道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

保守の道徳はリベラルより「広い」のか?(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』読書メモ①)

 

 

 ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか:対立を越えるための道徳心理学』は、大学院生のころに原著の The Righteous Mind のほうを英語で読んでかなり感銘を受けたものだ。それからハイトのことが気に入って、『しあわせ仮説』も読んでみるとかなり面白くて参考になった*1。同じくハイトが書いたや『アメリカン・マインドの甘やかし』も面白いし、このブログや経済学101でもハイトの記事を何度か訳している*2。……しかし、その後にさらに進化心理学倫理学社会学の本を読んだあとになって改めて『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を読み返してみたところ、残念ながら、「うーむ…」となるところが多い。

 ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』は再読しても9回に分けて読書メモを取れるくらいに内容が充実していて「再発見」も多い本であったのだが、それに比べると、ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』は「再発見」ができるポイントがどうにも少ない本であるのだ。

 

 おそらくほとんどの読者にとって最も印象が強く、この本の最大のウリでもあるのが、「道徳基盤理論」であるだろう。

 ハイトは、人間が道徳に対して持っている感覚を「味覚」のように例える。味覚には甘味・酸味・塩味・苦味・うま味(・辛味)などの基本となる味が存在しており、味覚障害を持たない限りほとんど全ての人はいずれの味も感じ取れる味蕾を持っている一方で、甘いケーキをとりわけ好む人もいればしょっぱいスナックにやみつきになる人もいるように、どんな味を好きになるかには個人差がある。それと同じように、道徳的な感覚は普遍性のある六つの基盤から成り立っているが、そのなかでどの感覚がとくに重視されるかは人によって異なる、というのが「道徳基盤理論」のポイントだ。

 

「ケア/危害」…苦痛を受けている人に対する思いやり。

「公正/欺瞞」…詐欺師や嘘つき、フリーライダーに対する怒り。

「忠誠/背信」…集団への帰属意識、裏切り者に対する怒り。

「権威/転覆」…階層性における上位の存在に対する尊敬や怖れ。

「神聖/堕落」…穢れや不敬に対する嫌悪感。

「自由/抑圧」…力を持つものによる横暴に対する反発心。

 

 そして、味覚に個人差があるとはいえ、甘いものしか食べない人やしょっぱい料理しか作らない人はどこか歪んでいるように思えるだろう。ハイトは、リベラルは「ケア」と「自由」と場合によっては「公正」という二つ〜三つの道徳基盤しか重視していないのに対して、保守はそれら三つに加えて、「忠誠」「権威」「神聖」の残りの道徳基盤も考慮した判断をしている、と論じる。つまり、道徳についてリベラルの人たちが持っている感覚は「狭い」のに対して、保守の人たちが持っている感覚は「広い」と主張するのだ。

 だから保守のほうが優れている…とまではハイトは言わないが、すくなくとも保守政治家のレトリックは六つの基盤のすべてにアプローチできるという点で、少数の基盤を狙い撃ちすることしかできないリベラルのレトリックよりも優れたものである、とは論じられている。また、実際のところ、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を初読した人は「保守って意外と寛容なんだな」「リベラルって実は偏狭なんだな」と思うようになるだろう。全体として、保守に対して好意的なメッセージが発せられている本であることは否定できない。

 

 ハイトの主張は、リベラルに自省を促すための議論としてとらえるなら、なかなかよいものだと思う。

 先日の衆議院選挙で自民党や維新が多数の議席を獲得したあとには、リベラルな学者やジャーナリストの多くはショックを受けて、「日本人はいつになったら人権という考え方を理解できるのか」「差別的な政策を疑問にも思わない人たちに囲まれて暮らしているなんて苦痛だ」といった種類の嘆きや愚痴をTwitterに投稿して、それを保守派の論客やツイッタラーがあげつらってやいのやいのと騒ぎ立ててバカにする、という光景が繰り広げられていた。これは今回に限らず、選挙のたびに繰り返される事態ではある。そして、選挙結果について嘆くリベラルが、自分とは違う投票行動をした人たちは「人権に配慮しない」「ジェンダー平等や環境問題を気にしない」などと自分たちよりも狭い見方に基づいて投票した、と決めつけがちであることはたしかに問題だ。

 よく指摘されるように、人が投票する際には差別や平等などの道徳に関わる事柄だけでなく、経済をはじめとした自己利益に関する様々な事柄を総合的に考慮して判断しているはずだ。むしろ、選挙というシステムでは、他者に対する道徳的な配慮よりも自己の利益に基づいた投票をおこなうことのほうが一般的であり、それは民主主義の前提ともなっているだろう。

