道徳的動物日記

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読書メモ:『原理の問題』

 

 

 政治哲学っぽい『平等とは何か』や議論がシンプルな『自由と法』はまだ読めたのだけれど、この本は法哲学という個人的に馴染みのない分野であるうえに議論もやたらとくどくどとしており、3章ぶん(8章と9章と13章)しか読んでいないがそれでも読み進めるのが苦痛だった。

 とはいえ、8章「リベラリズム」や9章「リベラル派はなぜ平等を気にかけるべきか」では、ポール・ケリーの『リベラリズム:リベラルな平等主義を擁護して』を読んだときにわたしが抱いた「そんなに自由じゃなくて平等を優先したがるんだったらリベラリズムじゃなくてエガリタニアリズムと自称したほうがいいんじゃないの?」という疑問に関わる議論もあったので、以下に写経。

 

 

我々は平等を政治的理想とする二つの異なった政治的原理を区別しなければならない。第一の原理が要求するのは、政府がその支配下にあるすべての人々を平等な者として、つまり平等な配慮と尊重への権利を持つ者として取り扱うことである。それは空虚な要求ではない。我々の大部分は、個人としての我々が隣人の子どもたちを自分自身の子どもたちと同じ配慮をもって取り扱わなければならないとか、我々が出会うすべての人を同一の尊重をもって取り扱わなければならないとか考えてはいない。それにもかかわらず、政府がそのようにしてあらゆる市民を平等な者として取り扱うべきだと考えることにはもっともなところがある。第二の原理が要求するのは、政府がその支配下にあるすべての人々をある機会資源の分配において平等に取り扱うこと、あるいは少なくとも、彼らがその点で大体平等になるような状態の確保に努めることである。政府が万人をあらゆる点で平等にすることはできないと誰でも認めるが、人々は政府がある特定のしげん、たとえば金銭的富の点での平等確保にどれだけ努めるべきかについては意見を異にする。もし我々が経済ー政治的論争だけを見るならば、リベラル派は第二の意味における平等を保守派よりも求めていると言っても構わないかもしれない。しかしだからといって、保守派は第一の意味における平等を一層高く評価しているという結論に至るのは間違いである。私は第一の原理の方が一層根本的だと言うが、それはリベラル派にとっても保守派にとっても、第一の原理が構成的であり第二の原理が派生的だからである。

 

(p.256 - 257)

 

民主政は、個人として尊重と配慮を受けるという各人の権利を実効化するから正当化される。しかし実際上は、その権利の要請に関するリベラルな理論によると、民主的な多数派の決定がその権利を侵害することがしばしばあるかもしれない。多数派が選出した立法府が、ある行為(不人気な政治的立場を支持する発言や、風変わりな性的行為)を犯罪とする決定をしたが、その理由はその行為が他の人々から彼らの欲する機会を奪うからではなくて、多数派がその見解なりその性道徳なりに反対しているからだとしてみよう。言いかえれば、その政治的決定は、すべての人の機会をできる限り平等化するように万人の個人的 personal 選好を調整するだけではなくて、外的 external 選好、つまり他の人々が何を行い何を持つべきかについて人が持つ選好のある集合の支配を反映しているのである。その決定は、平等な者として取り扱われるという市民の権利を実効化するのではなく、侵害する。

(…中略…)

それゆえリベラル派は、強い外的選好をもともと反映しそうな政治的決定がなんであるかを定め、そしてそれらの決定を多数決的政治制度から排除するという効果を持つ市民権制度を必要とする。そのために必要な権利制度は、いかなる時であれ多数派が持ちそうな偏見やその他の外的選好に関する一般的事実に依存する。そして別々のリベラル派は、特定の時に必要とされるものが何であるのかについて意見を異にするだろう。しかし(全体において)最高裁判所が解釈するような、合衆国憲法権利章典に規定された権利は、多くのリベラル派が今日の合衆国が必要とするものにまずまず合致すると考えるであろうものである(もっとも彼らの大部分は、性的な表現や行為などのようなある重要な領域で、個人の保護が弱すぎると考えるだろうが)。

 

(p.265 - 266)

 

