道徳的動物日記

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読書メモ:『哲学がわかる 懐疑論:パラドクスから生き方へ』

 『福祉国家』『ポピュリズム』『法哲学』『マルクス』『古代哲学』などに続いてVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ。

 

 

 本書の冒頭でまず論じられるのは、営業係のセールストークや星占いのような疑似科学を疑う、小規模で健全な懐疑(論)はわたしたちの人生や社会にとって有益かつ必要なものであるが、科学的にほぼ立証された事実や社会において共有されている常識なども含めてなにもかも疑うような大規模で過激な懐疑(論)はわたしたちに悪影響をもたらす、ということ。

 つまり、大規模な懐疑論は真理に対する関心を失わせてしまい、「なにが真実であるかなんて判断できないから人それぞれの真実があるということなのだ」といった真理に関する相対主義を蔓延させてしまう。ここで著者が具体的に問題視しているのは、気候変動に対する懐疑論ドナルド・トランプ大統領就任に伴い流行した「ポスト真実の政治」などだ。

  

 本書の前半で主に紹介されるのは、哲学における「認識論」に関する議論だ(わたしはあまり詳しくないが、認識論は最近は分析哲学で盛んになっており研究したり専攻したりする人も増えている印象がある)。

 認識論における「知識」に関する定義と、それに関する懐疑論の議論は、以下のようにまとめられている。

 

先ほど、知識には単なる真なる信念だけでは不十分であることを確認した。そろそろこの主張を再検討すべき頃合いだろう。というのも、知識とただの真なる信念の間のギャップこそ、懐疑論が効力を発揮する場であるからだ。先述の通り、ただの真なる信念は、まぐれで不適切な方法ーーたとえば人の言うことを信じ込みやすい性格ーーによっても獲得できる。そうしたケースにおけるただの真なる信念は知識とは呼べない。では、真なる信念を知識へと変えるには、一体何が必要なのか。この点について、現代の認識論者たちは百花繚乱の提案を行ってきたが、一般的には、知識には少なくとも正当な理由に基づいた真なる信念が必要だと考えられている。

より正確に述べれば、知識を獲得するのに必要なのは、当の信念が真であると考えるべき正当な理由だ。「正当な理由」をこのようにやや回りくどく表現するのにはわけがある。それは、ある命題を信じるのに正当な理由があるとしても、その理由は必ずしも、自分の信じていることが真と考えるべき正当な理由にはならないからだ。[…中略、「正当な理由」ではない理由の例として「打算的理由」が挙げられる…]ある信念が真であると考えるべき理由は、認識的理由(epistemic reasons)として知られている(そう呼ばれるのは、真理や知識などに関わる哲学分野は認識論epistmology)と呼ばれ、その専門家は認識論者epistemologist)と呼ばれているからだ)。一般に、知識とは正当な理由に基づく真なる信念である。そこで「正当な理由」として想定されているのは、打算的理由ではなく認識的理由、すなわち当の信念が真と考えるべき理由のことなのだ。

 

(p.23 - 26)

 

 

ここでようやく、懐疑論者の論法がどういったものかを理解することができる。その論法とは、どの人も自身の信念を裏付けるための正当な認識的理由など持ち合わせていないと示すこと、そしてそれゆえにどの人も知識を欠いていると示すことだ。もしこの証明が成功したとすると、当人の信念は仮に真だとしても、信じ込みやすく騙されやすい性格によって(もしくは単なる当てずっぽうで)信念を形成する人と何ら変わりがないことになる。

