道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

反合理主義としてのフェミニズム(『啓蒙思想2.0』読書メモ③)

 

 

 ジョセフ・ヒースはカナダ人であるけれど、『啓蒙思想2.0』における彼の問題意識は、ティーパーティーに代表されるように近年のアメリカで不合理で反動的な右派の運動が盛んになっていることだ(原著は2014年なのでトランプの当選以前である。そのため、『啓蒙思想2.0』ではまず「保守」と対峙したうえで、伝統的な保守思想の利点も認めつつ現代における問題点を指摘しながら、「理性」の必要性を改めて提唱する、という流れで議論がすすむ。つまり、『啓蒙思想2.0』では、最終的には左派的・リベラリズム的な主張が支持されることになるのだ。

 とはいえ、ヒースは左派の反合理主義に対しても容赦がない。第8章「ワインと血を滴らせて」で行われている議論は数年前にもこのブログでちょっと取り上げたが、改めて紹介しよう*1

 

 この章の冒頭では、まず、保守派の女性であるサラ・ペイリンによるリベラルに対する難癖が紹介される。そして、ヒースはペイリンを批判したうえで、返す刀で左派の問題点も指摘するのだ。

 

その一方で、アメリカの左派がこの種のテクニックを批判しはじめ、論理の一貫性と合理的な議論を求めているのは、ちょっとおかしなことだ。なにせ二〇世紀で最も容赦ない「理性」批判は、進歩派とされる人たちから出ていたのだから。反合理主義は一九六〇年代カウンターカルチャーのとてつもなく強力な潮流であったし、今日に至るまで左派に、特にフェミニズム環境保護運動に、強大な影響を及ぼしつづけている。いろいろな意味で現在の右派の非合理主義は、左派の戦略を盗んだ結果にすぎない。右派に「真実っぽさ」ができるより前に、左派には「正気じゃなさ(flakiness)」があった。六〇年代の特徴となった独特の知的スタイルだ。どちらも、何が真実なのかを判定するために証拠や影響を吟味するのでなく、真実と感じられることを信じるものである。

(p.245)

 

 思想としては、合理性に対する批判者は右派でありつづけた(ヒューム、バーク、ニーチェ ニーチェ*2ハイデガー)。その一方で、啓蒙思想から共産主義まで、左派は理性と進歩は調和するものと考えていた。この構図が崩れたのは、ナチスの台頭、第二次世界大戦、そして核爆弾を背景とした冷戦の経験によるものだ。組織的で効率的なホロコーストは「理性」が原因であるように思えるし、火炎放射器化学兵器原子爆弾などの殺戮兵器は科学技術の賜物だ。

 

これら二つの害悪に共通していたことは、それが振り向けられるもっと大きな目的には明らかに注意が払われないまま、本質的に技術上の問題を解決するため莫大な量の人類の創意が注がれたことだ。非人道的行為に奉仕する科学という構図は、啓蒙思想と、理性の進歩は人類の改良と切り離せないという啓蒙思想の見方の威信にとって大きな打撃だった。これらの新しい害悪は、理性と科学が世界の善と悪の闘争のなかでせいぜいがところ中立の立場であることを示したようだ*3。そして理性が元来、進歩の力というわけではないことを示したのは確かだった。合理性はもっと道具のように、いい目的でも悪い目的でも利用されうる手段と見なされるようになった。

いっそう厄介なのは、理性は中立ではなく、実はこれら大きな害悪の原因だったのだと主張する声だった。第二次世界大戦での破壊は、人間の生命と価値への根本的な敵意をもって科学技術の進歩が到達した絶頂であるとされた。このことは想像に難くない。科学的方法には客観性と、研究者が感情を排すことが求められるのは、よく知られている。科学実験もまた、徹底した条件の操作を伴う。自然を扱うときには、それもけっこうだが、人間が相手となると問題をはらんでくる。「客観的になること」は「人をモノ扱いすること」だととられやすいし、感情の排除は人間の苦しみへの無関心になりかねないし、操作は支配と管理という形をとりがちだ。

