道徳的動物日記

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社会は「男性の幸福度の低さ」について配慮するべきか?

 

 

 最近はキムリッカの『現代政治理論』をじっくりと読んでいたのだが、最終章の「フェミニズム」の章で、近頃の日本(のネット上)における議論にとっていろいろと示唆に富む箇所があったので、かなり長くなってしまうけど引用する。

 フェミニズム政治理論の一種である「ケアの倫理」アプローチに対する批判的なコメント、という文脈の文章であるが、政治や倫理一般にひろく当てはまる議論であるだろう。

 

 

なぜ正義を唱える理論家は、他者への責任を公正の要求に限定することが重要だと考えるのであろうか。仮に、主観的苦痛が常に道徳的な要求を呼び起こすとするならば、倫理的ケアにかかわる事柄として、私のあらゆる利益に注意を向けるよう他者に期待するのは正当である。しかし正義を唱える理論家にしてみれば、このように言うことは、自分自身の利益の一部については全責任を負わなければならない、という事実を見落としたものである。正義の視点によれば、公正にかかわる事柄として、自分の利益の一部に注意を向けるよう他者に期待するのは、たとえ他者自身の善の追求が制約されたとしても正当である。だが、自分の利益すべてに注意を向けるよう期待することは正当ではありえない。自分自身の責任の範囲内に属する利益が存在するからである。自分の責任である事柄に注意を払ってもらうため、他者に自らの善の追求をやめるよう期待するのは不当であろう。 

 

友人が必要としている場合、自分の時間や金銭を寛大に差しだすが、その支出にまったく無頓着である人物を思い浮かべてほしい。その人物は、(不必要に)しばしば援助を費用とするようになり、自分の無思慮の結果から救いだしてくれるよう他者に頼ることになる。この場合、彼が援助を期待するのは正当であろうか。われわれは、彼を本人の不注意から救いだす道徳的義務を感じるべきであろうか。主観的苦痛のアプローチからすれば、彼の苦痛に注意を払わないのは無責任である。主観的苦痛を感じているのであれば、たとえその苦痛が本人の無計画性や浪費によるものであったとしても、注意を払わなければならないからである。だが正義の倫理によれば、あらゆる苦痛から救ってくれるよう他者に期待するほうが無責任である。行動の責任は本人にあり、自分の不注意の代償を他者に支払わせようとするのは不道徳だからである。

 

以上のように見てみれば、主観的苦痛と客観的不公正との論争は真の論争である。この論争には、われわれ自身の福利にたいする責任について、決定的に異なる立場が存在するからである。ケアを唱える理論家に言わせれば、客観的不公正を重視するならば、道徳的責任の放棄を容認しかねない。というのも、客観的不公正に従えば、他者への責任が不公正の告発に限定されるため、他者の避けえた苦痛は見落とされるからである。正義を唱える理論家に言わせれば、主観的苦痛を重視するほうが道徳的責任の放棄を容認している。というのも、主観的苦痛を重視するならば、賢明さに欠ける者が自らの選択の代償を支払うという当然のことを否定し、責任を持って行動している者に不利益を被らせ、無責任な者に得をさせるからである。

 

したがって、ケアと正義との論争は、責任と権利との論争なのではない。それどころか責任は正義の倫理の中核にある。他者への要求が公正へと限定されるのは、他者が権利を有しているためではなく、私が責任を有しているためである。他者への責任とは、一つには、自分自身の願望や選択の代価として責任を引き受けることである。ロールズによれば、彼の理論は「自己の目標への責任を引き受ける能力に依拠している」(Rawls)。反対に、道徳的義務を客観的不公正ではなく主観的苦痛と結びつける者は、責任ある行為者という理念を否定しなければならない。「人々に自分の選好の責任を負わせ、できる限りのことを要求するのは、不正とはいわないまでも、理に適ってはいない」(Rawls)と言うべきである。ロールズは、われわれには責任能力が備わっていると考えている。彼の理論では、所得に見合った生活をし、正当に期待しうる所得に自らの将来の見通しを合わせるよう求められる。その結果、不注意で放埒な者が、責任を持って生活してきた者に、自分の無思慮の代償を支払ってくれるよう期待することなどできない。「彼の洞察力や自己規律の欠如によってもたらされた結果から彼を救いだすために、人々の所有物を減らすべきだというのは、不公正と見なされる」(Rawls)。いかなる主観的苦痛にも援助の手をさしのべなければならないならば、自身の福利に責任を持ってきた者は、不注意であったり放埒であった無責任な者を助けるために、常に犠牲を強いられることになるだろう。これは不公正以外の何ものでもない。