その際注意しておくべき点は、こうした論法で懐疑が正当化されるとき、それは信念が偽であると主張しているわけではないということだ。実際、懐疑論者の提起する疑念とは裏腹に、当の信念は問題なく真かもしれない。だが懐疑論の眼目は、当の信念は仮に真だったとしても正当な認識的理由に乏しく、それゆえに知識にはならないという点にある。つまり、懐疑論者は私たちの信念が本当に真かどうかを標的にする必要などまったくないのだ。ここで、相対主義に関する議論を振り返ってみよう。真理の相対主義によると、真理とは各人の主観的な感想に相対的なものにすぎない。だが真理の相対主義それ自体は、いま問題になっている懐疑論が提起している問題とはまったく無関係である(仮に相対主義を適切な根拠のもとで擁護することができたとしても、だ)。過激な懐疑論者が述べているのは、私たちは客観的な真理についての知識を欠いているということである。このことは、知識は持っていないが客観的に真である信念を持っていることと矛盾しない。そればかりか、知識は持っていないが主観的に真である信念を持っていることとも矛盾しないだろう。要するに相対主義は、とりわけ客観的な真理についての知識を標的とする懐疑論とはまったく無関係なのだ。

 

(p. 26 - 27)

 

 本書の第二章では懐疑論を支持する主張が、第三章では懐疑論に反論する主張が、それぞれ具体的に紹介される。このふたつの章における議論はいかにも「哲学的」なものであり、第二章で登場するのはデカルトの懐疑論「水槽の中の脳」の思考実験、それらの懐疑論的仮説を懐疑論的結論につなげるための「閉包原理」などだ。本書の副題の「パラドクス」も、二章と三章における議論を指している。

 

過激な懐疑論者が導入する原理とは要するに、知識はすでに知られている含意のもとでは「閉包している」、つまり既知の事柄Aが既知の事柄Bを論理的に導くとわかったとき、Bは知識として認められる、という考えに基づいている。この原理が閉包原理the colsure primsiple)と呼ばれるのはそうした理由だ。閉包原理が成り立たないケースは何とも想像しがたい。第一の命題を知っていて、それが第二の命題を含意していることも知っておきながら、その第二の命題を知らないということなどありえるだろうか。ある命題が他の命題を含意する(entail)というのは、正確に述べれば、前者の含意する側の命題が真であれば、後者の含意される側の命題も真でなければならないということだ。

 

(p.57)

 

…ひとたび日常的な知識が過激な懐疑論的仮説と矛盾することが判明し、日常的な命題が真だとすると懐疑論的仮説が偽であることが導かれるとわかると、形勢は途端に逆転する。もし私たちが日常的な命題(たとえばシャツを着ていること)を本当に知っているとしたら、信じられないことに、過激な懐疑論的仮説が偽であること(たとえば自分がBIV[水槽の中の脳]でないこと)を知らなければならない立場に追いやられるのだ。逆に、懐疑論者の言う通り、過激な懐疑論的仮説が偽であることを知ることができないのだとしたら、日常的な知識も失う羽目になる。つまり、もし自分がBIVでないことを私が知らないのであれば、過激な懐疑論的仮説と矛盾する日常的な命題、たとえば私がシャツを着ていることすら私は知らないことになるのだ。したがって、懐疑論者は閉包原理を巧みに利用することで過激な懐疑を正当化できるように見える。

 

(p.61)

 

 第三章で紹介される懐疑論に対する反論とは、G・E・ムーアによる「常識に基づく議論」や、知識に関する「文脈主義」、そしてルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる「合理的吟味」に関する議論だ。第三章の最後では、これらの議論にもそれぞれに欠点やスキがありいずれも万能な反論ではないことが指摘されつつ、興味深い反論が複数なされている以上は過激な懐疑論が正しいと安易に決めつけることもできない、といった中庸的な結論が提示される。

 ……第二章と第三章の議論はいわば極論とそれに対する反論から成り立っているので、哲学的には興味深いがそれだけだという感じもあり、わたしたちの実際の人生や社会における知識や懐疑の問題にどれだけ関わるものなのか、という疑問を抱く人は(わたしを含めて)多いだろう。

 地球温暖化を否定したり疑似科学を奉じたりしている人であっても極端な懐疑論を主張しているわけではないし(むしろ、本書でも指摘されている通り、大半の疑似科学論者やデマゴーグは自分に都合の悪い科学は否定するが都合の良い科学は肯定するという選択的・恣意的で中途半端な懐疑論を提示するものだ)、社会問題について考えるうえで「水槽の中の脳」問題に悩まされる必要はない。また、自分の人生におけるあれこれを考えるうえで「わたしはいまシャツを着ているのか」ということまで疑う必要は、まったくないだろう。

