道徳的動物日記

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「怒り」はよくて「嫌悪感」はダメなのか?(読書メモ:『感情と法』②)

 

 

 前回の記事でも触れたように、『感情と法」の第2章と第3章では、おおむね「嫌悪感は不適切で理に適っていない感情だから法律に組み込んではいけないが、怒りは適切で理に適った(ものになり得る)感情であるから法律に組み込むべきである」という議論が展開される。

 この議論はかなり興味深いものではあるが、わたしとしては、ヌスバウムは「怒り」という感情を過剰に高く評価したり理想化したりしているように思えたし、逆に「嫌悪感」という感情を低く評価し過ぎて貶めているように思えた。

 

 わたしがまず疑わしく思ったのは、嫌悪感(disgust)について、「汚染源を拒否したいという感覚」であるとしているだけでなく「自分の死や有限性を思い起こさせるもの」とか「アニマル・リマインダー(自分が動物であることを思い起こさせるもの)」といった説明が用いられていること。この説明はヌスバウムのオリジナルではなくポール・ロジンという有名な心理学者の理論に基づくものであるし、本書の副読本として個人的に手に取ったレイチェル・ハーツの『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか 』でもこの理論は参照されていた*1。しかし、ヌスバウムによる嫌悪感の定義はなんだかずいぶんと「文芸的」な感じがする。たとえばわたしは道で犬の糞を目にしたり匂いを嗅いだりしたら嫌悪感を抱くが、そのときにわたしが無意識レベルでも死や有限性を思い起こしたり自分が動物であることを思い起こしたりしているとは、とても思えない(あと、たとえばわたしのウンコは他人のウンコよりもわたし自身の死や有限性を思い起こさせそうなものだが…なにしろ自分の身体から出たものだから…わたしは他人のウンコを目にしたり匂いを嗅いだりしたときのほうが自分のそれより嫌悪感を抱くし、他の人たちの大半もそうだろう)。

 なお、念のために書いておくと、本書における嫌悪感とは英語でいう disgust であり、日本語の「嫌悪」よりもやや狭く限定的な意味となっている*2。基本的には、吐瀉物や糞尿や血液や経血、ゴキブリやナメクジなどの不快害虫、または人と場合によってはなんらかの性的な物事について目にしたり聞いたり匂いを感じたりしたときに抱くような「うげっ(Yuck)」という感じだ*3。とはいえ、後から紹介するように、本書における…というか、本書でヌスバウムが批判対象として紹介や引用をする論者たちが用いる…「嫌悪感」という言葉には、もっといろんな意味が含まれている。

 

 怒りと嫌悪感の違いについて、ヌスバウムは以下のように書いている。

 

これまでの議論で理解できるように、嫌悪感は危険の恐怖からだけ[で]なく、怒りや憤りからも区別される。嫌悪感の中核にある考えは、自己への汚濁である。つまり、この感情は、汚染源かもしれないものの拒否を表現している。嫌悪感の主な対象は、人間がやがて死に至ることや動物であることを思い起こさせるもの、人間を汚染するものとみなされる。対照的に、憤りには主として不正もしくは危害の概念が含まれている。怒りを抱いている当人に対してなされたか、あるいは、怒りを抱いている当人が重要と考える人や物に向けてなされたかはともかく、怒りの哲学的定義には標準的に不正の概念が含まれている。たとえば、セネカの『怒りについて』で報告され議論された、古代ギリシアにおける標準的定義は、「不正に仕返ししようとする欲求」、「自分に対して不正を働いたと自らが信じる人を罰したいという欲求」、そして「適切な範囲を越え、自分に対して不正を働いたと自らが信じる者に報復したい欲求」というものである(アリストテレスの初期の説明はこれらによく似ている)。「不正を働いた」という言葉に「適切な範囲を越えて」を付け加えている点で、ストア派のものとして最後に挙げた定義には、不正の概念が二度含まれている。不正(であると信じられているもの)の概念が非常に重要だからである。このことに注意を払うことにしよう。西洋の哲学的伝統における、怒りと憤りについての以後の定義のほとんどは、これらの先例に従っており、この点で、心理学はストア派と同様の道筋を辿ってきた。