 

主観的苦痛が常に道徳的な要求をもたらすという見解は、不公正なだけでなく、抑圧を隠蔽する可能性がある。主観的苦痛は期待と結びつき、不正な社会は不正な期待を生みだすからである。伝統的な婚姻関係を考えてみてほしい。この関係では「女性が男性に仕えるようには、男性は女性に仕えない」(Fyre)。男性は女性に、自分のニーズに対応してくれるよう期待するため、家事労働の分担を求められるたびに主観的苦痛を感じることになる。実際「搾取や抑圧の関係を変革しようとすれば、一部の者は何かを奪われざるをえない。彼らは慣れ親しんできた気配りや奉仕や快適さを奪われるかもしれない。そしていくらかの苦難や困難をケアの欠如と感じるかもしれない(Grimshaw)。抑圧者は、いかなる特権の喪失にも敏感であろう。逆に被抑圧者は、抑圧に主観的苦痛を感じないよう社会化されている場合が多い。すなわち被抑圧者は、獲得できないとわかっている物をあらかじめ望まないように選好を適応させているのである。

 

こうした適応的選好形成の形成過程が見出せる場合、道徳的な要求の根拠として主観的苦痛に焦点を合わせるならば、抑圧は常に見えにくくなってしまう。他方、正義の観点からすれば、抑圧者の主観的苦痛は不公正で利己的な期待から生じたものである以上、道徳的に何ら重要性を持たない。正義の要求は、人々の実際の期待によってではなく、正当な期待によって決定される。以上の理由によって、正義を唱える理論家は、客観的不公正が存在しない場合に主観的苦痛が道徳的重要性を持たないだけでなく、たとえ主観的苦痛をともなわない場合でも、たとえば人々が抑圧を受け入れるよう社会化されている場合でも、客観的不公正は非道徳である、と主張するのである(Harding)。この意味において、道徳的に妥当なケアや共同体は、正義に関する条件や判断を前提としている(Kohlberg)。

 

(p.588-591)

 

 ネット上などにおける「弱者男性論者」の主張のなかでも定番の論法のひとつが「男女の幸福度を調査すると、日本では女性のほうが幸福度が高く、男性のほうが幸福度が低い」という点を強調するものだ。類似した議論としては、「男性のほうが女性よりも自殺率が高い」という点を強調する場合もある。いずれにせよ、男性の幸福度の低さや自殺率の高さが、「男性は女性よりも差別されている」という主張や「男性は女性よりも公的な支援を必要としている」という主張の根拠とされる。

 しかし、引用した議論で示されているように、「幸福度の低さ(≒主観的苦痛)」が支援を要求する根拠になるとは限らない。男性が不幸になっているとしても、それは男性たちは(男女平等の社会で認められないという意味で)不当な期待やニーズを抱いているからかもしれないし、男性たちが無思慮な行動や生活をしてきた結果であるからかもしれない。

 一方で、女性の幸福度が高いからといって、女性が差別されていないとは限らない。女性は差別的な社会によって「適応的選好」を形成してきて、いろいろなものを無意識または意識的に諦めてきたから幸福度が高くなっているだけかもしれないからだ。

 