 そして著者もこのことは意識しており、第四章では第二章や第三章からはガラリと変わって「生き方としての懐疑論」が紹介される。また、第三章までは近代や現代の哲学者たちの議論が紹介されていたのに対して、第四章で登場するのはアリストテレスピュロンを始めとする古代ギリシアの哲学者たちだ*1

 そして、この章では「知的な徳」や「よく生きること」「人間らしい豊かな繁栄(エウダイモニア)」をめぐる議論がされることになり、そこでフィーチャーされるのは、「過激」ではなく「適度」な懐疑論である。

 

これから見ていくように、よい人生において知的な徳がどのような役割を果たしているかを理解すれば、適度な懐疑論を身に付けることこそがよく生きる上で決定的に重要だとわかる(逆に、過激な懐疑論を身に付けるのはよく生きる上で邪魔になる)。さらに、健全で適度な懐疑論に基づいた態度を崩すことなく、それでいて自分なりの信条を貫き自信に満ちた人生を送ろうとすることは、矛盾した態度のように聞こえるかもしれない。しかし知的な徳を理解すれば、こうした矛盾は十分解消可能だと明らかになるだろう。

 

(p.121 - 122)

 

 本章でまず紹介されるのは、「徳」に関するアリストテレスの議論である。アリストテレスは「徳」の特徴として「二つの悪徳の間の中庸に位置すること」「(卓越した人の模倣を通じて)陶冶する/鍛える必要があること」「行為への動機付けを伴うこと(寛大という徳を持つ人は寛大な行動をしたがる、など)」を挙げて、また「よい人生とは徳を積んだ人生のことである」とも主張した。そのうえで、「知的な徳」に関して以下のような主張を行なったのである。

 

知的な徳の例とされるのは、知的な誠実性conscientiousness)や知的な柔軟性open-mindedness)などである。また、徳一般に知的な要素を足したものもこれに含まれる。具体的には、知的に臆病であることの対極にある知的に勇敢であることや、知的に傲慢であることの対極にある知的に謙虚であることがその例だ。

[…中略…]

そしてこの知的な徳は、やはり二種類の知的な悪徳という両極端の間に位置するものだ。一方の欠乏という端には、自分勝手な独断専行がある。これは、重要な証拠に目もくれずに拙速に決断を下し、自分の利益になることしかしないという悪徳である。他方で過剰という端には、慎重すぎるあまりの優柔不断がある。こちらは、取り組んでいる問題にとってどれが重要な証拠なのかを考慮せずに膨大な証拠に振り回された挙げ句、決断を下すことができないという悪徳である。つまり中庸としての知的な誠実性とは、この両極端の間をうまくすり抜けるように思慮を働かせることなのである。

 

(p.126 - 127)

 

 アリストテレスは、知的な徳やそれによって生み出される知識は、意味のある人生には不可欠だと考えていた。逆に、「正しい知識なんて得る方法がない」「わかることなんてなにもない」と言い続ける人は徳に基づいた優れた判断をすることができず、勇敢さや寛大さを発揮すべき場面でもそれができずに、ダメな人間になってロクでもない人生を過ごすだろう。

 一方で、過激ではない適度な懐疑論は、知的な徳と調和するように思われる。結論を急がない誠実性や、判断を下す前に多くの証拠に目を向けるという柔軟さは、「いま正しいと思えることがほんとうに正しいかはわからない」「すぐに物事を断定すべきでない」という考えを必要とするはずだ。

 

 ピュロン派は、よい人生を過ごすためには懐疑的な態度を取ることが大切である、と説いた。具体的には、議論において相手の理論的な主張に対抗するために意図的に懐疑や判断保留を誘発する技術(方式)を駆使することで、どんな意見にも中立的な態度をとれて、知的な平穏さを保つことができる。

 また、ピュロン派が主張していたのは知識そのものを疑うことではなく、「知識は慎重に探究し続けるべきだ」ということであった(これは当時のギリシアにおける「独断論者」と「アカメデイア派懐疑論者」との間の議論における中間的な見解)。