しかしながら刑事法の重要な部分は、立法府がある政治的決定を行う権限を失わせる公民権制度ではたやすく満たすことができない、特別の問題を提起する。リベラル派も知っていることだが、実効性ある刑事法が要請する最も重要な決定のほとんどは、立法府によってなされるのではなくて、検察官と陪審と裁判官によってなされる。検察官は誰をいかなる犯罪について訴追するかを決定し、陪審と裁判官は誰にどれだけの刑を科するかを決定するのである。そしてこれらの決定はもともと決定者の外的選好によってゆがめられる恐れが極めて大きい。なぜなら典型的には裁かれる人々と裁く人々の態度と生き方が極めて異なるからである。

(…中略…)

刑事手続きは無実の者に有罪判決を下すことがないような強いバイアスを持つべく、安全さの余裕を決定の中に含むように構築されねばならない、と彼は主張するだろう。リベラル派は、これらの手続的権利が刑事法課程の正確さーーつまり、有罪か無罪かの決定が正しいものになる蓋然性ーーを向上させるだろうと考えているわけではない。手続的権利は、たとえ正確さを犠牲にしてでも、直接除去できない外的選好によって刑事法過程が歪められるという元々の危険を大まかな方法で減ずるために、その過程に介入するのである。

 

(p.266 -267)

 

 

…我々はここで共同体における消極的メンバーシップと積極的メンバーシップとを区別しなければならないのである。全体主義的な体制は、その共同体の中にいてその政治権力に従うものは誰でもその共同体のメンバーであって、その共同体の偉大さと未来の名においてメンバーから犠牲を要求することが正当にできる、と考えている。だが人々を平等な者として取り扱うと言うことは、もっと積極的なメンバーシップ観を要求する。もし人々が自らの共同体のために犠牲になるよう要求されるならば、彼らはその犠牲から利益を受ける共同体が彼らの共同体である理由を何か与えられなければならない。たとえば、デトロイトの黒人失業者はアフリカのマリ国民の公共的徳や未来の世代よりもミシガン州の公共的徳や未来の世代に一層大きな関心を持つべきだ、といったものである。

自分自身の独立性と平等な価値を正当に感じている人は、いかなる条件下で、ある共同体について自分の共同体として誇りを持てるのだろうか?それには少なくとも二つの条件が必要だと思われる。彼がその共同体の現在の魅力ーーその文化の豊かさ、その制度の正しさ、その教育の想像力ーーに誇りを持てるのは、自分の生がこれらの公的な徳に依拠し、そしてそれらに寄与するときだけである。彼がその共同体の未来と同一化して現在における欠如を暴政ではなく犠牲として受け入れられるのは、その未来の形成にいくらかでも参加できるときに限られる。また約束される反映が、彼の特別に責任を感ずるもっと小さくて身近な共同体ーーたとえば彼の家族や子孫ーーに、少なくとも平等な利益を与えるであろう場合、そしてその社会がそれを彼と彼の民族とにとって重要なものにした場合に限られる。

これらは最小限の条件と思われるが、それにもかかわらず厳格なものである。それらは一緒になって、いかなる政策にも深刻な制約を課する。どんなに小さな、あるいは政治的にも微力な市民のグループにも、平等な配慮が彼らに与えるはずの平等な資源を拒むことはできないのである。むろん実現可能ないかなる政策も、あらゆる市民に彼の目から見た価値ある生を与えることはできない。しかし上記の制約は、平等を尊重する政府が複数の選択肢のうちから意図して選べるものに限界を与える。人々がその共同体の政治的・経済的・文化的生活に積極的に関与することが実際上できないような生活を強いられることは、それが避けられない場合でなければ、あってはならない。だから経済政策が失業の増加を予期するものならば、それは再訓練か公的な雇用への潤沢な公的支出をも予定するものでなければならない。貧しい人々の子どもたちの教育が出し惜しみされたり、彼らが社会の底辺に閉じ込められたりされてはならない。さもなければその子どもたちに対する親の愛情は、彼らが大切に思うはずの未来への同一化を可能にするのではなくて阻害することになる。

 

(p.285 -286)

 

(↑ この議論は日本における就職氷河期世代への公的補助を主張するための論拠にもなりそうだ。)

 