 その一方で、道徳は人権や平等だけではない、という見方も重要だ。ハイトによれば、少数派や弱者が被る苦痛に対する配慮(ケア)や平等と公正を求める気持ちと同じように、権威に対する尊重や愛国心も、「労働者が収める税金に寄生しながら楽して暮らす公務員や生活保護受給者」に対する怒りや制裁願望も、道徳感情であることには変わりない。だとすれば、ケアも平等も愛国心も制裁願望も、どれかが優れていてどれかが劣っているわけではなく、いずれも等価なものと見なせるのだ。

 ……とはいえ、ハイトの議論を批判するジョシュア・グリーンやジョセフ・ヒースが論じるように、リベラルが「ケア」や「自由」を重視して他の道徳基盤を軽視しているのは、彼らがたまたま「ケア」や「自由」を好む感性をしているからではなく、理性を行使したり教育を受けたりした結果として「集団に対する忠誠や権威に対する服従、穢れたものに対する嫌悪感は、道徳判断の指標としては不適切である」という意識を身に付けたからであるだろう*3。六つの指標から二つや三つに絞って判断することは不自然で人為的なものであるが、多様な集団がひとつの共同体に存在しており複雑な経済や政治制度やテクノロジーが発展した現代社会というものがそもそもは不自然で人為的な環境であり、「集団主義的な判断や嫌悪感に基づく判断をしないこと」は、現代社会で生きるわたしたちに条件として課せられている。環境がまったく違う狩猟採集民で暮らしているときに身に付いた道徳感情を野放しにしていると、個人間でも集団間でも悲惨なトラブルが生じてしまい、経済も政治もまともに機能しなくなってしまうからだ。また、進化心理学に基づいたグリーンやヒースのみならず、『感情と法』で法律と道徳の感情的な起源を探ったマーサ・ヌスバウムも、嫌悪感に基づいた判断はすべきでないと論じているのである。

 すくなくとも高等教育を受けたリベラルであれば、彼や彼女の価値観は、教育や陶冶の結果として身に付いたものである可能性が高い。問題があるとすれば、リベラルの人たち自身が、そのことをすぐに忘れてしまって、自分たちの価値観を「人間として当然持っているはずの価値観」と思い込んでしまうことだろう。人権感覚は身に付いていないことがデフォルトであるが、それと同時に、現代社会で生きる人間には人権感覚を身に付けることが(道義的に)要請されるのだ。

 

……もっとも、ハイトによると、倫理や政治に関する規範的な主張とは、当人が持っている道徳感覚に、もっともらしく聞こえるための理屈を与えたものに過ぎない。理性という「乗り手」は感情という「象」に振り回される無力な存在であり、理屈とは感情という犬を正当化するために振り回される尻尾のようなものに過ぎない、というのがハイトの主張の根幹にあるものだ。

 したがって、客観的な倫理とか、より正当な政治的立場といったものは存在しない、というのが彼の見方である。だから、「(現代社会という環境のことを考慮すれば)人はリベラルな価値観を身に付けなければいけない」という反論にハイトが同意することはまずない。

 ハイトのスタンスは、メタ倫理学的にいえば情動主義非認知主義に属するものであり、倫理学者のなかにはハイトに賛同する人も多いだろう。……とはいえ、やはり彼の主張は極端であり、間違っているように思われる。

 

 道徳基盤理論には、他にも様々な問題がある。

 まず、実際のところ、「六つ」という数は道徳に関する感情を分別するには少な過ぎる。

 この批判についてはハイトも承知であり、道徳基盤の分類はあくまで便宜的なものとされている。

 しかし、たとえば「公正/欺瞞」基盤に関しては、実際には「自分よりも多くのものを得ている人に対する嫉妬心」や「咎のあるひとをみんなで一緒になって弾劾することを楽しむ制裁願望」もあれば、「自分が騙されて害を被ることを許せない自尊心」もあれば「他人が騙されて害を被ることを許せない義憤」もあるはずだ。これらの感情はいずれも「公正/欺瞞」として表出され得るが、「ケア/危害」や「自由/抑圧」として表出されることもあるだろうし、まったく別のかたちの道徳として表出されることもあるかもしれない。……そして、そもそも、道徳に関する感情と道徳に関しない感情との境目なんて、曖昧なものだ。