 そして、ピュロン派にとってはアリストテレスが重視するような勇敢さや寛大さなどの徳はさほど重要なものではなく、ただ知的に平穏でありながら慎重に知識を探求し続けることがよい人生には必要なのだと考えていたのであった。

 

 本書の終盤では、人生における「自信」「謙虚さ」の問題が論じられる。根拠のない自信を持つことも、すぐに自信をなくして意見を変えることも、よい人生につながらない。また裏付けのない意見を言って他人に影響を与えるような人や逆に他人の意見にすぐ影響を受けてしまうような人は、社会問題を悪化させる一因である。デマゴーグはもちろんのこと、すぐに他人の意見に惑わされて自分の意見をコロコロと変えてしまうような人も、わたしたちは尊敬することができない。

 しかし、根拠のある自信を持つ人なら、「自分の意見はどんな根拠に基づいているか」「自分はなぜこんな意見を持っているか」ということをしっかり認識できるため、自分の意見に対する反対意見や反証に耳を傾けて、適切に再反論したり、必要とあれば反対意見を取り入れて自分の意見を修正したりすることもできる。「自分の意見は正しいのだ」と決め付けずに、「いまは自分の意見は正しいと思っているが、間違っている可能性もあるかもしれないから、反対意見にも目を向けよう」という態度は、その人自身の人生を豊かにするだろう。

 適度な懐疑論は、知的な自信だけでなく知的な謙虚さにも結び付いている。ここでいう謙虚さとは「人間は認識上の欠点がある間違えやすい存在であるから自分の知識や考えについても慎重になろう」といった内向きなものというよりも、他人の意見を尊重して他人と誠実に議論を行うなどすることで他者に対して知的な敬意を持つという、外向きのものだ。

 

 ……過激な懐疑論や「パラドクス」を扱う本書の前半と、適度な懐疑論や「生き方」について論じる後半とで、本書の内容はかなり乖離しているように思われる。このことに不満を感じる人も多いようだが(Amazonレビューを参照)、わたしはむしろ本書の姿勢は好ましいと思った。

「水槽の中の脳」を始めとする思考実験や過激な懐疑論は哲学的にはあきらかに興味深い。いわゆる「哲学」が好きな人は「もっと思考実験や過激な懐疑論とそれに対する反論を突き詰める内容を読みたい」と思うだろう。また、著者はそもそも過激な懐疑論を是としていないが、過激な懐疑論に対して完全な反論ができているわけではない。哲学的なパラドクスや極論というのは概して完全な反論は不可能なものだが、過激な懐疑論推しの読者にとって、後半から急に「生き方」の話をされるのは「反論できないから話題を変えてごまかしているのだ」と感じられるかもしれない。

 しかし、「過激な懐疑論を真に受けると人生が不条理で無意味になる」という著者の問題意識にわたしは共感できるし、古代からピュロンを始めとする哲学者たちが行なってきた適度な過激論も、ScepticismのVery Short Introdutionでは紹介されるべきだろう。ちなみに、哲学的には興味深かったり反論が難しかったりするとしても実際の個人の人生や社会には悪影響をもたらすので真に受けちゃダメな議論としてわたしの頭に思い浮かぶのは「反出生主義」だ(もし反出生主義のVery Short Introdutionが出たら、やはり本書と同じような構成…現代の分析哲学から古代のギリシアやインドに遡っていく構成になるかもしれない)。

 また、適度ですらも過激ですらもない、「自分にとって都合の良い知識は信じるが都合の悪い知識は疑う」というタイプの懐疑論は、動物倫理の場面でよく出てくるものである*2。本書では科学的な制度と営みに基づく知識をやみくもに疑うことの問題も指摘されているが、実際に社会で起こっている問題の多くは、哲学的な懐疑論よりもずっと未熟で粗雑なご都合主義によって引き起こされているのかもしれない。

*1:当然ながら、第四章の内容は『一冊でわかる 古代哲学』とも関連している。

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*2:

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