道徳的動物日記

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理性は自然に反している(『啓蒙思想2.0』読書メモ①)

 

 

ポリティカル・コレクトネス」をテーマとした本の執筆をそろそろ本格化したいので、参考文献のひとつとしてジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』を数年ぶりに読み返しはじめた。

 

 冒頭で気付かされたのは、ヒースによる理性の議論はピーター・シンガーが『話の拡大』で行っていた議論とかなり似たところがある、ということ*1

啓蒙思想2.0』の第一章における、「理性が私たちに備わっている理由」や「合理的思考の特徴」に関する議論は、以下のようなものだ。

 

私たちの理性の能力は、他の目的を達成することを意図した適応の副産物であるに違いない。すなわち、われわれ霊長類の脳は合理的思考用にデザインされてはいない

(p.61 - 62)

 

このことは、啓蒙思想の理想をアップデートするとなったときに非常に重要だ。理性は自然のものではない。きわめて自然に反したものだ。同時にそれは、私たちを動物の心の束縛から抜け出させることができる唯一のものである。となれば、理性には私たちを自然状態から解放する可能性がある一方で、そのプロセスが簡単だと期待できる理由はまったくない。

(p.62)

 

 ヒースによると、理性は言語を通じて機能する。言語とは他人とのコミュニケーションを用意にするために進化したものであり、その最も基本的な用法の一つが、他人に対して指図することだ。また、指図を自分自身に向けて計画を立てれば、自己を管理することにも使える。そして、言葉の文法とは「再帰」などの複雑で抽象的な処理を可能にして、自然の状態ではできない考え方を可能にするものでもあるのだ。

 言語によって成り立つ合理的な思考には、ふたつの大きな特徴がある。まず、合理的な思考は明示的である。合理的な思考は言語によって組み立てられているからこそ、結論に達するにいたる過程を、順序立てて表現して、明確に再現することができるのだ(これは「直感」には不可能なことである)。つぎに、言語とは普遍的だ。言語は公的であるからこそ機能するものであるために、言語のルールは、すべての人にとってだいたい同一である。そのため、その言語によって成り立つ合理的な思考も、公的なものとなる。結果として、自分が「説得力がある」と思うような議論や主張は、多くの場合、他者にとっても「説得力がある」と思えるようなものになるのだ(同じルールに従っているため)。

 

このため人々の脳はとても違っているのに、また分野ごとに能力が大きく異なるのに、誰もがほぼ同じように合理的思考を行う。このたとえはいささか誤解を招きかねないが、人間の理性による思考は、異なるハード環境でも同じように動作するアプリケーションソフトに(またはどのブラウザでも見られるウェブサイトに)似ている、という言い方には一理ある。例として、男と女とでは脳の化学作用、生理機能、発達に大きな隔たりがある。それでも認知の明確な性差が現れるのは、周辺のモジュール式のシステム(たとえば空間回転とか、環境のわずかな変化を探知する能力とか)だけである。男女の脳の違いが騒がれるわりには、男と女が論理的に考えるしかたには意外なほど違いがない。

合理的思考は言語に依存しており、その逆ではないという発見は、相対主義的な帰結をもつと長く考えられていた。実際、ポストモダニズムの大部分とそれに伴う理性への攻撃は、この発見に対する初期の過剰な反応にほかならない。騒ぎが収まってみると、相対主義を裏づける証拠になるどころか、事実はその逆だったことが判明した。世界には数多くの異なる言語があり、つまり多くのさまざまな趣の考えが存在する。それでいて、こうした諸言語に顕著な特徴は、すべて基本的に翻訳可能であるということだ。必要な時間とエネルギーを費やすにやぶさかでない人が学びえない言語というものに、私たちはまだ出くわしたことがない。したがって、理性は言語に依存しているという考えと、理性は普遍的な構造を有するという考えとは何ら対立するものではない。

(p.68)

 

 

 一方で、シンガーが『輪の拡大』でどんなことを主張していたかについては、要約して紹介しているスティーブン・ピンカーの文章を引用しよう(ややこしいな)。

 