(p.249-250)

 

 科学の「客観性」が含む問題に対する懐疑は、科学の「客観性」そのものに対する懐疑に直結した。かくして、左派は、科学・技術・官僚制・資本主義などの諸々を害悪だとみなしたうえで、その害悪は西洋的な合理性によってもたらされている、と主張するようになったのである。テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』を嚆矢として、セオドア・ローザックはテクノクラシーを批判して、ヘルベルト・マルクーゼは「解放と自由」を重視した方向づけによりまったく新しいタイプの科学と知識を生み出すことを主張したのである。

 定番のパターンは、まず科学的で経済的で工場的っぽい「技術的合理性」を批判したうえで、愛情に満ちていて美しい「ナントカ合理性」を称える、というのが定番のパターンだ。しかし、ヒースによると、「ナントカ合理性」はいずれも直感的でヒューリスティックな思考に基づくものであり、形を変えた反合理主義に過ぎない。

 そして、ナントカ合理性という名の反合理主義がとりわけ多く影響した分野が、一旧六〇年代以降の現代的なフェミニズム運動なのである。 

 

…客観化し、感情に動かされず、技術的合理性はもともと男性的なものであると考えて、内包的で、相互に影響しあい、思いやり深い、もう一つの女性的な合理性とつい対比させたくなることは確かだ。言うまでもなく、この特徴づけは性差によるいくつもの伝統的な固定観念に織りこまれている。女性はどうしてか男性より合理性に欠け、感情的であるという示唆は、何世紀にもわたって女性を教育、雇用、公的生活全般から排除するための大義名分として確立されていた。初期のフェミニストはこの特徴づけに抵抗することで、女性の抑圧と闘おうとした。彼女たちはおおむね正統な啓蒙合理主義を奉じていた。

(…中略…)

この旧式のフェミニズムの中心をなす特徴は、女性を男性と隔たらせたのは生物学上の性質ならぬ文化だと主張することで、性差による固定観念を打ち破ろうとしたことだ。もちろん、(メアリ・)ウルストンクラフトがこれ(『女性の権利の擁護』)を書いていた時代には、人類の「獣」への優位は偉大なことで、「理性」はめざすべき理想だと誰もが信じていた。女性はただゲームに参加したかっただけだ。けれども、理性という理想が、だんだん勇気を吹きこむものでなくなるにつれ、理性と直感の類型的な対比を維持しつつ、直感のほうを持ち上げたくなる誘惑が強まった。男には男の考え方があり、女の考え方は違うということではなかろうか。男の流儀がわけもなく重んじられてきたのは、男がことを取り仕切っていたからにすぎない。女は男の流儀をまねていては、対等な相手としてゲームに参加することは決してできない。対等になるためには、女性自身の流儀を有効と認めるよう要求するしかない。そのうえ、男の流儀は「技術的合理性」に伴って、さんざんくり返されてきた苦しみーーその最たるものは戦争だがーーの元凶なのだから、女の流儀が有効となれば世界はもっとよくなるかもしれない。

(p.253 - 255)

 

 

「女性的な考え方」を重視するタイプのフェミニズムとしてヒースが挙げているのは、神学者であり哲学者でもあるメアリ・デイリーだ。他方でわたしが思い出すのは、このブログでも散々に批判してきた、「ケアの倫理」を提唱するフェミニスト倫理学者たちである*4

 デイリーの思想にせよケアの倫理にせよ、明示的な言語を介した合理的な問題解決システム(理性)よりも、直感とヒューリスティックによる問題解決を重視することになってしまう。これは、解決しようとする問題が複雑であればあるほど、惨憺たる結果をもたらすことになる。感情だけでは複雑な問題を解決することができなかったからこそ、理性は進化してきたからだ。

