道徳的動物日記

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読書メモ:『一冊でわかる 古代哲学』&『哲学がわかる 中世哲学』

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』『マルクス』などに続いてVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ。

 

『一冊でわかる 古代哲学』の著者は『徳は知なり』も書いたジュリア・アナスなだけあって内容が充実しており、このシリーズのなかでもとくに良書といえるだろう。

 本書の良い点のひとつは、単に古代哲学を紹介するだけでなく、哲学そのもののおもしろさや「哲学研究」への入門にもなっているところ。たとえば第一章「人間と野獣 自分自身を理解する」では「理性と感情の綱引き」という哲学のなかでもオーソドックスかつ多くの人にとって身近で興味深いトピックについて古代哲学者たちがどんなことを言っていたかということが紹介されている。その次の、二章「なぜプラントンの『国家』を読むのか?」では、『国家』という作品の内容を紹介しつつこの作品が後世においてどのように解釈されたり利用されたりしてきたかという受容史を論じることで、時代ごとのコンテクストとテキストの関係といったトピックが紹介される。

 

第1章の結論を考えれば、古代哲学における問題は、時にはわれわれに直接関わりうる議論の一部となることが理解できるだろう。しかし、今や、このような態度には潜在的な危険性があることをも理解できる。われわれ自身のその都度移り変わる哲学的関心が、古代哲学の伝統のなかで何が哲学的に興味深いかを決める役割を担うことに注意を払わねばならない。『国家』は、読む側の関心の変化が圧力となって、一つの著作が片隅から中心へと、倫理的著作から政治的著作へと変貌しうることの最も極端な例である。教訓とすべきは、『国家』に対するわれわれの解釈がわれわれ自身の先入観の反映にすぎないと考えることではない。そうではなく、われわれ自身の哲学的関心が、知らないうちにわれわれに影響を与える度合いを減らすために、自分たちの関心とそれが果たす役割を意識しておくことを教訓とすべきなのである。古代哲学のある部分はわれわれの関心とは極端に異質であり、ある部分はあまりになじみが深い。時には、現在の関心からそれらを引き離して、それらを解釈するわれわれ自身の伝統について問いかけてみる必要がある。

 

(p.54 - 55)

 

 わたしのイメージでは、多くの哲学入門書や哲学史では古代哲学(または近代哲学や哲学全般)について「われわれの関心とは極端に異質」であることのほうを強調したり解釈を厳密に行うことばかりを重要視してしまい、古代哲学が「時にはわれわれに直接関わりうる議論の一部となること」を軽視してしまいがちだ。しかし、古代哲学の議論を正しく理解するためにはコンテクストへの配慮とかテクストの厳密な読解が必要だとしても、そこばっかりを強調してしまうと、そもそもなぜ古代哲学を理解しなければならないのか、という意味や動機がおざなりになってしまう。

 本書では、第一章や第三章(「幸福な人生ー昔と今」)で古代哲学がわたしたちの考え方や人生に関わるものであることをしっかりと提示されており、また第四章(「理性、知性、懐疑主義」)や第五章(「論理と実在」)でも古代哲学者たちの議論を簡潔に紹介しながらそれらが知的に興味深くておもしろいものであることを示している。古代哲学の歴史の流れの概説を最初ではなく最後の第六章(「いったいいつ始まった?」)に持ってきているところも、読者に古代哲学の「歴史」に関する興味を持たせるためには先に古代哲学における「議論」の意義を示したほうがいい、といった配慮を感じられる。

 総じて感じるのは、アナスは偏狭な「哲学マニア」になっておらず(哲学研究者もアカデミア外の哲学ファンもついつい哲学マニアなってしまいがちだ)、哲学が一般読者に対してどのような意味や役割を持てるか、また一般読者は哲学に対してどのようなことを望んでいたり望み得たりするか、ということを客観的に把握しながら読者にとって意義のある本を書くという仕事を遂行できているということだ。

 このブログで何度か愚痴ってきたように、Very Short Introduction シリーズの著者のなかには読者のことを一切考えずに自分が研究しているトピックに関する知識や情報を羅列するのに終始していたり、それが読者にとってなんの益になるかということを全く考慮せずに自分の専門分野の考え方や方法論を押し付けたりする人が多いので、アナスのような著者(研究者)は貴重だろう。

 

 

 

 ……で、『哲学がわかる 中世哲学』のほうは、完全にダメなタイプのVery Short Introduction 。もともとわたしは数年前から古代哲学に興味を持つようになっている一方で中世哲学には疎いままだったのだが、それを差し引いても、本書を読んで中世哲学に新たな興味や関心を持てるようになる人はほとんどいないと思う。

