心理学者のポール・ブルームによる『反共感論』については、原著が出版される前にブルームがネット上で公開していた記事についてこのブログで紹介したことがある。ピーター・シンガーによる『反共感論』の書評も翻訳して紹介した。また、ブルームと同様に道徳的判断における理性の役割を強調する論者であるジョシュア・グリーンについての記事もいくつか書いている。
他にもこのブログの様々な場面で書いてきた通り、私は、道徳や政治における判断については「理性」を重視する立場だ*1。
しかし、様々な場面での議論を眺めていると、自分のことを「理性」の側に立っているという風に称しながら他者の主張を「感情」的だと批判する人たちが、どうにも快く思えない。本来なら自分も支持できるような主張を行なっているはずの「理性」側の人々には賛同できず、むしろ、「感情」的だと批判されている側の人々に同情や共感を抱いてしまう場面が多い。
『反共感論』を再読しながら考えていたのだが、個人が「判断」を行う際には感情を抑制して理性を尊重することは重要なのであるが、「議論」の場において理性/感情の二項対立を持ち込むことは筋悪である、という風に思うようになった。今回の記事では、現状の私の考えを整理してみたい。
たとえば、自分自身の利害に関わることでは、感情に左右されずに理性的に判断するようにこころがけた方が良いだろう。身体的な健康や人間関係にかかわる事柄にせよ、キャリア選択やお金の投資などの経済的な事柄にせよ、特に結果が出るのがかなり先であったり影響が長期に及んだりする場合には、感情は判断の指標として適切でないことが多い。基本的に感情とは短絡的で視野の狭いものであり、賢明な判断を行うためには、事実やデータを参照して長期的な結果について予測するなどの理性的な営みが必要となるのだ。
他人の利害にかかわる判断であれば、なおさら理性が重要となるだろう。自分の浅慮によって危害を受けるのが自分だけであれば自己責任で済ませられるが、他人に対して経済的なり健康的な危害を与えかねない判断をする際には、倫理的責任が発生する。また、身近な人をケアするにせよ遠く離れた外国の人々を援助するにせよ、理性を行使した方がより効果的に相手に利益を与える判断を行うことができる。ブルームやピンカーの著書が道徳に関するものであることや、シンガーによる効果的利他主義の提唱など、理性を強調する議論が倫理に関する話題とセットになりがちなのは、このことが理由だ。
医療や立法に関わる仕事をしておらず、募金やボランティアなどをしようとも思っていない人なら、他人の利害に関わる判断をする機会は限られるかもしれない。しかし、民主主義社会に暮らしており投票権も持っている人であれば、選挙の際には誰もが投票を通じて(または、「投票しない」と選択することを通じて)誰もが他人の利害に関わる判断を行うことになる。そもそも、倫理と政治は隣接した分野であるのだ。かくして、政治学者であるジョセフ・ヒースも『啓蒙思想2.0』などの著作で理性の重要性を説くことになる。
倫理とも仕事とも関わらないビジネスなどの場における判断においても理性的な判断を重視すべきであることは、言うまでもないだろう。…上述したように、個人が行う判断や意思決定という点においては理性は感情よりも重要な役割を果たすべきである、と言い切ってよい。たまに「いや、理性が致命的な判断を導くこともある。理性ではなく感情に従った判断の方が賢明で真っ当なのだ」と主張する人もあらわれるが、特殊な事例を一般化した議論を行ったり「理性」に対して悪印象なレッテル貼りをする藁人形論法を行ったりなど、論証に難のある場合が多い*2。「感情的な判断よりも、理性的な判断の方が優れている」という主張は、基本的に正しいのである。
しかし、ここまでは「自分はどう判断するべきか」ということについての議論だ。
私が見たところ、「感情/理性」という二項対立の問題が複雑になるのは、「他人はどう判断するべきか」あるいは「他人はどう判断しているか」ということについて、誰かが主張をしはじめたときである。つまり、一人で行う判断から、他人の判断について誰かが口を出すことで議論がスタートしたときに、物事はこじれだすのだ。 感情/理性の問題が紛糾するのは、「理性」の側に立っている人が他人の判断を「感情的だ」と批判したことがきっかけである場合が大半だ。その批判が的を得ているかどうかは、場合による。実際に理性をほとんど行使せずに感情に任せた判断をしている人もいるだろうが、理性は行使しているが「問題となっている物事のどの側面を重視するか」や「リスクとリターンのどちらに重みを置くか」ということの優先順位などが批判者とは異なっているだけ、という場合も多々ある。後者の場合には、批判された人は反論をするだろう。また、前者の場合であっても、批判の仕方やタイミングが不当であることは往々にしてあるのだ。