 また、フェミニズム思想では、だれの意見が正しかったりより優れていたりするかを議論を戦わせることによって判断する、学問における「対抗主義」が「男性的」なモノだとして否定されることがある。その結果、フェミニストは自分たちの確証バイアスを抑止することが難しくなってしまった。自分の意見に含まれる問題を発見する最も有効な手段とは「他のひとに問題を探させて、反証させる」ことであり、これは古代ギリシアの時代から学問の根本にある営みなのだが、フェミニズムはそれを否定してしまったわけだ。

 

社会批判にはつねに陰謀論に堕す危険がある。脳の奥で「なぜこんなことを信じなきゃいけない?」と疑う声なしには、一線を越えるのはほとんど防ぎようがない。そうして、フェミニストは「男中心の社会」の隠された権力と、それが女性の体を支配し、心をプログラム化する能力について論じることに途方もない時間を費やすはめに陥ってしまった。あとから振り返ってみれば、こうしたことはほとんど純然たる陰謀論の理論立てだとすんなり分類することができる。たとえば、ポルノグラフィーを女性への抑圧の土台として論じることに費やした時間とエネルギーを思うと、仰天ものである。インターネットの対等によって一般男性が飛躍的にポルノフラフィーを手に入れやすくなったとはいえ、女性への抑圧の増大は実証されていない(それと同時にレイプ発生は減少してた)ことで、これらの時間と労力はすべて無意味になってしまった。

(p.257)

 

 現代でも、「女性が哲学を専攻しない理由」として「哲学の戦闘的・競争的な議論の風習が女性には受け入れられないのではないか」と言われることが多い。概念工学とフェミニスト哲学で有名なサリー・ハスランガーも、哲学という分野は闘争的(combative)で判断的(judgmental)で超-男性的(hyper-masculine)であると論じており、(英語圏の代表的な哲学分野である)分析哲学では「penetrating」や「seminal」や「rigorous」といった男性的な単語が用いられやすいと指摘していたそうだ*5。また、「ミソジニー」という単語を概念工学したことで有名なフェミニスト哲学者のケイト・マンも、その議論は諸々の紹介を読む限りかなり陰謀論的な風味があるようだ*6

 

 反合理主義に傾倒したフェミニズムに生じたもうひとつの問題が急進化である。フェミニストが改革しようとする対象は法律や法規制などの公的なものに限らず、個人の私的な洗濯や行動も含まれる(男性に家事をやらせる、結婚している女性が夫に経済的に依存しないようにさせる、理系・技術職に進む女性の数を増やす、など)。私的で個人的な領域に変化を起こすことは、公的な制度の領域で変化を起こすことよりもずっと難しく、できるとしても時間がかかる。とくに家庭や家族に関することでラディカルな変革を起こすのは難しいし、逆戻りも生じてしまう。

 

批判者のなかには、これに対しプラグマティズムに舵を切って、法律より文化を変えるほうが難しいとか、昔ながらの男女間の取り決めには真価を認められていなかった利点があったなどと結論づける向きもあった。ところが、正反対の方向に進んだ批判者たちもいた。「急進的な」社会批判を展開しながら社会を大きく変革できなかったことで、もともとの批判に急進性が足りなかったと結論づけたのだ。合理性批判に関しては、自らの誤りは、技術的理性を批判できると考えながら、同時にテクノクラシーで使われているその同じ概念を存続させてしまったことにあった、と多くの人が結論した。本当にものごとを変えるには、人々の意識を根本から改革するには、抑圧された人間の理想と抱負を表明する新しい概念を、つまり新しい言葉を生み出すことが必要なのだ。

(p.257)

 

 「新しい概念や言葉を生み出せば、社会も変わる」といったポストモダニズム的な考えを主張するフェミニストの例としてヒースが挙げるのは、またしてもメアリ・デイリーである。とはいえ、デイリーが活躍したのは1960年代〜1970年代であるが、「言葉が変われば世界も変わる」的な考え方はいまでも現役であるだろう*7