私たちの認知機能は、特に必要があってこの方向に進化してきたのではない。だが、ひとたび制限のない推論システムが獲得されると、たとえそれが食料調達や同盟確保といった日常的な問題のために進化したのであっても、その推論システムは必然的に、別の命題の帰結である命題まで受け入れるようになる。あなたが自分の母語を獲得して、「これはネズミを殺したネコです」を理解できるようになると、あなたは必然的に「これは麦芽を食べたネズミです」を理解することになる。「37+24」の足し算の仕方を覚えると、必然的に「32+47」の輪を導くようになる。この芸当を、認知科学者は体系性(システマティシティ)と呼び、言語と推論の基礎にある神経系の複合的な力によるものと見なしている。したがって、種のメンバー同士が互いを理で説く力を持っていて、その力を発揮する機会を十分にもてれば、遅かれ早かれ、彼らは非暴力をはじめとする相互配慮による互恵に気づくことになり、それをさらに広く適用しようとするようになる。

これこそピーター・シンガーが最初に明確化した「輪の拡大」の理論である。私はこのシンガーの比喩的表現を、視点取得の機会が増大したことによって同情の範囲がさらに多様な人間集団に広がったという歴史的プロセスの名称として使わせてもらってきたが、シンガー自身の念頭にあったのは、むしろ感情よりも知性だった。

(『暴力の人類史』下巻、495ぺージ)*2

 

啓蒙思想2.0』では「倫理」や「道徳」が直接的に取り扱われているわけではないが、文明の基本は部族主義や身内びいきなどの自然的なバイアスを理性の力によって乗り越えることである、と主張されている。第二部「不合理の時代」でヒースが論難しているのが保守主義・右翼・ポストモダニスト・(ケアの倫理や差異派フェミニズムを主張しているようなタイプの)フェミニストであるが、多かれ少なかれ、彼らはシンガーのような功利主義者にとっての論敵でもある。

 まあ要するに、心理学や進化論における「感情」に関する議論をふまえたうえで「理性」の優位を主張する、という点ではヒースもシンガーもピンカーも軌を一にしているということだ。

 

 第二章「クルージの技法」では、ダニエル・デネットの議論が下敷きとなっている。

 

人間の理性は、自動車部品で作られたヘリコプターと多くの共通点がある。ダニエル・デネットの所見はこうだ。「(理性の)最も奇妙な特徴の多くと、とりわけその限界とは、クルージの副産物だからということで説明することもできる。クルージとは既存の器官を、奇妙であっても効果的なかたちで新しい目的のために再利用することを可能にしてくれる解決策だ」。デネットがここでクルージという言葉を強調しているのは、これが重要な概念だからだ。この言葉は一般にエンジニア、修理工、コンピュータプログラマーが、根底にある問題を本当には解決しないで何かを機能させるという問題解決法を説明するために用いられている。

(p.74)

 

 第二章で強調されるのは、わたしたちの理性が機能するためには道具をはじめとす流外的な環境が必要とされる、ということだ(拡張された心論とも呼ばれる)。たとえば、ほとんどの人は二桁の掛け算を行うことができるが、そのためには紙と鉛筆を用意してもらって筆算をしなければいけない。だからといってわたしたちの脳がとりわけ不完全な器官だということにはならない。消化器官が機能するためにはもろもろの大腸菌が必須であるのと同じように、脳が機能するためには適切な道具と環境が必要である、ということだ。

 脳にせよ思考にせよ、進化的には生存と繁殖のために進化してきたものである。それとは別の目的のために脳を使用するためには、余計な刺激がなく思考が阻害されない環境が必要となる(静かで音楽も騒音もなく、馴染み深くて、新しいものや注意を弾くようなものがなく、セックスを連想させるものもない環境であり、なおかつ体のどこも傷んでおらず、健康体で、空腹が満たされていて、休息がとれている状況が望ましい)。

 ヒースは、人間とは認知の外温動物であると表現している。トカゲが体温調節のために日光浴をしたり日陰にこもったりして外的環境を利用するのと同じように、わたしたちも認知の能力を(生存と繁殖以外の目的で)機能させるために、外的環境を整えるのだ。