「公正世界仮説」についてはいまや多くの人が知っていることだろう(小賢しいネット民好みの理論でもあるし)。しかし公正世界仮説(本書では公正世界信念と書かれており、また公正世界誤謬と呼ばれることもあるらしい)には二種類あるということは、わたしは本書を読むまで知らなかった。
まず1つ目は、「内在的公正世界信念」です。良い行いをすれば良い結果が、悪い行いをすれば悪い結果がもたらされる、と信じる傾向です。この考え方は小さな頃からの学習や経験を通して、多くの人に身についていきます。
(p.68)
2つ目は「究極的公正世界信念」です。今、何かしらの不公正に巻き込まれて被害を負っていても、将来必ず、何らかの形で埋め合わされるに違いないと信じる傾向を指します。この信念は、信仰や宗教とも関わりがあります。宗教は、信仰の対象はさまざまだとしても、死後の世界(たとえば、天国や地獄)や、生まれ変わり(輪廻転生)の教えをしばしば提供します。そこに共通するのは、長期的な視点です。被害の回復は、いつになるかわからないし、時に現世ではなく来世になるかもしれないけれど、きっとその日がやってくるのだと考えます。
(p.70)
また、「不公正世界信念」というのもあり、日本人はこの不公正世界信念の傾向が強いそうだ。
最後に、公正な世界の存在を否定する考え、すなわち、「不公正世界信念」にも触れておきましょう。直感的に考えると、公正世界信念が弱い人は不公正世界信念が強い、と思われるかもしれません。でも実は、両者の関係性は研究によってまちまちで、まだはっきりとした関係性は見いだせていません。その背景には、自分が自分自身にとってふさわしい結果を得ているかという公正感と、自分以外の周囲の人たちがそれぞれにふさわしい結果を得ているかという公正感にズレがあることなどが想定されています。
(p.74 - 75)
また、本書では公正世界的な推論を行う程度に関するアメリカ人と日本人との比較研究も紹介されている。それによると、日米のどちらでも、過去に窃盗を犯した人(悪い人)の不運については内在的公正推論が行われて(「悪いことをしたからそんな目にあうんだ」)、周囲から尊敬されている人(良い人)の不運については究極的公正推論が行われる傾向にあるそうだ(「いつか埋め合わせがきっと来るさ」)。
しかし、日本人はアメリカ人に比べると、良い人と悪い人のどちらについても究極的公正推論を行いづらい。また、悪い人に対する内在的公正推論の程度は、日本人のほうが激しい。なお、宗教(ほぼキリスト教)を信仰しているアメリカ人は無信仰のアメリカ人よりも悪い人に対する内在的公正推論の程度がかなり激しい一方で、宗教(一番多くは仏教)を信じている日本人と無信仰の日本人とではほとんど違いがなかったそうである。
本書の著者は、(だれかの不運に関する)究極的公正推論はおおむねポジティブに働く…相手が将来に幸運を得ることを予期する考え方なので、相手が傷つくわけではない…が、内在的公正推論は無関係の物事に因果関係を想定することで相手を傷つける…いわゆる「自己責任論」をもたらして困難な目にあっている人や弱者に対するサポートを減らす、という点を危惧している。
文化差といえば、本書の第1章では物事の原因に関して「内的帰属」するか「外的帰属」するかという原因帰属の理論や、それの文化差なども紹介されている。ここの議論については、過去に読んだロバート・ニスベットの『世界で最も美しい問題解決法』を思い出した*1。
さて、ここからは本書に対するネガティヴな感想となるが……最近のちくま(プリマー)新書の例に漏れず、本書についても、やはり説教臭さや規範意識が鼻についてしまった。
前半は「人間の心理にはこういう傾向がありますよ」と知識を紹介しつつ「傾向に左右されて不合理な考え方をしたり自他に問題を引き起こさないように気をつけましょうね」といった常識的な注意をするという感じなのだが、ステレオタイプを扱った第4章や現状肯定心理を扱った第5章からは差別や格差や気候変動の問題なども言及されるように、やたらと内容がWokeになってくる。……単なる心理学ではなく「社会心理学」という点で分野自体に規範的な側面があったりするのかもしれないし、中高生向けの新書ということになっているので「SDGsとか取り入れてください」と編集者から指示があったかもしれない。もちろん、著者自身が諸々の社会問題に対する懸念や憂慮を抱いているから本書のなかにメッセージを込めた、という面もあるだろう。
