道徳的動物日記

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賭けと人生と平等(読書メモ:『平等とは何か』③)

 

 

 

もし保険というものが利用可能だとすれば、これは自然の運と選択の運を連結する役目を果すことになるだろう。というのも、災害保険に入ったり、これを拒否することは計算された賭けと言えるからである。もちろん、保険が二つの運の区別を消し去ることはない。医療保険に入った者でも、予期せぬ隕石に当ったならば、依然として自分の不運を被ったことに変りはない。このとき彼は、保険に入ったうえでこれを必要としなかった場合に比べれば、より悪い状態に置かれているからである。しかし、保険に入らなかった場合に比べれば、彼はより良い選択の運をもったことになる。彼は、保険を拒否するような賭けをしなかったおかげで、より良い状態に置かれているからである。

 

(p.105 - 106)

 

これと同じ論点は、賭けの勝者から敗者へと事後的に再分配を行うべきだ、という議論を考察する際にも指摘することができる。もし、勝者が自分の獲得物を敗者に分け与えるように要求されるならば、誰も個人として賭けなどしないだろうし、賭けに最終的に勝った人と負けた人の双方が先行している類の人生も送れないことになるだろう。もちろん、再分配を行うと或る形態の人生はそれほど魅力的ではなくなり不可能とさえなる、といった議論は、資源の平等を達成するためには再分配が必要であると主張する人に対しては有効な議論とは言えない。というのも(我々が本章で想定している)平等の要求は他の要求事項に優先するものであり、後者の事項には、人々が送ることのできる人生の種類が豊富にあることも含まれているからである。(いずれにしても平等というものはある種の人生ーー例えば、他人を経済的および政治的に支配するような人生ーーを不可能にしてしまう。)しかし、今問題にしているケイスがこれと異なっていることは明白である。なぜなら、賭けの勝者から敗者へと再分配を行う結果、彼らがともに選好する人生が両者から取り上げられてしまうからである。これは次のことを示している。すなわち、このようなことは、人々が送れる人生の諸形態を彼らの意に反して削減させてしまうだけでなく、競売に供される品目の組み合せ方の決定に平等な仕方で参加する機会を彼らから奪ってしまう、ということである。これはちょうど、千鳥の卵もラクレット酒も嫌いな人が、競売に際してこれらの二つの品目の束しか与えられないのと同様である。彼らはともに、賭けが初めから競売の中に含まれるか、あるいは彼らが後にそれでもってリスクを冒しうるような資源で表現されるものとして賭けが競売品目の中に含まれることを望むのである。そして、賭けで損をする可能性というものは、賭けで得をする可能性を含むような人生を送るために支払うべき正しい代価ーー我々が用いてきたような測定基準で測定される正しい代価ーーなのである。

 

(p.107, 強調は引用者による)

 

 

 これも言われてみれば当たり前のことだが(政治や道徳に関するまともな哲学とは「われてみれば当たり前のこと」しか書いていないものだが)、わたしを含む一部の人にとってはハッとする論点ではないだろうか。

 わたしは賭けというものがとことん嫌いであり、遊び呆けていた大学生の頃にすら、競馬などの公営ギャンブルも身内での賭け麻雀やチンチロリンといったものをやったことがない(パチンコは友人の金で一回だけやらせてもらったことがある)。リスク回避傾向がかなり強い人間であるからだ。そして、わたしのリスク回避傾向は、人生レベルの選択にも影響している。たとえば仕事に関しては、現時点では紆余曲折あってフリーランスの文筆業というリスクが大きめの仕事をしているが、ほんとうのところは、大きく稼げる可能性は少ないが安定した収入を得られて、あまり充実しているとはいえないが心身に負担をきたさないようなラクな仕事をして生きていきたいのである。海外移住もしたくないし(移住先でなにがあるかわからなくてこわい)、いくら美人で魅力的であったとしても引く手数多でライバルが多かったりファム・ファタール的な悪女であったりする女性と恋愛したいとも思わない。

 この選好はわたしに限らず多くの人に共有されているものであり、いわゆる「小市民」のそれであるだろう。そして、既存メディアにせよネットにせよ、「社会はこうあるべきだ」「資源はこのように分配されるべきだ」といった議論がされるときには、「小市民」の選好や願望に基づいた意見が目立つことが多い。しかし、その際には、「賭け」をしたがるタイプの人々…つまり、「おれは太く短く生きたい」「ビッグになれるか落ちぶれるかのどっちかだ」といった人生観をしている人々の選好や意見が無視されることが多いのだ(基本的にこういうタイプの人々はチマチマと勉強したり文章を書いたりすることが少ないのも影響しているだろう)。

 自分と真逆の人生観というものは想像するのが難しい。また、わたしたち小市民からすれば、賭けをしたがる人々の意見が長期に渡って持続するものであるかどうかも疑いたくなる…「いまは"太く短く生きたい"と言っているけど年を取ったら"もっと健康に長生きしたかった"と後悔するんじゃないの?」「実際に落ちぶれたら、"ビッグになれなくてもいいから安定した人生を生きたかった"と泣き言を吐くんじゃないの?」と思ってしまうのだ。また、それらの意見を言っている人があまりに若かったり、思慮が足りなかったり騙されていたりするのが確実である場合には、彼らの要望を却下するというパターナリズム的な取り扱いが必要になる場合も有り得るとは思う。

 しかし、おそらく、賭けをしたがる人々の意見は本気のものであるし、人や場合にもよるだろうが、賭けで負けた場合にも彼らはその事態を甘んじて受け入れるのだろう。すくなくとも、賭けをする機会もなかった人生よりも、賭けをして負けた人生のほうが、彼らにとってはまだしも満足がいくものなのである。……たとえばお笑い芸人や起業家の多くはそうであるようだし、おそらくスポーツ選手などの他のエンターテイナーや飲食店主などの諸々の個人事業主も同様だ。そして、資源の再分配によって彼らが「賭け」をする機会を奪うことは、小市民の選好は尊重するがそうでない人の選好を無視しているという点で、たしかに不平等な取り扱いであると言える。

 もちろん、彼らが「賭け」をした成果はわたしたち小市民も享受していること(諸々のエンタメ、外食、企業の提供するサービスや発明、投資によって潤う経済などなど)を忘れるべきでもない。