 これは著者にとってはすこし酷なところもあり、中世哲学はそもそもマニアックなものと見なされているし、「当時の宗教や迷信の影響を受けまくっているから現代の世俗的な人々の興味や関心に連なるものではない」というイメージも強い。キリスト教だけでなくユダヤ教イスラームも関わってくるし、哲学者だけでなくダンテなどの文学者の議論についても理解しなければならないし、中世という歴史状況そのものがややこしい。そのために本書の前半では情報を整理するために中世哲学の歴史の流れや当時に哲学が行われていた制度や形式などが紹介されるのだが、『古代哲学』とは逆に歴史から始められるために「そもそもなんでこんな歴史を追うという努力をしてまで中世哲学に興味を抱かなければならないんだろう」という疑問を抱かされることになる。そして後半では各トピックに関する中世哲学者たちの議論(「普遍」「心、体、死」「予知と自由」「社会と最善の生」)が紹介されるのだが、これがまったくおもしろくないし、中世哲学の議論が「われわれに直接関わりうる議論の一部」であると感じさせられるポイントがほとんどない。というか、むしろ、中世哲学者たちの議論って現代の世俗的な人間にはほとんど意味や意義を持たないんだなという印象が余計に強まってしまった。

『哲学がわかる 中世哲学』では著者も訳者も「現代における哲学を理解するためには哲学史を理解することが重要であるし、中世の哲学者たちがどんなことを考えていたかということも理解しなければならない」といったことを主張しているわけだが、そもそもなぜ「哲学」を理解しなければならないかということまでは…『一冊でわかる 古代哲学』とちがって…示すことができていない。結局、あらかじめ哲学が重要だと理解しており哲学に対して一定以上の関心を持つ人にとってしか読み進めることが難しい、哲学マニアが他の哲学マニアや哲学ファンに向かって書いた本になっているように思った。……とはいえ、そもそも中世哲学を一般読者にとっても興味が抱けておもしろいようなかたちで解説すること自体が不可能であるかもしれないけど。

 

 以下では『古代哲学』に戻って、印象に残ったところをメモ。

 

ストア学派は、人間の魂には部分も区分もなく、魂はすべて理性的であると考える。(魂というときにストア学派が意味するのは、人間をしてとくに人間らしい生き方をさせるもののことである。)感情はやみくもではなく、合理的な決心に打ち勝つことができる非合理的な力でもない。感情それ自体が、人がそれに基づいて行為を決定するある種の理性なのである。

 […中略…]

私が行なうすべてのことに、私は責任を負っている。つまり、私がなしえたはずの何か別のことがつねに存在しており、私が取りえたはずの何か別の態度が常に存在している。私は感情に打ち負かされたと言うことは、自分が行おうとすることがなすべき正しいことであると、ある時点で考えて行動したその者がまさに自分であったという事実から逃げることである。

 (p.7 - p.8)

 

アリストテレスは、古代の哲学者のなかでは常識に最も忠実であり、われわれの抱くこのような反応[「幸福のためには徳以外のものも必要なのではないか」という発想]が重要なものであることにも同意している。幸福は金銭や成功といったある程度の「外的な善」を必要とするものと彼は考える。もちろんそのような外的な善だけでは、その量がどれほど多くあっても、人を幸福にすることはできない。なぜなら、外的な善を人がもつかもたないかは、本来その人の責任ではないし、ひとたび人が自分の人生について倫理的な反省をはじめれば、幸福はそうした人生についての自身の反省と設計から生じるはずであり、たんに周囲の事情によって与えられたり奪われたりすることが可能な外的な善のなかにあることはありえない、とアリストテレスは考えるからである。しかし、アリストテレスは、徳を備えることによって自分を幸福にすることができるといった考え方を避けようとする。もしそれが事実なら、徳を備えた人は、たとえ受けるいわれのないような大きな不幸に遭遇しても、たとえば拷問で苦しめられたりしても幸福であることになるだろうーーそれは絶望的でばかげた考え方というほかない。

 

(p. 78 - 79)

 

 引用はしないが、基本的に哲学そのものに対する興味は薄くて倫理学をメインに勉強しており、また古代哲学のなかではストア派(とアリストテレス)推しであるわたしとしては、第四章や第五章もなかなか興味深く参考になった。知識論にせよ論理学にせよ科学論にせよストア派は良くも悪くも極端なまでの合理主義者であることを改めて理解したし、その対極にあるエピクロス派(快楽主義)の議論の重要さやおもしろさも伝わってきた*1。またわたしはあまり詳しくなかったピュロンなどの懐疑主義者に関する紹介も興味深く、この次に読んだ『哲学がわかる 懐疑主義』の橋渡しや導入になったという点でも、本書を読んだ意義を感じられた*2

 訳者あとがきでも言及されているが、本書では中立的かつ網羅的に古代哲学の議論を紹介しながらも、フェミニストとしてのアナス自身の意見がちらりと顔を出す箇所やストア派の自然観を人間中心主義として批判される箇所があったりして、現代的な倫理観も含まれているところにも好感を抱けた。

*1:というわけで『古代哲学入門』や『ヘレニズム哲学―ストア派エピクロス派、懐疑派』も読みたいです。

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*2:アナスは懐疑主義に関する共著も出しているようだ。