道徳的動物日記

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「自己責任論」を批判するのはいいけれど…(読書メモ:『高学歴女子の貧困』)

 

 

 貧困状態にある高学歴女性が現状を綴る私的なレポートやエッセイ的な文章と、高学歴な女性が男性よりも貧困になりやすい構造や女子と高等教育との歴史などについての分析を行う文章などが混在する本。

 タイトルは「高学歴女子」に的を絞っており、女性ならではの苦労や制度的・慣習的な障壁について書かれている部分が本書のメインとはなっているのだが、博士号の取得のしづらさや研究職への就業の困難さなど、男女問わず高学歴全般に関わる問題も扱われている。そういう点では、生活や就労に苦しんだことのある高学歴男性であっても、我が身のことに引き付けながら読めるかもしれない。

 博士課程に進んだ人々の就業率や収入の低さなど、数字で表せられる論点についてはネットでも散々取り上げられているのでいまさら本で読んでも仕方がないという感じはあったが、数字で表せない部分の分析については興味深い箇所もあった。たとえば、以下の箇所。

 

教育を通じた階層の上昇移動をモデル化した、ラルフ・H・ターナーという学者の「庇護移動」という概念に照らせば、「引き立てられる」ことの重要性を理解することはさほど難しいことではない。曰く、エリートの地位とは「勝ち取る」ものではなく「授けられる」ものであり、エリートの選抜基準とは、その候補者のなかにエリートらしい性質、つまり態度や関心が認められるかどうかに置かれている、というのだ。

そのような基準で選ばれるからには、そこで選ばれた候補者は、彼らを選び出したエリート自身の若い頃にそっくりな姿でなければならないことになる(エリートがしばしば保守的なのは、このためなのだと考えられよう)。

(「第二章:なぜ、女性の貧困は男性よりも深刻化しやすいのか?」大理奈穂子、p.87-88)

 

  上記の引用箇所は、この本の文脈では「年長者の男性の割合が高いアカデミアでは、女性よりも男性の方が年長者から引き立てられやすく、学会発表などにおいても出世においても女性の方が不利となる」という文脈で書かれている。とはいえ、女性が指導教員をしているゼミや女性の多い学問分野では逆のことが起こり得るだろう*1。個人的にも、大学においても企業においても自分自身が目上の人から「庇護される」ようなキャラクターでは全くなくてそのせいで色々と苦労しているので、共感できた。

 

 さて、この本のAmazonレビューを見てみると、かなり辛口の評価が多数寄せられている。それらの評価を要約してみると「"高学歴な私が貧困になるなんておかしい"という傲慢が見える」「社会に適応したり一般的な労働で稼ごうとするなどの努力もできない甘ったれが、現状や制度についてぐちぐちと文句を垂れて流しているだけの本だ」というところだろうか。…実際、特に第四章のエッセイを読んでいると「制度の問題ではなくて、本人の社会適応能力や意志や人間性の問題だよなあ」と思わされてしまうところが多々あった。一般的な仕事に就職して真っ当に頑張っている人からすれば「世の中ナメているんじゃないよ」と思われても仕方ないだろう、という気がする。世の中をナメている男性よりも世の中をナメている女性の方が貧困になったり生活が困難になるリスクが高い、ということであればそこに性差別を見出して論じることはできるかもしれないが。

 

 社会問題を分析する本としては当たり前であるが、この本では「制度」に関する言及が多々ある。特に、"…問題の所在を「社会や制度の側」に見ることをせず、すべて「本人のせいーー女であるせい」ということにしてうやむやにしようと"することを批判するなど(p.44)、いわゆる「自己責任論」に対する批判が通底している。

 労働や経済の問題を論じるうえでは個人レベルに問題を矮小化する自己責任論は筋悪であり、制度などに注目した大局的な議論を行うべきである、という点には私も同意する。しかし、制度の問題点を指摘する客観的な分析も、それ自体が真っ当であったとして、甘えや社会不適応性が露骨に全面に出ている主観的なエッセイと並列して掲載されていると、厚かましさを感じるというか「やっぱり自己責任の要素も重要だよなあ」と思わされてしまうものである。

 とはいえ、私自身も社会に適応するのがかなりヘタクソなタイプであるし、「高学歴な俺が貧困になるなんておかしい」と内心で思っている気持ちがなくはないし、「世の中をナメている」といつ批判されてもおかしくないような人間だ。なので、この本に掲載されているエッセイについてもどちらかといえば共感や同情が抱けた。…しかし、元々から社会不適応であったり甘えたメンタルの持ち主が「自己責任論批判」という武器を手に入れてしまうと、自分のことを棚上げして社会に責任をなすりつけることが正当化されてしまうので社会不適応性や甘えがさらに強くなる、という現象はたしかに存在すると思う。社会問題について客観的に考えるときには「自己責任論」を批判することは正しくても、自分の問題について考えるときには多少は自己責任論を受け入れるくらいのスタンスの方が、真っ当で健全な考えができるものかもしれない*2

 

*1:もちろん、そのようなゼミや学問分野の数が少ないこと自体が、総合的に見れば女性の方が不利となっている理由ではあるのだが。

*2:「自己責任論」批判の良し悪しについては、以下の記事でも触れている。

davitrice.hatenadiary.jp