危害や損害といった概念は、怒りの認知内容の中核に位置する。それゆえ、怒りが公共の場で言明され表現されうる推論に依拠しているのは、明らかである。損害や危害は、あらゆる公共文化や法体系が集中的に対処しなければならないものである。つまり、損害や危害は、公共的な説得と公共的議論の中心的話題である。

 […中略…]

第1章で論じたように、個人の怒り(や怒りの欠如)のもとにある理由は誤っているかもしれないし、何の根拠もないのかもしれない。そして、そのような理由の錯誤は、まったく別々のかたちで生じることがある。ひょっとすると、何の損害も生じなかったのかもしれない。ひょっとすると、損害は生じたかもしれないが、ある人の憤りの現在の対象以外の人物によってなされたのかもしれない。あるいは、損害は生じ、現在対象とされる人物がその損害を与えたのかもしれないが、しかし、それは、怒りを抱いている当人が信じるような不正行為ではなかったかもしれない(たとえば、それは正当防衛の行為だったかもしれない)。さらに細かく言えば、損害を受けた者や他の人に軽視された物は、もしかすると、憤っている人が信じるほど重要なことではない。[…中略…]人々はまた、重要なものを過小評価することもある。すなわち、アリストテレスは、身内が侮辱にさらされ怒りを発すべきなのに、そうしようとしない人々に言及する。私たちは、遠くに住む人々や自分たち自身と異なる人々になされた不正に対して、しばしば怒らずにすませてしまうことも付け加えてもよいかもしれない。私たちは不正を不正として見ないこともある。たとえば、奴隷制を実践する人々の多くはそれを不正とは感じなかった。また、何世紀にもわたって、婚姻における女性のレイプは、男性の所有権の行使としてしか考えられてこなかった。

つまり、これらどの点においても、怒り(や怒りの欠如)は見当違いなものになりうる。しかし、もし怒りに結びついている思考が完全に吟味に耐えるのなら、私たちは友人や同胞市民に対して、それらの思考を共有し、怒りを共有することを期待できる。この点で憤りがロマンティック・ラブとはまったく異なるのは、アダム・スミスが以下のように述べるとおりである。「友人が傷つけられたのなら、私たちはすぐ友人の憤慨に共感し、友人が怒りを向けている人に対して怒りを覚える……しかし、たとえ友人が恋をしていて、その情念が同じ種類のどの情念とも同じ程度理に適う物だったとしても、私たちは、自分たちが同じ種類の情念を心に抱くはずだとは考えていないし、友人がその情念を向けている同じ人に対して、そういった情念を心に抱くはずだとは考えていない」。愛が基づくのは、通常、けっして言葉にすることができず、いわば他の人によって共有されえない特異的反応である。それゆえ、私たちは、友人に対して自らの愛を共有するよう期待することはできないーーただし、スミスが書いたように、もちろん友人たちは、将来に対する恋人たちの不安や希望を共有してくれるかもしれないが。賢明な観察者は、他の人の立場に立って怒りを経験するだろうが、愛についてはその限りでない。スミスはそう論じることによって、自分の判断の理由についての公共的な議論に依拠させようとする社会のなかでは、怒りは公共的行為の基礎となるが、性愛はそうではないと示唆するのである。

嫌悪感は怒りとはまったく異なっており、決定的な点で性愛に似ている。いくつかの嫌悪反応は進化論的基礎を持っており、ゆえに、それらの反応は社会を超えて広く共有されるのかもしれない。そして、媒介されて生じるタイプの嫌悪感が、一つの社会のなかで広く共有されるかもしれない。だが、これらのことが意味しているのは、嫌悪感は、嫌悪感を有している人たちに、公共的説得のために使えるような一連の理由をもたらすということではない。親の強烈な反応や他の形態の心理的影響によって、ある者に対して嫌悪感を持つように幼児に教え込むことはできる。だが、コウモリを嫌悪しない人に、コウモリが本当は嫌悪を催させる者だと説得するところを想像してみよう。対話を通じて相手を実際に説得するだけの、公共的に言語化可能な理由はまったく存在しない。あなたのできることと言えば、コウモリの属性とされているものをかなり細かく描写して、対話者がすでに嫌っているものと何らかの関連性や似ている点を明らかにすること(たとえば、濡れた貪欲な口や、ネズミに似た体)だけだろう。しかし、もし相手がそういったものに嫌悪を感じなかったら、それでおしまいである。