さらに、「理性」の側に立っている批判者たちの判断も実はさほど理性的ではない、という場面も多い。「かわいそうランキング」という言葉を用いて他人の判断を批判する人たちの判断にも偏りがあることについては、以前にも書いた。「表現の自由」の支持を標榜する人たちが他人の主張を「お気持ち」だとして批判する場面もよく見かけるが、批判されている人たちは表現の自由と他の要素(女性や人種的マイノリティが表現によって受ける精神的・社会的な被害、など)との双方を考慮している一方で、批判している人たちの方は表現の自由のみを重要視した原理主義的な主張を行っている場合も多いようだ。
ワクチンの副作用や放射能などのリスク評価をめぐる議論となると、事態はさらに複雑になる。誤った科学的知識に基づいた主張や科学的知識を無視した主張が拡散されると、不特定多数の人が被害を受ける事態になりかねないことは確かだ。しかし、ワクチン接種や原子力発電所の問題においては科学的知識だけが問題となるのではなく、政策や民主的手続きなどに関する政治的・倫理的な論点も存在する。ここでも、「感情的」だと批判されている側がより複雑で広い視野で問題を捉えているのに対して、「理性的」だと主張している側は自然科学的なリスク評価にしか注目していない、という捻れた構造になっている場面がありえる。
反ワクチンや放射能をめぐる議論では、「感情的」だとされている側の主張を哲学や社会学などの人文系の学問に携わる人が擁護して、自然科学系や経済学系の側の人々に批判・嘲笑されることが多々ある。私自身も、大概の場面では後者の主張に同意する側だ。とはいえ、「理性」派が「感情」派の主張をあまりに浅薄に捉えて短絡な批判をするために、擁護や反論が必要とされる場面があるのは事実だろう。そして、他の学問分野に比べても物事について総合的かつメタ的な視野で捉えることに長けている人文系の学問がその役割を担うのは、自然なことである。…とはいえ、人文系による反ワクチンや反原発の擁護が、結果的に、悪意があり人々の経済的利害や生命にもかかわるデマの拡散を間接的に支えてしまうことにもなってしまう。
また、人文系の学問に携わる人々にたまに見られるのが、「理性的な判断なんて幻想である、すべての判断は感情的なものだ」「純粋な科学的判断などありえない、すべての判断には政治的な要素が存在する」というタイプの「開き直り」的な主張である*3。…だが、このような「開き直り」こそが人文系の主張の説得力を失わせて、「理性」派が「感情」派を軽んじることに根拠を与えてしまっている面もある。
かように事態は複雑だが、その原因は、人間の心理的傾向の中でもごくシンプルで基本的なものであるように思われる。つまり「自分の判断は考えたうえでの理性的なものであるように感じられるが、(自分と一致しない)他人の判断は考えなしの感情的な判断のように思えてしまう」ということだ。
人間には、実のところは感情的な要素が強い判断であるとしても、自分の判断にはもっともな理由があると後付けで合理化する傾向が備わっている*4。そして、特に相手が自分とは異なる意見を持っていたり自分とは敵陣営であったりする場合には、相手の主張を過小評価して非・理性的なものだとみなす傾向も備わっているだろう。「他人の目にあるおがくずは見えるのに、自分の目の中にある丸太は見えない」という傾向は普遍的なものなのである*5
対話や理解を目的にした建設的な議論を行いたいのなら、自分の側に存在するかもしれないバイアスについてまず検討した方がよいだろう。自分の主張を理想化して実際以上に「理性」的なものだと見なしていないか、または相手の主張を過小評価して「感情」的なものだと見なしていないか、議論を始める前にまず自己省察をしてみるのが賢明な態度だと言えるのだろう。
…しかし、「論破」を目的としたり第三者に対するパフォーマンスを目的とした議論である場合には、このような自己省察をすることはむしろ自分を不利にしてしまう。最初から妥協するつもりもなく自分の意見を繰り返し続けて、相手の意見は愚かであると批判し続けたほうが、議論のオーディエンスである第三者に対して「自分の方が正しい」と思わせやすい。長々と書いてきたが、実のところ、根本的な原因はこの辺りにあるのかもしれない。