道徳的動物日記

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「正しい怒り」は存在するか?(読書メモ:『怒りの人類史:ブッダからツイッターまで』)

 

 

 

「人類史」とは書いてあるが、内容は思想史のそれ。主に西洋で「怒り」という情動とはどのようにみなされてどのように扱われてきたか、ということが論じられている。

 第一部では怒りを否定する思想の歴史、第二部では怒りを(条件付きで)肯定する思想の歴史が扱われて、第三部では自然科学や心理学などにおける怒りについての研究の変遷が描かれる。

 最終章のひとつ手前の12章では、SNSのある現代社会における「怒り」の善し悪しについて論じられるのだが、著者はいちおうは中立っぽい風でありながらも、トランプ主義者や人種差別主義者たちの「怒り」を否定する一方で、フェミニストたちの「怒り」は肯定しているようだ。

 ……正直に言うと、この章の書きぶりはなかなかにひどい。「思想史家として中立的でありたい」という意識のせいか、怒りに関して様々な哲学者が行なってきた規範的な議論を様々に参照しながらも、著者は自分自身による「怒りはどのような条件のときに善くて、どのような条件のときに悪いか」という規範的な定義を明言しない。だけれど、12章を読んだ読者の大半には、「トランプ支持者の怒りは筋違いであり侮蔑されるべきものであって、フェミニストたちの怒りは正当であって称賛されるべきものである」と著者が考えていることは伝わるだろう(つまり、規範的なメッセージが含まれている)。前者の怒りは誤った認識や逆恨みに基づいているという風に描写されているが、後者については「これまでに女性の怒りは男性の怒りに比べて軽んじられて抑圧されてきた」という歴史的経緯とセットで紹介されているので批判する方が間違っている、という感じになっているからだ。

 こうなっている原因は、「中立を装いながら特定の主張を肯定する議論を展開して読者を誘導する」という行為を著者が確信犯的にやっているという点にではなく、ほんとうの意味での哲学的で規範的な思考をおこなうことを著者が放棄しているという点にあるように思われる。自分が拠って立つための足場を作っていないから、現代の社会(あるいは、本を出したり読んだりするような知的リベラルな界隈)でなんとなく「これは否定すべきで、これは肯定すべき」とされている風潮にそのまま流されてしまっているのである。

 また、ほかの人たちの感想を調べたところ、案の定というか、フェミニストの人たちがこの本を肯定しているのを見かけた。いちおうわたしも修士論文で女性による社会運動の歴史を扱ってきたので、「女性の怒りは馬鹿にされたり否定されたり抑圧されたりしてきた」という歴史的経緯の存在は理解している*1。とはいえ、トーンポリシングの議論でも「ケアの倫理」についての議論でもそうなのだが、「これまで怒りやケアの感情が女性性に結び付けられながら歴史的に軽んじられてきた」ということは「怒りやケアの感情は正しい」ということを保証するわけではない*2。すくなくともSNSなどを見てみれば、大半の人たちは、現在のフェミニストたちには怒りが「不足」しているのではなく「過剰」になっていると判断することだろう。

 そして、「これまで女性の怒りは抑圧されてきた」というナラティブ自体が、怒りという火に油をそそぐ効果を持つはずである。

 

 それはともかく、第一部と第二部で展開される、「怒り」の否定と肯定をめぐる西洋哲学者たちの議論のまとめは、それなりに興味深い。

 第一章では仏教の議論も紹介されるとはいえ、怒りに対する「否定派」の代表格はストア派だ。

 

多くの著述家が、ストア哲学と仏教とのあいだに類似点を見いだしてきた。だが、古代ローマの政治家であり、ストア哲学者でもあったセネカ(紀元六十五年没)がもしブッダのことを知ったら、かなり変わった楽観主義者だと思ったことだろう。セネカの考えでは、きちんと育てられ、正しい哲学を教えられたとしても、怒りをもたない人間になれるのはごく少数(おもに男性、ひょっとしたら女性がひとりかふたり)だけだ。それはだれもが目指すべき目標だが、達成されることはない。人間の性質について、そして自然の摂理についてのセネカの見方は、ブッダのそれとはまったく異なっていた。