 

(p.126 - 129)

 

 また、嫌悪感は歴史的にさまざまな人種差別や女性憎悪などと関連してきたこと、現在でも同性愛差別などに関連していることを指摘したうえで、差別につながるという点でも嫌悪感を法に組み込むことは非常に危うい、といった議論もヌスバウムは行っている。「同性愛に対する嫌悪感情は情状酌量すべきか」というトピックについても『感情の法』のなかでたびたび触れられているところだ(もちろん「そんなものは認めるべきでない」という結論になっている)。

 おそらく現代の日本人の多くは、嫌悪感を法に取り入れたり、なんらかの公共的な場面や公共的な議論などで持ち出したりすべきでないというヌスバウムの主張には「そりゃそうだ」と納得するだろう。とくに法律のあり方とかリベラリズム理論とかに詳しくない人であっても、嫌悪感が差別につながると認識している人は多々いるだろうし、嫌悪感を法とか公共とかに取り込むことに危うさを感じる人は多いと思う。そういう点ではヌスバウムの議論はかなり常識的なものである。……だからこそ、むしろ、ヌスバウムが批判を行なっている対象である「嫌悪感を法に取り入れるべきだ」という主張のほうが議論としては新鮮で興味深いだろう。

「嫌悪感支持派」として『感情の法』のなかで取り上げられている主な論者はデヴリン卿、レオン・カス、ウィリアム・ミラー、ダン・カハン。彼らは基本的にはリーガル・モラリズムを主張する保守派であったり共同体主義者であったりするようだが、カハンは自身を進歩主義者(リベラル?)と見なしているようだ*4

 

…カハンの見解は、ある殺人は他の殺人より悪いものであり、殺人や特に殺人者の間に序列をつけるために嫌悪の心情を信用することは良い方法だというものに思われる。私たちは、法的に重要な加重要因を特定するために、もしくは、ある殺人者がとりわけ卑劣ないし低劣であると判定するために、嫌悪感に依拠することができる。すると、判決の際、嫌悪感はある役割を果たすことになる。つまり、序列づけを通じて、残酷さに対する否認と反感を強化するのである(この主張の詳細は第3章で検討しよう)。私はカハンのこういった考えを受け入れることはないが、限定的とはいえ、この考えはある種の妥当性を持っている。なぜなら、カハンが嫌悪感の影響を認めたのは、この場合、他のもっとミル主義的な根拠[危害原理]に則して違法とされる行為の文脈のなかだけだからである。