 また、「集団淘汰」の理論を支持するハイトは、道徳感情が進化してきた理由を「個人の利益と集団の利益の調和」や「集団間の競争で優位になる」ことに求めている。そのために、彼が提唱する道徳基盤理論も、社会的な要素や集団志向性がかなり強調される。その一方で、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のなかで「性淘汰」に関する議論がほとんどなされない点は見逃すべきでない。……性淘汰は、多かれ少なかれ、わたしたちが身に付けている感情に影響しているはずだ*4。それらの感情のなかには道徳として表出されるものもあるだろうが、その起源も機能も、ハイトが論じているものとはまったく異なる可能性が高いのだ。

 

 味覚と例えられながら六つの道徳基盤が並列されることには、その六つの基盤はどれも同じような重要性を持っていたり同じような頻度で発生したりする、というミスリーディングの危険がある。

 ハイトは、進化的な環境のなかで道徳基盤が対応してきた「オリジナル・トリガー」と、現代社会における「カレント・トリガー」のそれぞれを挙げている。自分の子どもや親族が感じる苦痛に対する反応である「ケア」は身内に関するものであり、腐ったものや不潔なものを回避する反応である「神聖」は自然環境に関するものだ。「公正」と「権威」は他者との協力関係のなかで相手が犯すかもしれない裏切りや横暴に対する反応、そして「忠誠」は自分を含む集団に向けられた脅威に対する反応である。

 こうして並べると、それぞれの道徳基盤の対応範囲や射程は全く異なるし、トリガーが発火する頻度にもかなりの差があることがわかる(子どものいる家庭や未開社会で暮らす人は「ケア」や「神聖」のトリガーが毎日のように発火しているだろうし、他集団がほとんどいない環境では「忠誠」のトリガーが発火する機会はきわめて少ない)。たまたま「道徳」という名前で括ることができるだけで、これらは、まったく異なる性質を持つものであるはずなのだ。

 

 そして、コロナウイルスとワクチンをめぐる騒動は、道徳基盤理論のアテにならなさを露呈してしまった。

「神聖」基盤における穢れの感覚が病気を回避するための反応として進化してきたことは明白であり、コロナウイルスを恐れるのは、リベラルと異なり「神聖」も重視する保守のほうでなくてはおかしい。しかし、実際には、「感染対策のために経済を犠牲にするな」と主張したりノーガード戦略を唱えたりしていたのは、保守のほうであったのだ。

 ロックダウンや緊急事態宣言は人の自由を制限するという点で「自由」の道徳基盤とも関係があるが、それは、リベラルが反応するとされる数少ない基盤のうちのひとつだ。

 さらに、コロナという「穢れ」に対しては他人と比べてまったく恐れていない人が、ワクチンについては過剰に「穢れ」を見出して恐れたりしている。あるいは、リベラルは、ウイルスという「穢れ」そのものではなくて、コロナに罹患することや身体的苦痛に対する「ケア」のトリガーが発火しているのかもしれない。ワクチン反対派も、副反応による身体的苦痛に対する「ケア」をしているのかもしれない。

 ……でも、こんなことを言い出したら、どんな事例におけるどんな立場のどんな反応にだって、好き勝手に理屈をつけることができてしまう。

『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のなかでは、リベラルでも保守でもない例外的な存在としてリバタリアンが取り上げられている。リバタリアンは「自由」基盤をなによりも重視して、「公正」基盤もそれなりに気をかけるが、「忠誠」「権威」「神聖」にあわせて「ケア」基盤も同じように軽視しているという点で、リベラルとは全く異なるのだ。

 しかし、実際のところは、リベラル・保守・リバタリアンの三つに限らず、もっと多様な立場が存在していて、重視している基盤もそれぞれに異なるのだろう。そして、結局のところ、それぞれの立場の判断は道徳基盤ではなく信念主義主張によってのほうがもっとうまく説明できる。コロナに対するリベラルの反応は、道徳基盤理論では説明が難しいかもしれないが、福祉を重視するロールズ的な現代リベラリズムの観点からすれば筋の通るものであったかもしれない。保守が経済活動を重視したことは、福田恆存による「保守とは横丁の蕎麦屋を守ること」の定義とは矛盾していない。リバタリアンであれば、行動を制限されることとワクチンを強制されることのどちらにも反発するのは当たり前だ。

 重要なのは、信念や主義主張とは感情ではなく理屈であるということだ。結局のところ、わたしたちは生来の感情だけで動く生き物ではないのだし、「乗り手」は「象」に振り回されることなく、きちんと自分の意思によって「象」を動かせているのかもしれないのだ。

*1:拙著『21世紀の道徳』の「幸福論」の部でも、『しあわせ仮説』の議論を参照している。

honto.jp

*2:

gendai.ismedia.jp

davitrice.hatenadiary.jp

econ101.jp

*3:

econ101.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp