはじめとする共通の文化的基盤があるかどうかでウチとソトとを区別することができるようになった。「身内びいき(集団内びいき)」の傾向も、トライブが成立したことによって身に付けられたようである。

 そして、ヒトは「社会規範」を身に付けるようにもなったのである。

 

競争を協力的なものに変えるのが、社会規範の役割である。この考えと一致するかのように、どの社会でもほぼ普遍的に社会規範が扱っている領域がある。それは、集団の団結と幸福へのもっとも緊急の脅威を含む領域、争いへの強い利己的な動機と傾向性を生み出す領域である。すなわち、食料と性だ。こうして、豊富かつ巨大な獲物が文化集団のメンバーすべてでどう分配されるかは、文化的共通基盤の中で全員が前もって理解している社会規範によって厳密に決まっており、これが効果的にほとんどの争いを防いでいる。同じように、誰と交配できるかできないか(たとえば血縁、子ども、誰か他の親類など)もまた、集団の文化的共通基盤の中で社会規範によって厳密に決定されており、これもまた、集団の効果的な機能を損いかねない潜在的な争いを防いでいる。このように、社会規範は分裂を招きかねない状況で競争を予期し、協力のためにそうした状況でどのように行動すべきかを明らかにしているのである。

(p.156 - 157)

 

 そして、二人称の道徳に比べて、社会的規範はより強制的なものである。

 

 こうして、社会的規範は集団のメンバーに対して不偏的かつ客観的なものとして提示される。原理的にはどのメンバーも文化とその価値を代表する声である。同じく原理的には、どのメンバーも規範の対象となる。規範は主体とは独立に(層や文脈が特定されている場合もあるだろうが)同じような相手すべてに適用されるからである。さらに原理的には、その基準それ自体が「客観的」である。この規範的基準は、規範を強制する側もしくは他の集団メンバーが物事をどう進めてほしいかではなく、どう進めるのが道徳的に良いか悪いかに関わるからだ。主体、対象、基準という以上三種類の一般性によって、「そうするのは間違っている」というように、なぜ規範の強制に教育の時のような包括的側面が見られるのかを説明できる。規範を強制する側は、規範を犯した側の行動が道徳的に誤っていることを確かめさせるため、直接的かつ不偏的に自分自身で検証できる客観的価値の世界に、違反者側を向き合わせる。ジョイスが論じているように、こうした道徳判断の客観化は、そのプロセスの正当性が理解されるために極めて重要である。それは自分自身と他人の道徳的価値を判断するために共通の基準を与え、「共有された正当化構造の中で人々をまとめあげる」からだ。こうして、ペダゴジーによって伝達された文化情報のように、社会規範は個人にとって独立した客観的な存在となり、道徳的違反は特定の相手を傷つけるというよりは、道徳秩序を崩壊させるものとなったのである。

(p.162 - 163)

 

  トマセロによると、文化的アイデンティティとは「社会契約」に関連している。

 

こうした文化的アイデンティティの形成、すなわち他人から物理的に集団メンバーとして認識されるだけでなく、自身を含む集団メンバーからワジリスタン人として認識されることは、現生ヒトの社会契約という偽問題に対する「解決策」の巨大な一部なのである。重要なのは、心理レベルは個人は何も問題視していないという点である(すなわち、問題が見えている人は社会選択で不利となり、次第に人間史から姿を消していく)。それが文化的アイデンティティの一部であるがゆえに、個人は自身が生まれた文化集団のやり方に同調し、他人に同調を求めていったのである。「わたしはワジリスタン人であり、われわれワジリスタン人はこれがわれわれのやり方だと同意している」。彼は自身の文化的アイデンティティのおかげで、社会契約の分担者となっているのである。さらに、すべてのメンバーが同情や敬意のある扱いに相応しい(しかも平等に相応しい)のは、集団の「客観的な」判断である。そして協力に対して十分な理由が与えられるので、社会契約が正当化されるのである。それゆえ、自身の文化的アイデンティティの一部として、わたしは「わたしたち」のやり方に同調し、他人もそうするように努力をし、同集団内メンバーに同情を敬意を示すべきなのである。こうして、社会契約が(「わたしたち」が「わたしたち」のために作り上げた)文化的アイデンティティの一部であり、自身を含むすべてのメンバーが、この契約を守ることでしか相応しい同情と尊敬を同集団内メンバーに与えられないと信じざるをえないからこそ、社会契約は正当化されるのである。

(p.169)

 

 文化を持つ集団のなかでは、道徳的アイデンティティを持つ個人たち同士がそれぞれに関わるのと同時に、文化で共有された社会規範に対する集合的なコミットメントに個人が関わるという二重構造が形成されている。個人は、罪悪感を身に付けて、自分が以前に下した判断や行動について社会規範に照らし合わせて自己反省しながら、道徳的な意思決定をするようになるのだ。それに伴い、分配的正義手続き的正義に対する感覚も身に付けていくようになる。

 