ここまでの議論をまとめることによう。嫌悪感に法的役割を認める立場は実際には多くの立場からなることが、いまや理解される。しかしながら、ここでのどの論者にとっても嫌悪感はともかくも有益な法的基準となる場合があり、ある種の行為の法的規制に関する情報を示すとされる。ここでの一つの重要な区別を強調してもよいだろう。この四人の論者が考えているのは、単に限定された意味での、個々人に対する危害としての嫌悪感ではない。つまり、この論者たちは、一般に生活妨害禁止法[悪臭や騒音などを規制する法律]によって提示される種類の嫌悪感を考えているのではない。生活妨害禁止法は、激しい苦痛を伴う種類の侵害を加える人々に刑罰を科す。そういった侵害はしばしば嫌悪感という形態をとる。たとえば、嫌悪を催させる臭いは、それを発生させた人の隣人に影響を及ぼしたりする。これが、法における嫌悪感の役割の一つである(生活妨害については第3章で議論しよう)。しかし、四人のどの論者にとっても、嫌悪感はずっと幅広い根本的な意義を持っている。個々の論者にとって、嫌悪感はそれ自体規制されるべき危害ではない。むしろ嫌悪感は基準となっている。つまり、何が悪なのか、それどころか何が非常に悪いことなのか、すなわち、(彼らが論じるには)何が規制可能なのか、嫌悪感はこういったことを明らかにするための基準なのである。法によって規制可能な(もしくは規制されるべき)行為を特定するために、私たちは「常識人」の嫌悪感という概念を使用する。その現場に立ち会ったどんな人に対しても苦痛を与える生活妨害になるような嫌悪感を、当該の行為が実際にもたらすかどうかという問題に立ち入ることなく、この概念は使用されている。デヴリンとカスによって考察された事例[同性愛行為など]の多くは、私的になされるがゆえに、生活妨害禁止法によってカバーされるような種類の嫌悪感を実際に呼び起こすことはおそらくないということに注意しよう。そういった事例の行為を嫌う人々がそのそばにいて不快な目に遭うことはまずない。そうではなく、嫌悪感は、ある行為がどの程度悪質なのかを問う場合に私たちが従う道徳的な筋道ないし基準なのである。そして、不道徳さの判断は(それはまた四人の思想家にとっては、社会的危機についての判断なのだが)それ自体、行為の法的規制に関連するもなのである。

この点を除くと、何が最も差し迫った社会的危機なのか、そういった社会的危機に対処するために嫌悪感がどう役立つのかに関して、四人の論者の見解は異なっている。ミラーは規範面での明確な見解を持っていないので、ここからは他の三人に集中するとしよう。カハンの見解はーー少なくとも、嫌悪感について論じたこれらの著作の目的にとってはーーミルが賛同するような種類のはっきりとしたリベラルな見解、つまり、法的規制は第一に他者危害に基づくとする見解であるように思われる。カハンは、きわめて有害な行為との関わりのなかでだけ、嫌悪感への訴えを使用する。しかし、そういった文脈においては、行為がどの程度有害かではなく、もっと別のものを測るため、つまり、その犯人がどれほど卑劣で下等であるのかを測るために嫌悪感は使用されるのである。カハンはここでミルから離れることになる。ただし、デヴリンやカスほど離れているわけではない。

デヴリンやカスにとって、嫌悪感はさらに広い範囲で使用される。嫌悪を催させるものとしてカスが挙げた例のほとんどには、実際には他者への危害が含まれてはいる。それでも、対象が限定されるミルの原理をカスが受け入れないこと、そしてデヴリンとともに無害な行為を規制しようとしていることは、明白である。しかし、規制を擁護するためにカスが使う議論は、デヴリンのものとはまったく異なったものである。そこでは、嫌悪感を信頼に足ると考えるべき理由についてのまったく異なる描像が利用されている。デヴリンにとって、嫌悪感は社会的に発生するものであり、社会に深く根づいた規範を私たちに知らしめる点で、価値があるとされる。カスにとっては、嫌悪感は社会に先立っている、もしくは社会外のものである。そして、堕落した社会は私たちの人間性に迫る危機を覆い隠し、見えなくしてしまったかもしれない。そういった危機への警告を発するという理由で、嫌悪感には価値があるとされる。しかし、嫌悪感がそれなしではもたらされないはずの情報を私たちにもたらすという点では、二人の結論は一致している。また、嫌悪感の表明が合理的な議論の吟味に耐えるかどうかはともかく、嫌悪感が法的規制に関係することについても、彼らは一致した意見を持っている。

 

(p.108 - 110)

 

 この他にも、怒りと嫌悪感との違いとしてヌスバウムが言及している重要なポイントは、前者は犯罪者であってもわたしたち同じ人間として扱ってあくまで公共のなかに包摂することを志向するが、後者は犯罪者を非人間視して犯罪者を公共から排除することを志向する、ということだ。

 怒りは対象に対して行動を起こさせるという点で積極的な感情であり、法とか公共とかの文脈では「罪を憎んで人を憎まず」というか「わたしたちはあなたの行為に怒っているが、然るべき罰を受けて反省して悔い改めたならまたわたしたちの一員と見なす」とった態度につなげられる。しかし、嫌悪感は対象を拒否して対象から遠ざかることを促すという点で根本的に消極的な感情であり、法とか公共とかの文脈では「あなたは犯罪をするようなおぞましい悪人なのだからわたしたちの仲間ではないし、目の前から消えてほしい」といった態度をもたらしてしまうのだ。