しかし、パターナリズムの訳語に「家父長制」という単語が含まれていたり、日本ではジェンダー・ステレオタイプに基づく広告が多いことと日本のジェンダー・ギャップ指数が低いことをつなげたり(ジェンダー・ギャップ指数の指標には広告やステレオタイプに関する項目は含まれていなかったと思う)*2、またステレオタイプ広告の例が70年以上前のアメリカのものであったりと、なんだか色々と雑であるうえにヌルい。
また、格差の問題に関しても、グリム童話の「貧乏人と金持ち」を紹介したうえで、「極端に貧しい人やお金持ちの人がいる格差社会は本来であれば好ましくなく、そのような格差は是正されるべきです。」(p.147)などと書いて、童話のストーリーが読者に「居心地のいい感情」を与えることで貧富の格差を等閑視する内容になっていることを批判している……のだが、現代人が書いた小説や漫画や絵本に対してならともかく、グリム童話にそんなことを言ってどうすんの、と思わされちゃう。また、グリム童話の他にもお金持ちと貧しい人が出てくる童話はたくさんあって、小さい頃からそのような物語に繰り返し触れることで貧富の格差を当たり前のものとして受け入れたり特定の社会集団に対するステレオタイプ形成が促されたりすることなどを著者は批判しているのだが、子どもであっても「お話」と「現実」は分別することができるように思えるし、成長した人の大半はグリム童話の背景にある時代と現代社会とを分別して考えることができるでしょう。
いちおう本書では「公正世界信念もステレオタイプも社会的な問題を引き起こすことはあるが、わたしたちが生きていくうえで欠かせないものでもある」という点は書かれているのだが、むしろこのポイントを深掘りしてくれたほうが個人的には読みものとして面白くなったと思う。また、ステレオタイプによる差別を批判する本書が、「日本人」に対する典型的なステレオタイプを補強する研究結果を紹介する内容になっていること(「他人の不運に対して同情しない」「長期的な視点で持って物事を考えるのが苦手」「成功を望むよりも失敗を恐れる」など)には難しさを感じた。
余談だが、本書の前半ではミルグラム実験が紹介されており、「あれっミルグラム実験って再現性がなかったってことになったんじゃないの?それについて一切言及せずに紹介するなんてアヤしいなあ」と思っていたのだけれど、いま調べたらミルグラム実験はむしろ再現性が高いことで有名らしい。わたしも含めて、スタンフォード監獄実験の再現性問題とごっちゃにして認識している人が多いようだ(反省しました)。
本書では各実験の手法について細かく紹介されており、Amazonレビューなどを見ていると一部の読者についてはそれが読みものとしてのテンポや面白さを損ねているらしい。また、第4章では二人の男性のイラストを掲載したうえで「能力が高い男性はどちらだと思いますか」「温かいのはどちらだと思いますか」と読者に尋ねてステレオタイプを問う、という場面があるのだが、「能力の高さ」って言葉の意味が曖昧過ぎてその質問って意味あるの、とは思ってしまった*3。……とはいえ、研究手法や実験の過程を細かく描写するのは、心理学の研究結果だけでなくモデルや考え方も読者に伝えられるという点で教育的であるし、また「その手法によるその研究結果でその主張が言えるって飛躍していておかしくない?」と読者に疑問を抱かせる余地も与えている点でフェアで誠実である。これについては本書の長所であると思った。
*1:
こちらはまだ未読だが、原因帰属に関しては同じくニスベットの『木を見る西洋人 森を見る東洋人』で詳しく扱われているようである。
*2:
なお、ジェンダー・ギャップ指数を持ち出すこと自体については、議論の文脈に合ったトピックなら適切であり得るし、それ自体を否定しているわけではない。
*3:スーザン・フィスクらによる「ステレオタイプ内容モデル」の研究を紹介する件なのだが、英語だと「能力の高さ」は competenceとなっているようだ。