 また、問題の改善が難航していたり時間がかかったりして埒が明かないのを見てヤキモキしたり我慢できなくなったりした学者が、「いつまで経っても問題が解決しないのは背景にある理論が間違っているからで、既存の理論を考え直して正しい理論を打ち立てたら問題も解決されるはずだ」と言わんばかりになるのは、フェミニズム以外の場面でも起こることだ。しかし、実際の政治や経済や社会で起こっている問題の大概は、理論がなんであろうと改善には時間がかかってしまうものなのである。

 

 勘違いされがちなので確認しておくと、この章でヒースが論じているのは、「女性やフェミニストは(男性と比べて)感情的だからダメなのだ」という主張ではない。むしろ、男女には視覚や記憶に関する認知には差があっても、論理的思考能力に男女の差はない、とヒースは強調している。論理的思考とは言語という公的なものを媒介にしているうえ、道具や環境など脳の外側で存続するものであるため、男女で脳に性差があったとしてもそれは論理的思考とは関係ないのである。それなのに女性の感情性を強調してしまう(非合理主義的なタイプの)フェミニズムの問題点を、ヒースは指摘しているわけである。

 

 第8章では、環境保護運動や反ワクチン運動、オープンスクールでおこなわれる「進歩的教育」などの反合理主義の問題も指摘されている。

 この章におけるヒースの結論は以下の通り。

 

もはや明らかなのは、私たちの文化はなりゆきに任せていたら、どんどん合理性から離れていってしまうことだ。合理性を保つには意識的な自覚、介入、指導が必要になる。しかし、これを達成する可能性が最も高い支持者たち、すなわち精神の力で人類を向上させることに関心を持つ進歩的左派たちは、比類ない深さの自己喪失の危機に陥っていた。…

(p.270)

 

とはいえ、左派の反合理主義がこれまで害をなしてきたが、そろそろ終息を迎えそうである。なぜなら左派はどのような形にせよ、つねに進歩という考えにコミットしてきたのであり、進歩は必ずや理性の行使にかかっているのだから。現代の社会経済問題のほとんどは、解決のためには創意も集団行動も求められる複雑なものだ。自分の勘に従っているだけでは、何も起こらない。集合行為問題を解決するには、合理的な洞察が求められる。もっと言えば、このような問題を解決する段になれば、最も重要な制度は国家である。だから、左派の政治と、政府への支持と、理性を用いて人間の条件を改善するという約束のあいだには、必然とも言うべき繋がりが存在する。

(p.270 - 271)

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:ブコメでイヤミ書かれたから修正

*3:スティーブン・ピンカーマイケル・シャーマーとちがい、ヒースはあくまで理性や科学を「中立」としているところは重要だ。たとえば、「それが振り向けられるもっと大きな目的には明らかに注意が払われないまま、本質的に技術上の問題を解決するため莫大な量の人類の創意が注がれたこと」は、現代でも工場式畜産にはいまだ当てはまっている。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

gendai.ismedia.jp

 

flipoutcircuits.blogspot.com

*7:

davitrice.hatenadiary.jp

「批判理論の問題点は、昨今に行われているようなアイデンティティ・ポリティックスを補強してしまい、検閲を行うことに知的な正当化を与えてしまう政治的傾向をもたらすということです。批判理論は、全ての知識は本質的に政治的であり権力関係に還元することができる、と教えます。そうすると、学生たちとっては、自分自身のアイデンティティ・グループの外からもたらされる知識を学ぶ意味は非常に少なくなります。また、言葉とイメージが現実を構築する力の全てを担っており、言葉とイメージを変えることは世界の実際の有り様にも影響を与える、と批判理論は教えます。このことは、ある特定の言葉や画像を禁止することで世の中を良くすることができる、という反民主主義的で非現実的な考えを学生たちに教えることになります。」