 

…嫌悪感とは、嫌悪の対象に共同体の成員あるいは世界の成員ではないというレッテル、すなわち私たちと同種ではないというレッテルを貼り、遠くに押しやるか、その対象との間に境界線を引くことである。これに対して、憤りは別の方向で働く。不正に対する憤りは、不正を行なった人物の行為に着目し、責任を負わせる。憤りは、嫌悪感の場合とは正反対に、そうした人物に人間性と責任性の貴族を仮定している。つまり、ある人物は、共同体内で共有されている善悪の違いを理解していたにもかかわらず不正な行為[を]したわけである。

 

(p.211)

 

…激しい怒りは、嫌悪感よりもはるかに強く法的判断と結びついた道徳的感情であり、それゆえはるかに頼りになるものである。それは公的に共有しうる論拠を持っており、私たちの道徳的な共同体の外側で、虫やナメクジを処理するかのように犯罪者を扱ったりすることはない。代わりに、しっかりと犯罪者を道徳的共同体のなかに含め、道徳的に判断する。このように、激しい怒りは犯罪者を怪物として、つまり私たちの誰一人としてそうあることが不可能な人間として描写するいかなる傾向も回避する。

 

(p.216 - 217)

 

 引用ばっかりしてしまったので、以下ではヌスバウムの議論に対してわたしが感じたことを諸々と書いていこう。

 

 まず、「怒り」についてのヌスバウムの議論を読んでいてずっと思わされるのは、この記事の冒頭でも書いたようにヌスバウムは「怒り」を理想化し過ぎているのではないか、ということだ。

 本文中でも、怒りが不適切な対象に向けられたり見当外れになったり過剰・過小になったりするということには言及されているが、それでも適切で「理に適った」怒りや憤りは不正や危害について正しく反応する、というのがヌスバウムの論旨である。

 この議論には、ある面では納得や共感ができる。だれしもが怒りの感情を抱くのが当然であり、怒りの感情を抱かない人のほうがおかしいような事態とか事件とかは、たしかに存在すると思いたい。わたしだって「こんな事態には怒って当然だ」と思うことはよくあるし、その際に自分の抱く怒りの感情は正しいと思うだけでなく、その事態が社会的なものであったり公共的なものであったりする場合に「別にいいんじゃない」とか「大したことじゃないだろう」とか言う人がいたら、その人に対しても怒ったりドン引きしたりすることがあるだろう。また、個人的な出来事についても、自分が不正をされたり危害を与えられたりしたことを身近な友人や家族に説明したのに、相手が一緒に怒ってくれなかったり自分の怒りに共感してくれなかったりした場合には、かなりがっかりしたり悲しくなったりするはずだ。怒りは客観的になり得るという点や他人に対して伝達し得るという点、だからこそ怒りには公共性が存在するという点について、わたしはヌスバウムに同意したいところがある。

 その一方で、自分や周りの人たちが日々感じている「怒り」について振り返ってみると、ほとんどの場合は見当外れであったり過剰であったりするように思える。そもそも、自分に対してなされた不正や危害、あるいは自分が愛着を抱いている対象や自分がこだわっている物事に関する不正や危害に関する怒りは、オーバーになるのが常だろう。また、ときとして、人は不正や危害とはほとんど関係のないことにすら怒りを抱いてしまう。……数年前、会社からの退勤中、電車のなかでわたしはスマホをいじりながらSNSやニュースサイトなどで犯罪や戦争や差別に関する情報を流し見しながらもほとんど感情を抱かなかったが、電車を降りた後にスーパーに行って惣菜を買おうと思ったら半額シール待ちの老人や主婦が惣菜コーナーの前に立ち塞がっていてシールが貼られた瞬間に惣菜が次々と取られていってわたしのぶんが全く残っていなかったときには、ほんとうに激しい怒りを抱いた。この日、わたしは怒るべき対象に怒りを抱かず、怒らなくていい対象に怒りを抱いてしまったわけだが、怒りという感情は見当外れであるほうが通常だという気もする。