 このあたりの議論は一昔前から存在するものであり、反論も提出されている。

 たとえば、男女平等で自由な社会でもやはり多くの女性がキャリアよりも家庭を優先していることなどを理由にして、「差別的な社会に適応して形成された選好」と思われていたものの一部は、一般的な女性や多数派の女性が"自然に"抱いていた選好である、と論じることができるかもしれない。

 もちろん、男性の幸福度の低さや自殺率の高さは社会のせいである、と論じることもできるだろう(実際に弱者男性論の多くではそう論じられている)。男性はキャリアを積むために仕事をこなしたり商売を成功させるために市場で競争したりなどの経済活動をするように社会に(または女性に)強制されているから、不本意であったり本人に向いていなかったりしても長時間労働をしたりリスクをとったりせざるをえなく、そのために心身に負担がかかったり不安やプレッシャーに苛まれたりして、結果として幸福度が低くなったり自殺したりしている……かもしれない。

 

 とはいえ、すくなくとも、「男性の幸福度の低さ」という事実と「男性に対する公的な支援がなされるべきだ」や「男性は差別されている」という主張をつなげるためには、「男性の幸福度の低さ」の原因が社会にあること、つまり主観的苦痛であるだけでなく客観的不公正であることも示さなければいけない。そして、弱者男性論の主張では、しばしばこの過程が抜かされてしまっている印象がある。

 また、実際問題として、社会的なプレッシャーも男性たちの幸福度の低さの一因となっているだろうが、男性たちが無思慮な行動や自己破滅的な生き方をしやすかったり充たされる可能性の低い選好を抱きやすかったりするところも一因になっているだろう。自殺率の高さについては、男性の生物学的な傾向と、学校などの環境において男性たちが若い頃から身に付ける行動様式が原因であるとするトマス・ジョイナーの議論を、何度か紹介したことがある*1。「生物学的な傾向は男性たち自身が選んで身に付けたものではないので、男性たち自身に責任はない」と主張することも可能かもしれない。……しかし、「生物学的な傾向」から生じる不幸について、他の属性(女性)の人たちや"社会"が配慮する義務を負っているわけでもないだろう。行動様式についても、それを身に付けたのは環境のせいであり男性たち自身の意識的な選択によるものではなかったとしても、現実的な問題として、個人の行動様式を"社会"が介入して変えることは難しく、変えるかどうかは本人に委ねられている。

 その一方で、日本では女性のほうが男性より幸福度が高く自殺率が低いとしても、「日本では女性が差別されている」と言える論拠は大量にある。

 進学校や医学部などの受験における差別、ハラスメントや性犯罪の被害への遭いやすさ、夫婦別姓が認められていないこと(姓を変えるのは大半は女性の方なので実質的には女性差別)、などなど。ハラスメントや性犯罪については直接的な加害行為であり、倫理学的にも政治理論的にも、「加害行為は問題であって是正されるべきだ」と論じることは簡単だ。また、受験や姓(戸籍)などの制度に関する問題についても、単に女性が主観的苦痛を感じているだけでなく客観的不公正でもあると主張することは簡単なはずである。

 

 つまり、多くの場合において、女性の感じている不幸は不公正不正義が原因で生じたものであると主張することは容易である。それに比べて、男性が感じている不幸が不公正や不正義が原因で生じたものであると主張することは難しい。難しいといっても、がんばれば、やはり不公正や不正義が原因で生じていると立証することができるかもしれない(わたしも、ある程度までだが、男性の不幸は不公正や不正義が一因であると考えている)。

 いずれにせよ、その「難しさ」は理解しなければならないだろう。

 

 政治理論や正義論に触れたついでに指摘しておくと、弱者男性論で言われがちな「女性の上昇婚志向」問題についても、少なくともリベラリズムでは、「収入の高い女性は自分よりも収入の低い男性と結婚すべきだ」と要請したり促したりすることは、不可能であるはずだ。

