道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

左派が「共感」に訴えられない理由(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑤)

 

 

啓蒙思想2.0』では、政治や言論をめぐるアメリカの状況がとにかく「不合理」なものとなっていることが、繰り返し指摘されている。ヒースは、現在における「不合理」を招いた責任は基本的に右派の側にあることを、繰り返し指摘している。右派は大衆の「常識」と「感情」にばかり訴えて、「理性」や「議論」をあからさまに軽視するようになった。このために、右派は「文明」の基本が人間の感情的な本能やバイアスを制度によって抑制したり調整したりすることにある点も忘れてしまい、アメリカの社会に破壊的な影響を与え続けている。

 このような右派の「戦略」に対抗するため、左派の側からも、大衆の感情に訴えるための「戦略」を実施すべきだという意見が出るようになっている。しかし、『啓蒙思想2.0』の第10章「放火には放火を」では、左派が右派と同じ土俵に乗って大衆の「感情」に訴えても効果は期待できないことが論じられている。

 根本的に、左派的な考え方とは「理性」を前提とするものであり、それはどうごまかしても「感情」とは矛盾するものであるからだ。

 

 たとえば、認知言語学者のジョージ・レイコフは、左派も右派と同じように大衆の「共感」に訴えるために、なにかの問題について議論する際にはフレーミングを工夫すればいい、と主張する。しかし、その戦術は成功しない、というのがヒースの見立てだ。

 たとえば、銃規制という問題に対して、銃を持つ権利を支持する右派は「もし銃が違法なら、銃を持つのは犯罪者だけ」というスローガンを用いることで、大衆の感情を効果的に操作してきた。このスローガンは、まず銃を持つ人を「犯罪者」と「そうでない人」に区別したうえで、大多数である後者の部族意識や報復衝動を煽っている。

 これに対して、銃規制を主張する側には、訴えられる対象となる「感情」がほとんどない。「子供が誤って自分を撃ってしまう事件」や「強盗が家の主人を当人の銃で打つ事件」などの特殊な事例を持ち出すことはできるが、特殊な事例であるためにその効果は限られている。銃乱射事件による大量の犠牲者のことを想起させても、銃が規制されていないドイツやノルウェーの事件のことを指摘されて、「銃を規制していてもいなくても乱射事件は起こるのだから、自衛のために銃を所有する権利を認めたほうがいい」と反論される*1。つまり、エピソードに対して別のエピソードを持ってこられて相殺されるのだ。ドイツやノルウェーの殺人率はアメリカに比べてきわめて低いし、銃乱射事件の発生頻度も全く異なるはずだが、エピソードによって感情に訴えようとしているときに「確率」は無力だ。同じく、「銃を所持する人が少なくなることで、警官が危険を感じで市民に発砲する事件が起きる可能性が少なくなる」ことを説得しようとしても、感情的にはピンとこない「確率」が登場することになる。

 

共感は、不随意で、自然に引き起こされ、視覚刺激によって最も強烈に呼び覚まされることからも明らかなように、直感的で不合理な反応だ。なぜ人間がこの反応をするかには明快な進化的理由がある。親の子孫への投資を動機づけるためだ。しかし、このために共感は、悪名高くも範囲が限られている。だから子供、家族、友達、たまに見知らぬ人の順に、その苦しみが強く感じられる。これまた悪名高い特徴だが、共感は、対象を自己と同一化することによってのみ、引き起こされる。だからこそ映画には感情移入できる主役が必要だし、人は大量殺人の統計よりも個人的な苦しみの物語に対してずっと感情的に反応するのである。

(p.319)

 

 銃社会の問題は、「あちらが銃を持って悪いことをしようとするなら、こちらも銃を持って身を守る」という選択が連鎖して、市民の間で「軍拡競争」の事態が起こってしまうことだ。この問題を解決するためには、市民が①自己の利益ばかりを考えるの抑制して、②「自分が銃を捨てたら相手も銃を捨てる」ということが実現すると信じられて、③捨てた後にもし暴力の被害にあったり重犯罪が起こったりしたとしても報復や自衛のために銃を買い戻すことをしない、という三段階の条件を満たすことが求められる。市民間の自発的な合意だけで、そんな事態が成立する見込みは皆無である。だから、市民よりも上位の存在が「相互武装解除」を強制すること、つまり政府による銃規制が不可欠になるのだ。……銃規制を支持する議論の背景には、市民たちに生じるインセンティブや利害の対立を分析したうえで政府の必要性を認識する、このような理路がある。しかし、この理路を、「共感を抱かせるエピソード」のかたちにして表現することはほぼ不可能だ。

 そして、銃規制の問題に限らず、左派の主張とは、個人が持っているインセンティブや感情から生じる問題を解決するために、自己利益の追求や感情にしたがった行動を規制や制度によって抑制させたりコントロールしたりする、というものだ。これは「文明」の基本ともなる考え方であるが、感情には反している。左派の主張は、心で感じるのではなく、頭で納得してしもらうしかない。

 