 また、「どんなことに怒りを抱くか(どんなことに怒らないか)」というポイントは、人の個性を構成する重大な要素でもあるだろう。友人や家族と会話していて「そんなことで怒るなんてヘンなやつだなあ」と笑ったり「バカだなあ」と呆れたりすることもあるだろうが、然るべき不正や危害には正しく怒ってそうでない物事には全く怒りを抱かないような「理に適った」人間が友人であっても困るかもしれない。

 もちろん上記のようなポイントはヌスバウムも織り込み済みであり、本書における「怒り」とは、前回の記事で紹介したような「常識人」…平均的かつ理想的な架空人の怒り…の感情である。しかし、危害や不正が発生したら適切に怒って、そうでない状況には怒らない、というほどに「理に適った」感情は、もはや感情とは言い難い。それは単なる理性であるように思える。そして、たとえば「他人に危害を与えるような行為は規制されなければならない」という(ヌスバウムも本書でたびたび持ち出している)「他者危害原則」は、怒りという感情を抜きにしても理解することができるし、同意したり是認したりすることもできるだろう。実際、わたしたちは他人が被っている不正や危害について、(その出来事について具体的な事情を知らなかったり、不正や危害を被っている他人が自分から縁遠い人物であったりするといった理由から)まったく感情を抱かないことが多々あるだろうが、それはそれとして「不正や危害が生じているような状況は是正されたり規制されたりするべきだ」と判断することができるし、そのための法律とか法体系が必要であると認識したり要求したりすることもできるはずだ。……そういったことを考えると、法律や法体系を成り立たせるためには「理に適った怒り」が必要だという主張は、あまり意味がないようにも思えてくる(「理に適った怒り」が「理性」だということであれば、どのみち「法律や法体系を成り立たせるためには理性が必要だ」という当たり前の主張になってしまうからだ)。

 

 次は、「嫌悪感」についてのヌスバウムの議論。これについても、ヌスバウムの議論には賛同できるところもある。というか、「法律や法体系に嫌悪感を組み込むべきでない」とか「公共的な場面において嫌悪感を主張することは排除につながってしまうからダメだ」といった、基本的な主張にまったくもって賛成する。……ヌスバウムの言う通り嫌悪感は差別や排除につながりやすいという点で危険なものである。また、「嫌悪感」はあまりに曖昧で非合理的であるから、法的な権力や制度をもってだれかの自由を制限したりだれかに罰則を与えたりする根拠にはなり得ないだろう。

 一方で、嫌悪感は「何が悪なのか、それどころか何が非常に悪いことなのか」とか「(犯罪者の行った行為による危害ではなく)犯罪者自身の卑劣さや下等さを測る根拠になる」とかいったカハンの主張も、蔑ろにすべきではないと思う。……実際のところわたしは自分と縁もゆかりもない犯罪者の卑劣さや下等さには興味を抱かないし、法律や判決などにおいて犯罪者の人格までをも考慮の対象にすべきだという考えはやはり認めるべきではない。だが、法律から離れてわたしたちの個人的な生活や人間関係について考えたり、なんらかの規模の集団における活動とか、より広い「社会」とかについて考えたりする際には、話は別だ。私的な領域や半公共的な領域においては、わたしたちは自分と他人の行為だけでなく、自分や他人の人格についても注意を払うべきだし、また注意を払わざるをえないだろう。そして、怒りという感情が危害や不正に対して反応し得るのと同じように、嫌悪感はある種の人格的な欠点や悪徳に対して反応し得る。

