道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

ケアの倫理と二層理論/「アイデンティティ哲学」がつまらない理由

 

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 ヘルガ・クーゼ、ピーター・シンガー、モーリス・リカードによる共著論文 "Reconciling Impartial Morality and a Feminist Ethic of Care" (「公平な道徳と、フェミニストによるケアの倫理を調和させる」)を読んだのでメモ的に内容を記録。

 

 この論文では、公平さや抽象性や客観性を重視する「正義」の倫理に対する、当事者同士の関係性や文脈依存性や主観性を重視すべきだと強調する「ケア」の倫理による批判が取り上げられながら、「けっきょく道徳は公平であるべきか(impartial)、偏ったものであるべきか(partial)」ということが問われる。

 この問題に対して著者が提示する解決方法は「二層理論」だ。日々の生活や現場における直観レベルの道徳は偏っていて限定的であるくらいの方がうまく機能するので、その観点からすれば「ケア」のように偏りや不公平を含む倫理も認められる(自分の家族を他の人よりも優先すべき、など)。しかし、複雑な問題に時間をかけて対処したり制度設計をしたりなどの批判的思考が必要となるレベルにおける道徳は公平なものであらばければならない。そして、直観レベルにおけるケアの実践のあり方も、批判的のレベルの道徳(つまり、正義の倫理)による精査の対象とされなければならない。

 著者たちは「調和」と主張しているが、ケアの倫理の提唱者たちからすれば、これは「取り込み」としか思えないだろう。ケアの倫理の存在意義を認めはするものの、あくまで直観レベルという「下位」のものとしての存在意義しか与えない考え方だからだ。……とはいえ、倫理学道徳心理についてまじめに考えれば、結局のところ、著者たちのような結論にしか至るはずである。これまでにも述べてきたように、ケアの倫理は全面的に肯定することがかなり難しい主張であるからだ*1

 

 それはそれとして、この論文では、フェミニズム思想には男女の共通点を強調して公平な取り扱いを求める運動(平等派フェミニズム)と、男女の差異を強調して女性ならではの価値観や経験を重視する運動(差異派フェミニズム)の両方が存在しているということや、二つの派閥の間にあるジレンマについても触れられている。この点に関する著者たちの結論もやはり「二層理論」であり、フェミニズムの原則的な目標(=批判的思考レベル)は「平等派フェミニズム」であるべきだが、それに違反しない範囲内であれば「差異」を強調することも認められる、といったものだ。

 

 実際、「差異」の強調はこれまでにフェミニズムが培ってきた平等に関する達成を台無しにしかねない点があり、取り扱いには注意を要する。「ケアの倫理」は差異を強調するキャロル・ギリガンやネル・ノディングスを元祖としているからこそ、この問題には悩まされているようだ。先日に読んだ『ケアの倫理:ネオリベラリズムへの反論』からも、苦労している様子がうかがえた。

 

ケアの倫理 (文庫クセジュ)

ケアの倫理 (文庫クセジュ)

 

 

 この本のなかでは、ギリガンに関しては肯定的に扱われている。

ギリガンの議論は、「ケア」においてアイデンティティを獲得する女性、認められていない配慮の役割を担う人びとを勇気づけた。彼女が意識したことは、このような女性たちは、自己を犠牲にして他者を援助し、配慮する力を搾取されているということだ。

(……中略……)

ギリガンはみずからの『異なる声』について回想したときに指摘しているが、「ケア」の倫理は根本的に民主主義的であり、多元主義的であって、市場社会におけるジェンダーの二元性と序列に対して抵抗する声である。それゆえ、「ケア」の倫理は、多文化主義的であり、差異を承認する政治なのだ。さらに、「ケア」の倫理は、女性の徳を称賛する自然主義ではなく、フェミニズムの政治闘争に関わる。「『ケア』のフェミニストの倫理は、異なる声だ。なぜなら、それは、家父長制の規範や価値とは無関係だからだ。それは、ジェンダーの二元性と序列に従わず、民主主義の規範と価値を明らかにしようとする。」

(p.35)

 

 それに比べて、ノディングスはずいぶんと否定的に扱われる。

 

ネル・ノディングスは、女性が母親となることを理論展開の基軸にすえる。配慮、他者への関心の価値は女性の価値とされる。その価値は母性愛にかかわる女性の偉大な道徳的感情を表わす。出産、そして母親になることが重要なのだ。女性は母性の価値を実現するロボットであり、その価値は女性の本質とされるから、このイメージから外れる女性は、女性として考慮されない。こういった女性の価値を主張することは異性愛を前提とすることなしにはありえない。

