道徳的動物日記

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自立の倫理、共同体の倫理、神聖の倫理(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』読書メモ③)

 

 

 ハイトは、文化心理学者のリチャード・シュウィーダーによる「三つの倫理」の考え方を紹介している。

 

「自立の倫理」は、「人間は第一に、欲求、ニーズ、嗜好を持つ自立的な個人である」という前提から出発し、「人々は、思い通りにこれらを満たせるようでなければならない。ゆえに社会は、人々がなるべく邪魔をし合わずに平和共存できるよう、権利、自由、正義などの道徳概念を発達させる」と考える。これはまさに、個人主義的な社会の支配的倫理であり、(人間の福祉を向上させる程度に応じて正義と権利に価値を認める)ジョン・スチュアート・ミルピーター・シンガーなどの功利主義者、あるいは(全体的な福祉が損なわれても正義と権利を重視する)カントやコールバーグら義務論者の著作に、その典型を見出せる。

しかし、欧米の世俗社会から一歩足を踏み出すと、別の二つの道徳言語が浸透していることに気づくはずだ。その一つ「共同体の倫理」は、「人間はまず、家族、チーム、軍隊、企業、部族、国家など、より大きな集団のメンバーである」という考えに基づいている。この「より大きな集団」とは、それを構成するメンバーの総和以上の現実的かつ重要な実体であり、ゆえに保護されねばならないものでもある。そのなかで人々は、自分に割り当てられた役割を果たさねばならず、そのために共同体の倫理を擁する多くの社会では、義務、上下関係、敬意、評判、愛国主義などの道徳的な概念が発達する。また、「人々は自分で自分の運命を書き記し、自らの目標に向けて邁進すべき」とする欧米流の主張は利己的で危険であり、社会の紐帯を緩めて、誰もが依拠する制度や組織を必ずや解体してしまう考え方だと見なされる。

「神聖の倫理」は、「人間はそもそも、神聖な魂が一時的に注入された器である」とする考えに基づいている。人は単に意識を備えた動物なのではなく、神の子であり、それ相応に振る舞わなければならない。身体は遊び場ではなく神殿であり、したがって鶏の死骸とセックスしても誰も傷つけず、誰の権利も侵さないとはいえ、そんな行為には及ぶべきではないと考える。なぜなら彼の行為は、自らを貶め、創造主を侮辱し、宇宙の神聖な秩序を乱すからである。かくして神聖の倫理を擁する多くの社会では、神聖、罪、清浄、汚れ、崇高、堕落などの道徳的な概念が発達する。また、世俗的な欧米諸国に浸透している「個人の自由」の概念は、放埒で、快楽主義的であり、動物的な反応を賛美するものとしてとらえられる。

(p. 168 - 170)

 

 欧米を主とする現代社会では個人の行動を罰したり自由を抑圧したりしていいのはミル的な「危害原則」が適用される場合だけであり、モラリズムもパターナリズムも忌避されている。しかしそれはあくまで「自立の倫理」に基づく考え方なのであり、「共同体の倫理」や「神聖の倫理」ではモラリズムやパターナリズムも肯定され得るのだ。

 そして、「アメリカは自立の倫理で動いている」「インドは神聖の倫理で動いている」と割り切れるものではなく、程度差はあれどこの地域にも三つの倫理のいずれもが存在しており、個人はそれを内面化している、というところがポイントだ。アメリカ人であっても自己利益ばかりを主張するとは限らず、コミュニティに気遣いしたり伝統に敬意を払ったりする。また、思慮の浅い消費主義や無分別でだらしのない性的欲望は「自立の倫理」ではまったく否定できるものではないが、それらに対する生理的嫌悪感は多くの人が身につけているのだ。

 当然ながら、「共同体の倫理」や「神聖の倫理」は余所者や少数者に対する抑圧と差別に直結している。共同体の安定を損なったり伝統に変化をもたらしたりする存在は排除すべき存在と見なされるし、同性愛者や一部の障害者などはマジョリティの生理的嫌悪感を引き起こすというだけで人間以下の存在と見なされてしまう。「共同体の倫理」や「神聖の倫理」には平等や基本的人権といった考え方とは相反するところがある点は、ハイトも指摘している通りだ。むしろ、だからこそ、他の二つの倫理と比べてやや不自然な「自立の倫理」こそが現代社会の制度や規範のスタンダードとなるべきである、と論じることもできる。

 ……とはいえ、人々に備わった「道徳感覚」はけっして「自立の倫理」用にチューニングされたものではないこと、理屈や正論がどうであれ「共同体の倫理」や「神聖の倫理」に関連する感覚が多くの人々に備わっていること、それが現代社会における諸々の問題の背景にも存在していること(日本での夫婦別姓反対派とか、アメリカでの中絶反対派とか)は、ゆめゆめ忘れてはならない。倫理や政治に関する議論を勉強して、「自立の倫理」やリベラリズムを頭で理解するだけでなく心の内でも内面化していけばいくほどに、「共同体の倫理」や「神聖の倫理」に基づいて判断している人たちについて理解したり共感したりすることが難しくなり、彼らのことが愚かで邪悪に見えてしまうものだからだ(そして、相手のことを「愚かで邪悪」だと見なしていたら、その相手と議論したり相手を説得したりすることが難しくなるものである)。