 ものすごく単純に説明すると、ジャイアンのび太を殴って危害を加えている後ろでスネ夫がその場面をニヤニヤしながら眺めているとき、わたしたちはジャイアンだけでなくスネ夫も問題だと思うはずだ。そして、のび太に対して直接的な危害を加えているジャイアンに対して抱く感情…怒りや憤り…とは異なる感情をスネ夫に対して抱くはずである。それはやはり嫌悪感であったり軽蔑の感情であったりするだろう(カハンらの議論についても、嫌悪感が軽蔑とイコールで括れる場合は多いように思える)。この場合、ジャイアンの行動については罪に問うて制裁を科したり具体的な責任を云々できるだろうが、スネ夫がニヤニヤしている件については罪を問うたり具体的な責任を指摘することはできない。「スネ夫の振る舞いがジャイアンを助長させてのび太に対する危害を増させた」と言えることは多いだろうし(というか大半の場合はそうであるかもしれない)、そこから間接的にスネ夫の罪や責任を問うことができる場合もあるかもしれないが、ここですべてを「危害」に還元させようとすること自体が的外れである。世の中には危害とは別の領域に位置する悪徳といったものが存在するのであり、法律は危害に関してしか問うべきでないかもしれないが、それとは別の領域…道徳など…においてわたしたちは悪徳についても考えるべきなのである。

 長々と書いてきたが「法と道徳は別である」という単純な話に終始するかもしれないし、『感情と法』は道徳についての具体的な議論は棚上げにしつつリーガル・モラリズムに反対する議論を行なっているだけということかもしれない。しかし、これは功利主義についていろいろ主張してきたわたし自身の自戒を込めて言うが、「他者に危害を与える行為だけが規制されるべきだ」という危害原則を唱える人ほど、「危害」を拡大解釈して、他の種類の悪徳まで「危害」に含めて自分の議論に巻き込もうとする傾向がある。『感情と法』にもその傾向は見受けられるし、とくにポルノグラフィについて論じている第3章第3節にてその傾向は顕著になっている。この節でヌスバウムはキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドゥオーキンの主張を肯定しながら、嫌悪感に基づく主張を警戒しつつも「危害」の因果関係に関して要求される証拠や論証の水準を下げることでポルノグラフィ規制を支持する議論をしているのだが、この議論には辻褄合わせな感じを抱かされる(いっそリベラリズムから離れて、危害とは別の理由…「尊厳」でも「侮辱」でも「嫌悪感」でもよいけど…からポルノグラフィの問題を指摘する議論のほうが筋は通りそうなものだ)。また、『ハスラー』誌がドゥオーキンを性的かつ侮辱的に描いた件に関する裁判についても、ヌスバウムは裁判官が「嫌悪感」を持ち出したことを批判して「『ハスラー』誌はドゥオーキンに対して名誉毀損という危害を与えているのだから、この場合の適切な感情は嫌悪感ではなく怒りである」という議論を行なっている*5。しかし、わたしは、そのような表現を掲載した『ハスラー』誌の編集者なり責任者なりに対して軽蔑や嫌悪の感情を抱くし、このような問題についても「危害」だけを云々することのほうがナンセンスであるように思える。

 この先もさらに「嫌悪感は具体的にどのような悪徳をすべきか」「どのような人間は嫌悪に値するか」といったことを論じれるかもしれないが、もう文字数がだいぶ長くなっているし、具体的に述べれば述べるほど「そういうお前の〇〇な性質も嫌悪に値するじゃないか」という反論をされて傷付いちゃう可能性も高いと思うので、このへんで留めておこう。

 

 最後に、「怒りは相手を人間扱いしたうえで罪を問い、更生してくれることを望んだうえで、改めて公共に包摂することを望む感情である」「嫌悪感は相手を非人間扱いして、公共から排除することを望む感情である」という議論について。これについても、同意できるところもあるが素直に賛同したくない気持ちもある。

 たしかに、誰かに対して「わたしはあなたに対して怒っている」とわざわざ表明するときには、その怒りが相手に伝わって相手が反省してくれたり、今後の相手の態度や行動が変わったりすることを期待しているものだろう。一方で、「わたしはあなたを嫌悪している」と表明することは、「お前とはもう関わりたくない」という最後通告を伝えることである。また、嫌悪されていると言われた人は傷付いたりショックを受けたりするだろうが、わざわざ自分のことを嫌悪していると言ってきた人のために行動や態度を改めようとは思わないはずだし、言われた側も言ってきた人を嫌いになるのが通常だろう。