このように配慮の関係を記述することは、道徳の自然主義をめざす愛の倫理のなかに埋め込まれている。配慮する態度は他者を受容する態度であり、その態度が感情移入を可能とする。そして、配慮が自然なこととして他者の立場にたってなされるとされる。すなわち、配慮の関係は、配慮を受ける人の依存する生命に対して、配慮する側の人が権力を行使する関係とは考えられない。

(p.23 -24)

 

 ところで、「民主主義的」で「多元的」で「市場社会」に抵抗する主張ならオッケーであり、「異性愛を前提すること」や「道徳の自然主義」を肯定するような主張ならダメである、ということは、誰がいつ決めたのだろうか?

 本来であれば、民主主義や多元性を肯定する主張を是として、市場社会や異性愛自然主義を肯定する主張を否とするためには、それぞれの項目について規範的な議論を行うことが要請されるはずだ。しかし、著者は「これらがオッケーでこれらがダメなのは、説明するまでもなく、読者も理解しているはずだ」という前提で筆をすすめているのである。

 そして、『ケアの倫理:ネオリベラリズムへの反論』における「ネオリベラリズム」とは、世の中で「ネオリベラリズム」について書かれた大半の著作のなかでそうなっているように、現代社会で起こっている悪い物事をひとまとめにして放り込められる、ゴミ箱のような概念と化している。

 

 たとえば、ギリガンやノディングスが展開した主張は、サイモン・バロン=コーエンの『共感する女脳、システム化する男脳』に代表されるような、現代の発達心理学進化心理学が培った「男性のシステム化思考/対物志向」と「女性の共感思考/対人志向」との対比に関する研究などを参照すればより奥深く面白いものに発展させられそうなものである。しかし、「ケアの倫理」を主張する人たちのほぼ全員がフェミニストであるために、こちらの方向で研究が発展することは望み薄である。なぜなら、「自然主義」はイケないこととされているからだ。彼女らは「女脳」という単語を耳にしただけで、頭ごなしにその研究を否定することだろう。

 

 問題なのは、「ネオリベラリズムはイケないことだ」とか「自然主義はイケないことだ」とかいった発想が、議論を経て提示されているのではなく、無条件の前提となっていることだ。これは、特に哲学の本においては不適切なことである。

 そして、同様の問題は『荷を引く獣たち:動物の解放と障害者の解放』にも通底していた。

 

davitrice.hatenadiary.jp

『ケアの倫理』も『荷を引く獣たち』も、それぞれ、フェミニズム/障害者運動というアイデンティティ・ポリティクスに絡んだ議論を展開している、ということでは軸を一にしている。

 そして、わたしが思うに、これらの本がつまらない最大の理由は、哲学の議論であるくせにアイデンティティ・ポリティクスに主張を引きづられていることだ。何が是とされて、何が否とされるかという前提は、本が書かれる前から運動論的なアジェンダによって定められている。著者たちはそれに配慮して帳尻を合わせられる範囲でしか、議論を展開できない。だから、哲学の本や学問的な本に本来ならあるはずの、議論や思考が自由に展開されることで生じる面白さや豊かさや意外さみたいなものが、まったく期待できないのである。

 

econ101.jp

アイデンティティ哲学」がはらむ問題をもう一つ挙げると、ジョセフ・ヒースが「『じぶん学』の問題」で論じたように、そのアイデンティティの部外者からの批判が差別的・抑圧的なものとして自動的に排除される構造になっていることだ。この構造により、通常の学問的営みにおいては他者からの批判によって修正されるはずの、感情的推論などの「認知の歪み」が修正されずに放置されて、ひたすらエコーチャンバーとなってしまう。

 

 無論、特定のアイデンティティを重視した主張を展開することで、「中立」で「主流」とされていた議論に存在している偏りを暴き出し、修正できる、という生産的な展開が生じることもある(「ケアの倫理」に関しては、たとえばエヴァ・キティによるロールズ批判がそうだ)。しかし、そうだとしてもアイデンティティには批判的視座の一角としての役割しかなく、それそのものを中心した主張を展開することは難しいだろう。やはり、客観性や普遍性を志向した議論がメインとなるべきで、アイデンティティ的な議論は存在するにしても下位ジャンルに留まるべきであるように、わたしには思える。