 もちろん、上述したような道徳の「客観性」や社会規範が、倫理学的な意味で正しいとは限らない。たとえば、アパルトヘイトも、過去には関係者たちから道徳的であると見なされる社会規範の体系であった。とはいえ、アパルトヘイトも、「集団に含まれるメンバー」の範囲や「危害」などの定義を巧妙に操作することで、同情や公平や正義に関する感覚をごまかすことで成立していたものであった。

 

また、集団指向的な文化的道徳性の要求と二人称の自然な道徳性の要求が対立し、十分な解決も見られないことが多い。もちろん、根本的に解決困難であるような、異なる(現代国民国家の一部である場合もある)文化集団間での価値の対立も見られる。しかしわれわれが主張したい(あるいは望む)のは、以下の点に関して共通合意に達することで、こうした道徳的ジレンマを解決する手助けになるということである。(一)特定の状況で同情/危害、公平/不公平を構成するものとしないもの、そして(二)誰がわれわれの道徳的コミュニティのメンバーであり、そうでないのかである。これが人類すべてに共有された自然な道徳性の中に、道徳的議論を基礎づけるのである。

(p.203)

 

 要するに、倫理学的や現代の先進国の常識からはとうてい「道徳的」とは考えられない社会であっても、そこに住んでいる当人たちに「この社会に問題はない」と思わせるためには、「危害」や「公平」や「メンバー」の定義について操作することで一定の感覚を満たすことが必要とされる、ということだ。

 そして、あるコミュニティにおける法律だってそのコミュニティのメンバーの道徳感覚にマッチしなければ正統性を得られない。また、宗教は、「メンバー」の定義を拡大してさらに集団を拡げるのに一役買う。

 

 ……ちょっと疲れてきたので(なにしろ堅くて真面目な本なのだ)、トマセロの議論の特徴をまとめてしまおう。

 まず、人間の道徳性の原型である「二人称の道徳」を感覚的な「同情」とは別次元に配置することで、ほかの道徳心理学者に比べても道徳において「意思」の担う役割を重視しているのが、トマセロの主張のポイントだ。このために、人間の進化における原初的なレベルでの道徳が発達した経緯について進化心理学的に語りながらも、それがピアジェなどの発達心理学者が論じるような、現代社会のわたしたちが行うような意思決定やわたしたちが形成する道徳的アイデンティティとそれらに関わる諸々の問題について考える手がかりにもなることが示されている。たとえば「感情」重視派の代表的な論者であるハイトは、道徳の理性的な発達の重要さを強調して文化間で普遍的な意思決定を探究するピアジェやコールバーグの主張に背を向けて、発達とかしようのない素朴な道徳感情とその多様性や文化相対性を強調していた。おそらく、トマセロの議論のほうが、ずっと哲学者好みなものに仕上がっているだろう(擬似的な社会契約という観点から「客観的」な道徳を説明するくだりもかなり哲学風だ)。

 

 また、道徳性に関する進化心理学の議論ではなんらかの形の互恵性から道徳を説明することがスタンダードであるが(血縁選択・間接互恵性・集団選択)、トマセロは、互恵性だけでは個体に利他行動を促す至近メカニズムについて説明できないという問題を指摘する。互恵性の議論は一見するともっともらしいが、「お返し」を貰える保証もないのに最初の利他行動が起こる理由を説明することができず、裏切りのインセンティブの問題も解決できない。そして、トマセロは互恵的な行動が成立するには特定の社会関係が重要であると指摘する。重要なのは互恵性自体ではなくて利他行動や協力行動をして相手の幸福に投資して、相手を生かしたりすることがその行動をした本人にとっても得になるような状況を成立させる、相互依存的社会関係であるのだ(とはいえ、これ自体は人間のほかの類人猿でも成立する条件であり、意思決定ではなく同情によって作動するメカニズムである。ヒトは他の類人猿たちよりも相互依存がさらに深刻で協同が生きていくために不可欠な条件であるからこそ、意思決定による「二人称の道徳」を発達させた、という議論の流れである)。

 

しかし重要なのは、古典的な互恵性とは違い、このモデルでの利他行動はどのような形でも、援助に反応するもしくは影響を受ける受益者(あるいはそうした反応や影響に関する行為者の予想)に依存しない、という点である。受益者は警告発信、交配、同盟形成、狩猟のパートナー選び、あるいは社会集団の中で生活するなど、いつもの作業をこなすだけだろう。それは彼の関心だからであり、いわば副産物として、これが利他行動を行う個体に利益を与えているのである。利他行動をより能動的に、すなわち受益者への投資のようなものとして捉えることもできる。行為者は自身の幸福に貢献するがゆえに、受益者の幸福へ投資するのである。

(p.25)

 

すなわち、行動レベルでの類人猿の互恵的パターンは、暗黙の合意や互恵性の契約などによらず、ましてや公平や平等の判断によるものなどではなく、相互依存に基づき双方向に作用する同情だけに支えられているのである。

(p.38)

 

『道徳の自然誌』のなかで特に参照されている哲学者は、「正義」が成立する上毛について論じたデビッド・ヒュームに社会契約論について語ったジャン・ジャック・ルソー、そして「二人称の道徳」をガッツリ論じたスティーブン・ダーウォルである。それはそれとして、わたしとしてはピアジェやコールバーグのあたりを読みたくなった。