「どんな相手と結婚して、共に生活を過ごすか」ということは個々人に委ねられて個々人が追求すべき「善の構想」のひとつである*2。多くの女性が「年収の高い男性と結婚したい」と考えていて、多くの男性が「だれでもいいから女性と結婚したい」と考えていて、前者と後者とのミスマッチのために年収の低い男性が結婚できず、そのために不幸になったり苦しんだりするとしても、その状況を「不正義」と表現することはできないだろう。ただ個々人が善の構想を追求した結果、「一部の人たちの構想は叶ったが、別の人たちの構想は叶わなかった」という残念な状況であるというだけだ。

 ましてや、結婚できない男性たちの幸福度が低くなったことを配慮や補填などを女性たちに要求することはできない("社会"に要求できるかどうかも難しい)。大体の人は、そのような要求は理に適っていないと判断するはずだ。

 

リベラリズム批判」はもうずっと何十年も前から定番の主張であるが、『現代政治理論』を読んでいると、リベラリズムというのは理に適っていることを重視して、適正な要求と不適正な要求を区別するのに長けている理論であることに気付かされる。「無知のベール」に基づいて考えるロールズの議論も、必ずしもアメリカ的なものであったり西洋中心的なものでもないだろう。日本人であっても多くの人は「そりゃそうだ」とか「もっともだ」とうなずくような議論が展開されているように思える。

 キムリッカが「自分の責任である事柄に注意を払ってもらうため、他者に自らの善の追求をやめるよう期待するのは不当であろう」とか「ロールズは、われわれには責任能力が備わっていると考えている。彼の理論では、所得に見合った生活をし、正当に期待しうる所得に自らの将来の見通しを合わせるよう求められる。その結果、不注意で放埒な者が、責任を持って生活してきた者に、自分の無思慮の代償を支払ってくれるよう期待することなどできない」とか書いていることも、やはり重要だ。これらの箇所は、一般の人ならごく真っ当な主張と受け取るもののはずである。

 ……しかし、昨今では右も左も"自己責任論"批判に明け暮れて、責任という概念が解体されしきっているために、一部の文系アカデミアやネット上の議論では個人の責任について議論することすらもご法度になってしまっている*3

 とはいえ、「自己責任」がご法度になっているのはあくまで新書本とか雑誌とかTwitterとかはてブだけの世界であり、実際には、政治においても法律においても会社においても友人間や家族においても「自己責任」は存在しており、それに基づいて諸々の制度や規則が運用されていたり、人間関係が築かれたり互いを評価しあったりしている。責任抜きで社会や人間関係は存在できないのだ。

 福祉が削られるとか貧困者に対する同情が薄くなるとかで「自己責任社会」とか「ネオリベラリズム社会」とかが到来することはわたしも問題であると思うけれど、それに対抗するための方法とは、「責任」という概念を解体することではなく、むしろ「責任」という概念についてしっかり論じることで個人の責任の範囲内にあるものとそうでないものとの境界線をきっちりと引くことであるはずだ*4。まともな人たちの大半は昨今流行の極端な「自己責任論批判」には取り合いもしないだろうし、まともな人たちに取り合われない議論なんて存在意義がない。

 また、これは以前にも指摘したことであるが、弱者男性論は昨今のフェミニズムサヨクの議論の「ミラーリング」をしているがゆえに、論点や問題意識は重要であっても議論の内実は不毛なものになっていることが多い*5。理に適った有意義な議論を展開するためには、弱者男性論もリベラリズム(と自己責任論)の観点を取り入れるべきだろう。そして、同じことは、最近のフェミニズムにも当てはまるはずだ。

 

*1:

gendai.ismedia.jp

*2:

plaza.umin.ac.jp

plaza.umin.ac.jp

*3:サンデルも『実力も運のうち』のなかで「正当な期待に対する資格」に関するロールズの議論や、"自己責任論"を批判している

davitrice.hatenadiary.jp

*4:同様の主張は、山形浩生が18年前のイラク人質事件の当時に行なっている。

cruel.org

*5:

davitrice.hatenadiary.jp