いずれにせよ、私の議論は目標[帰結]に基礎を置く議論の一般的な弱点を示している。その弱点は、これらの議論がポルノグラフィーへのリベラルな態度を擁護するために用いられるときに特に明白かもしれないが、たとえば贋の政治的演説や憎悪的な政治的演説のような、他の不人気な活動の保護を擁護するために用いられるときでも伏在している。我々の大部分は、おそらく十分定式化できない理由から、共産主義者がハイドパークの石鹸箱の上に立ってロシアによるアフガニスタン侵略を擁護したり、ネオナチがヒトラー賛美の文書を出版したりするのを禁止することは間違っていると信じている。これらの確信を目標に基礎を置いて正当化する議論は次のようなものである。ーー不愉快な政治的言論を許すことは、我々に苦しみを与え、そして他の人々を説得してしまうという可能性が常にいくらかあるので、短期的には我々の状態を悪化させるかもしれないが、それでもその言論を許す方が長い目で見れば我々の状態を改善する、つまり我々自身が設定すべき目的の達成に近づくだろう、という理由があるーー。この議論は、我々の偶然的でない信念のために偶然的な理由を持ち出すという弱点を持っている。と言うのは、自由な言論がなぜ我々の長期的な利益になるのかについて通常語られる話は、運動法則のような深い物理的必然性や人間の遺伝子構造や心理的組成に関する深い事実から引き出されたものではないからである。その議論は高度に論争的で、思弁的で、そしていずれにせよ周辺的である。もしその話が真実だとしても、それは単に真だというにすぎず、それを受け入れるべき何か圧倒的な理由を持てることはない。だが自由な言論に関する我々の信念は試行的でも気乗り薄でも周辺的でもない。それは単なる信念ではないのである。我々のような人々が深くて恒久的だと考える確信を持つことが、我々に与える利益が一時的で偶然的だとしても、我々はなぜそれを発展させるのか。その理由を、目標を基礎にして説明することはたやすくできるだろう。しかしそれは今の論点からはずれている。問題はむしろ、これらの説明はこれらの信念が我々にとって有する意味の正当化を与えないということにある。

ポルノグラフィーに関するリベラルな信念の場合、基本的な政治的信念の目標規定的正当化すべてに存するこの問題は悪化する。なぜなら目標に基礎を置く話は思弁的で周辺的なだけでなく、もっともらしくもないからである。政治的言論の自由の場合、各人は自分自身の独立した政治的信念の発展に重要な利益を持っている、なぜならそれは彼の性格の本質的部分だし、彼が出会う他の人々の意見が多様ならば多様なほど彼の政治的信念は本当に彼自身のものになり自分自身の性格の産物になるからだ、ということを我々は目標基底的理論に対して認められるだろう。我々はまた、共同体内部の政治的活動は多様性によって、それも全く軽蔑すべき観点の導入によってさえも一層活発になる、とも認められるだろう。これらこそが、ナチが演説をするとき諸個人も全体としての共同体も少なくともある点では利益を得るのはなぜかについてのまともな議論である。これらの議論は政治的表現の自由を支持するだけでなく、政治的言論の量が増えることも支持する。しかし大部分のポルノグラフィーの場合、これと同様の議論はばかばかしく思える。そして人々がポルノグラフィーを私的に読む権利を支持する人々の中で、ポルノグラフィーがたくさんある方が共同体あるいは個人にとってよりよいことであると実際に主張する人はほとんどいない。だから目標に基礎を置いてポルノグラフィーを擁護する議論は、目標基底的な言論の自由擁護論の最強の(とはいえやはり偶然的な)潮流なしですまさなければならない。ウィリアムズ報告書は巧妙にその欠点を無視しているが、それは標準的な言論の自由擁護論と違って、許容されるものが多ければ多いほど誰の利益にもなると想定しないようなポルノグラフィー許容論を提出することによってである。しかしすでに見たようにその議論は失敗である。なぜなら特に、その議論がそのような想定あるいはそれに類したものを含んでいないからである。それがポルノグラフィーの価値に対して懐疑主義を主張することは、(<滑りやすい坂>論法の助力を受けても)ポルノグラフィーの禁止に対する公平な懐疑主義以上のものを与えない。

 

(p.413 - 414)

 

 この議論は、『自由と法』で展開された学問の自由の擁護論や、言論の自由の「手段的」(≒目標基底的)擁護論と「構成的」(≒権利基底的)擁護論との違いに関する説明などにも関わってくるだろう。

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