(p.37)

 

……アリストテレスの考えでは、怒りは体と心の自然な機能であり、怒りがふさわしい社会・政治的な状況が存在することは明白だった。その反対にセネカストア哲学者は一般に、怒りは自然のものではないと考えた。「人間の精神状態がゆがんでいないとき、これ〔人間の性質〕ほど穏やかなものがあるだろうか?」。セネカは、怒りを引き起こすような場面はそれこそ無数にあるが、どれひとつとして怒りを理にかなうとすることはできないと考えていた。

(p.42)

  

 現代の哲学者であるマーサ・ヌスバウムも、ストア派の末裔として紹介されている。ヌスバウムは怒りには多少の長所があることは認めているが、それをもっと生産的な情動へと「移行」させることが必要である、と論じているのだ。どのような方向に移行させるべきであるかということは、怒りが親密な領域・中間領域・政治的領域のどこに生じたかによって異なる*3

 

 怒りの「肯定派」の代表格は、なんといってもアリストテレスである。

 

アリストテレス曰く、怒りは評価、つまり思いなしによって生まれる。我々は、自分が軽んじられたと思ったときに怒りが湧く。その侮辱は一種の痛みとして認知され、我々を怒らせる。痛みをもたらした相手に立ち向かうなど、何か行動を起こさずにはいられない。復讐のよろこびーーあるいはそれを夢想することーーで、軽んじられたという痛みは軽減する。これは完璧に普通の反応だとアリストテレスは言う。そしてたいていの場合、復讐は全く正当な、それどころか気高いおこないであると。けっして怒らないのは愚者であり、またつねに怒っているのは短気な者や身勝手な者だ。怒りに至る経緯はさまざまだが、重要なのは、正しいとき、正しいことにかんして、正しい相手に、正しい目的で、正しいやり方で怒る、ということだ。

(p.112)

 

 ご存知の通り、キリスト教も、神やその法に対して不正を行う相手には怒りをぶつけることを肯定している。

 そして、デビッド・ヒュームやアダム・スミスなどのスコットランドの哲学者たちも「肯定派」であった。ヒュームは以下のように論じたのである。

 

 怒りは倫理的な感受性に欠かせない。残虐な人物に対しては怒るべきであり、そのようにはっきり言うべきときもある。怒りを覚えたとき、思慮分別をもって、「控えめに」そのことを伝えられたら、それは立派だ。怒りの度合いが激しくても、それが「自分自身の体と心の作用」であることを自覚しなければならない。怒りが残忍さを引き起こすと、悪徳のなかでももっとも酷いものとなるのは本当だ。しかしその行き過ぎこそ、周りの者の道徳的感性を呼びさます。残酷の犠牲者に同情、心配するからだ。我々は「(残酷の)罪をおかす」人に嫌悪を感じ、「他の状況では有り得ないほどの強い憎しみを覚える」。わたしたちの倫理観は、賛成するために愛が必要なように、断罪するために怒りが必要なのだ。怒りがなければ、我々は道徳的な判断ができない。

(p.160)

 

 わたしとしては、アリストテレスが言うように「正しい怒り」もときと場合によっては有り得ると思う。とはいえ、著者も指摘しているように、「正しい怒り」と「正しくない怒り」が存在するという考え方は、ただちに「自分の怒りは正しいが、あいつの怒りは正しくない」という発想に結び付くことは火を見るよりも明らかだ。ジョナサン・ハイトがたびたび指摘するように「他人の目のおがくずは見えても、自分の目の中の丸太は見えない」という自己正当化の機能が、わたしたちの心理や感情にはどうしても備わるものだから。同じように、この本では紹介されていないが(紹介すればいいのに)、進化心理学者たちの大半や進化論的暴露論証をおこなう現代の功利主義者たちも、怒りは否定するはずである。だから、セネカヌスバウムの主張を採用した方が賢明であるだろう。

 

 なお、この本はこれまでわたしが読んできた本のなかでもいちばんというくらいに誤字や乱丁がひどかった。

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

 

 

 

 参考文献に乗っているのは『Anger and Forgiveness』であるが、『感情と法』でも似たような議論がされていたと思う。