 法律は原則として全ての市民を人間扱いして包摂すべきだろうから、そういう面では、嫌悪感を法律に持ち込むべきでないというヌスバウムの議論は正しい。また、法律ほどではないが公共性の高い諸々の集団やその代表者なども、公の場で他人に対する嫌悪感を表明するべきではないだろう。……とはいえ、それは、公共においては「建前」が重要であるから、という面もある。

 そして、個人としてのわたしたちや公共性の低い私的な集団などでは、ときとしてだれかに足して嫌悪感を表明すべき場合もあるように思える。たとえば、いくら注意したり怒ったりしても問題のある行動や態度を改めない人に対して怒りの感情を抱き続けるのは、それこそ理に適っていない。ある時点では相手が変わることを諦めて、問題のある行動や態度は相手の人格上の根本的な問題であると見なして、嫌悪感や軽蔑の念をもってその相手から遠ざかることも、わたしたちが生きていくうえでは必要になる。

 さらに、前回にも書いたように、そもそも感情に怒りや嫌悪感という名前を与えながら綺麗に区別すること自体が検討外れなところがある。わたしたちがだれかについてネガティブな「感じ」を経験しているときには、相手に対する怒りや嫌悪感を同時に抱いているかもしれない。そして、本気で怒っている相手に対しては「消えてほしい」や「死んでほしい」などの排除を望む気持ちも抱くことがあるだろう。

 ……そう考えていくと、繰り返しになるが、ヌスバウムの議論はやっぱり「怒り」を理想化し過ぎていて「嫌悪感」を軽視し過ぎているし、せいぜいが「建前」の話でしかないように思えてしまう。法律において感情が果たす役割に関する彼女の議論は「それって感情の話じゃなくて理性や思考の話になっていない?」と思わされてしまう。個々人が実際に経験する感情や、個々人の道徳的生活や私的〜反公共的な集団の間に存在する道徳的な秩序において感情が果たす役割を考えるためには、ヌスバウムの「感情」論はほとんど頼りにならない。

 

*1:

 

(そもそもハーツはロジンのセミナーに参加したことをきっかけに嫌悪感というテーマに興味を抱いたらしいし、また『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか 』の謝辞にはヌスバウムの名前も挙げられている。とはいえ、わたしは本書の議論にも感心しなかった。実はこの本は10年前以上に購入していて、本棚の肥やしになっていたのをようやく手に取って読んだという経緯があるのだが、実験心理学に基づく諸々の知見…「気持ち悪い映画を見た後に手洗いをした大学院生はそうでない大学院生に比べて気分がすっきりして嫌悪感が解消されたので道徳的な問題に対する寛容さも増しました」など…は、いまとなっては再現性があるかどうかも疑問だし、実験室で得られた結果を拡大解釈して社会や政治の問題に関する議論に安直に転用したり、また人間の合理性を過小評価したりする傾向が目立つ。振り返ってみると、同時期に出版されてわたしが当時に読んでいろいろと衝撃を受けたり影響を与えられたりしたジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』にも、同様の傾向はある(前回の記事でも触れた「感情という尾という合理的な犬を振り回す」の箴言をはじめとして、ハイトの議論は印象的であるし重要であるとも思うが、いまになって振り返るとやはりオーバーで扇情的な面も多々あるように思えるのだ)。他にもこの時代の(ポピュラー)心理学の本には特有のオーバーさがあるかもしれないので、現在の読者は、読むにしても眉に唾をつけるべきかもしれない。

*2:

kimini.online

*3:

 

 

*4:

www.amazon.jp

カハンの論文は『法と感情の哲学』に収められているようであり、この本に収められている他の論文も興味あるので、ほしいものリストからだれか買ってくれることを強くキボンヌします。

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

なお、フェミニスト活動家が男性向けの雑誌メディアで性的/侮辱的に扱われるという問題については、「からかいの政治学」のなかでも1970年代のウーマンリブ活動に関連してほとんど同じような問題が存在していたことが書かれていた。