このような限界を考えると、進歩派がその政治課題を共感に訴えることで実行できるというのは、どれくらい現実的なことなのだろう。リベラルな考えに共感がそれほど大きな役割を果たすというのも明白なことではない。人身保護のような個人の権利まで含めたリベラリズムの基本原理は、共感をよりどころとしている、とレイコフは主張する。よりによって、まずい例を選んだものだ。アメリカで犯罪を告発された個人の権利は、それこそ国民の大多数の直感に反するという理由で、しじゅう攻撃にあっているからだ。この法的保護にはたしかに合理的な基礎があるが、共感に基づいているかどうかは明らかでない。告発された犯罪者の権利を納得できるものにする唯一の方法は、その人物が有罪か無罪かわからないこと、そして実際に罪を犯していたとしても、それはまだ知りえないということを理解することだ。これは理性だけに築くことができる仮説構成体である。多くの人が、レイプ魔や人殺しを弁護するなんてと被告側弁護士を軽蔑する。これを正すには、ちょっと微妙な言い回しを使って、実際にはレイプや殺人の告発を受けた人の弁護をしているだけであることを指摘するしかない。当然、レイプや殺人の告発を受けた人を弁護すれば、結果的に、現実にレイプや殺人を犯した者を弁護することにもなりうる。だが肝心なのは、その人物が有罪だとは事前にはわからないことだ。レイプ犯や殺人犯が誰なのかわかっているなら、裁判をする必要はないのだから。

これは微妙な点なので、レイコフは代わりに、リベラルは共感をかき立ててこの主張にもっと感情的な訴えを加えるべきだと示唆している。当然の反応として、共感って誰に対して?犯罪者?となる。たとえその非難をかわして、誤って告発された人への共感だと言い張っても、なおも単純明快で痛烈な保守のお決まりの非難が待っている。リベラルは犯罪被害者より被告のほうに多分に共感を抱いているというのだ。そのうえ不当に告発された当人も、たとえば軽犯罪者だったりして同情しがたい人物であることがしばしばだ。事件の捜査で警察を結論に飛びつかせ、捜査対象者を犯人と思い込ませるのとまったく同じ習性が、国民に、被告の窮状に同情させないようにしがちである。だから、レイコフの提言はたとえ理にかなっていても、有効な戦略になるかどうかは定かでない。

実際、犯罪を告発された人の法的保護をそれだけ入念にすべき理由の一つは、私たちを不正な有罪判決へ向かわせる認知バイアスがとても強いことだ。つまり、こうした保護を定める必要があるのは、まさに私たちの処罰に対する過度の熱意ゆえである。いろいろな犯罪で有罪にされた無実の人の例を見ると、検察官の動機は概してあれこれ入り混じっている。信念への固執(結論に飛びついて、その後はすべての事実を仮説に合わせにかかる)、確証バイアス(否定的要素を考えないせいで、自説の誤りを立証する証拠をわざわざ探すことをしない)、懲罰への熱意(しかるべき人物が罰を受けることを確実にすることより、犯罪で「誰かが罰を受ける」ことを確実にしたいと強く願う)。そのため私たちは、極度に人為的な「無罪推定」をはじめとして、これらのバイアスに対抗するための精緻な機構を備えている。

犯罪被告人の法的保護を直感的に了解できるような「フレーミング」をすることを不可能にしているのは、まさしくこれらのバイアスである。この法的保護の機能は、ともすると報復的、熱意過剰になりがちな犯罪への直感的反応に対抗し、抑制することだ。だから、この制度は本質的に、合理的な視点からしか説明して正当化することができない。この制度の唯一の機能は、司法制度が現実には正義まがいのものを与えるようになる可能性を抑えるために、直感を抑制することだ。同じことが銃規制にも当てはまる。結局のところ規制の支持は、重犯罪で生じた被害への本能的反応ではなく、集合行為問題の構造に対する認知的洞察に基づいていなければならない。

(p.320 - 322)

 

 レイコフが「フレーミング」でナントカできると思っているは、彼がそもそも「合理的」な思考というものを軽視しており、左派も右派のどちらとも直感に根ざしていると考えているからだ。これはレイコフに限らず、ジョナサン・ハイトなど、とくに心理学者の一部が抱きがちな考え方である。ハイトやレイコフは、合理的な推測から左派的な考え方が生まれるとは信じていない。しかし、ヒースは、ほとんどの問題において、合理的に考えることや左派的な立場を支持することにつながる、とみなしている。

 国家システム、市場経済、近代的な法秩序、道徳の「黄金率」(「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」)のいずれもが、理性に由来している。「自分と相手のどちらもが、互いに合意したルールに従うなら、互いの状況は良くなる」という合理的洞察に基づくものであるからだ。

 

 現代では、一般人ですら、「自分は妊娠中絶は不道徳だと思うけれど、しかし妊娠中絶は合法であるべきだ」といった風に法律と道徳を分離させた考え方ができるようになっている。だが、「常識」を主張する昨今の保守は、法律と道徳を一致させて社会のレベルを近代以前の原始的なものにまで退行させようとしている。

 そして、冒頭で述べたように、右派は「理性」に基づく民主主義的な制度を軽視して、「感情に訴えられるなら真実であるかどうかは関係ない」「論理的にまったくスジが通っていなくても、感情を刺激できたら勝ちだ」と言わんばかりにめちゃくちゃしてしまって、「議論」の土壌すらも破壊してしまった。そのために、左派は理性的な議論によって論敵やオーディエンスに訴えかける機会を奪われている。そして、左派の主張は右派のように「感情」に訴えかけられるものではない。つまり、左派は不利なゲームを強いられているのだ。

 この事態を解決する手段として、ヒースは『啓蒙思想2.0』の最終章で「スロー・ポリティクス」という概念を提示している。……とはいえ、それも理想論的なものだけれど。

 

 上述の議論はすべてアメリカを前提としたものだが、多かれ少なかれ、日本にも当てはまることだろう。具体的に書くとあれこれ言い訳や正当化をしてくる人が出てくるので書かないけれど。

 

 この記事で扱ったポイント(「合理的な考え」は「左派的な立場」を支持することに直結するということ)に関わるヒースの記事は、こちら。

 

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