道徳的動物日記

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読書メモ:『政治哲学への招待』③

 

 

 

写経。

 

●自由について

 

自由は、三者からなる関係である。それは、必ず三つの事柄への言及を含んでいる。すなわち、自由の行為主体、あるいは主語であるx、制約、干渉、あるいは障害であるy、そして、目標、あるいは目的であるzである。自由についてどのような主張をあなたが思い描いたとしても、そこにはーー明示的にせよ、暗示的にせよーー、何かをなす、あるいは何かになるために、何かから自由である行為主体という考え方が含まれている。自由について意見が一致しない人々は、何をxと見なすのか、何をyと見なすのか、そして何をzと見なすのかについて一致していないのである。

 

(p.78)

 

…極めて大雑把に言えば、右翼は、自由は、本質的に、他から干渉されないこととかかわっているので、できる限り少しのことしかしない国家とレッセ・フェールな自由市場経済によってもっとも促進されるのだと論じる。他方、左翼は、自由には干渉されないこと以上のものがあるのだと主張する。人々の現実のーーあるいは、実質的(あるいは、ときには「積極的」)ーー自由は、ただ彼らをほおっておくことによってではなく、さもなければなしえなかったであろう事柄をなす立場に彼らを置いてやることによって促進されうるのである。右翼は、国家の役割を限定することーーおそらくは、ノージックが唱道する「夜警」の役割にまでーーを望んでいる。左翼は、より積極的、介入主義的な再分配を担う「できるようにする」国家が、自由を根拠にして、正当化可能であると主張している。左翼によれば、右翼は単純な自由の「消極的な」見解と強く結びついている。他方、左翼は、自由をより「積極的な」仕方で理解しているのである。ブレアが擁護しようとしていたのは、こうした自由の「積極的な」構想である。

(……中略……)

このような実質的ーー形式的ではなくーー自由としての自由の構想は、バーリンが「積極的」自由と呼んでいる事柄のひとつであり、また彼が強く警告を発している事柄のひとつである。バーリンによれば、われわれは、自由を、「その行使の諸条件」と混同すべきでない。この見解においては、すべてのイギリス市民は、バハマに遊びに行く自由を持っているのである。ある人々は、その自由を行使するための諸条件を有しているが、その他の人々は、そうではない。もしわれわれが、実質的自由の構想を支持するのであれば、われわれは、自由ーー他からの不干渉という「消極的な」考え方の観点から、実際には、理解されるべきであるーーを、平等や正義のような他の価値と混同しているのである。バーリンはここで、すべての善き事柄は、必然的に合致するという楽観的な考えに対して強く警告を発している。たとえ平等や正義が、ある人から他の人への資源の再分配を要請するとしても、われわれは、そのような再分配が自由もまた促進するなどと主張すべきではない。国家は、正義や平等の名において、人々の生活に干渉するのは正しいのかもしれないが、その行動は、自由という価値に訴えることによって正当化可能であると主張することは、人を誤らせる危険性を持っているのである。人は、一般に、自らの諸概念を、不鮮明な混ぜこぜ状態へと曖昧化させてしまうよりも、それらを明晰に保つよう注意すべきだとしている点で、バーリンは正しい。しかしそこから、貧困の中に生きている人々には、バハマに遊びに行く自由があるーー単にその自由を行使するのに必要な諸条件を欠いているだけーーという結論が引き出されるわけではない。

 

(p.81 - 83)

 

 

自由の道徳化された構想と道徳化されいない構想の間の区別は、権限としての正義というノージックの見解に関する議論の中で、われわれが出会ったような種類のリバタリアンの主張について、われわれが考える手助けをしてくれる。第一章は、自由を尊重する人は、私有財産権を信じなければならないし、再分配のための課税に反対すべきであるという提案について議論した。もちろん、現実の政治において、あらゆる再分配のための課税に反対する人はほぼいない。しかし、右翼の多くが、自由という価値は、市場の結果からの最小限の再分配を必然的に支持すると考えていることは確かである。彼らは、もしそのような再分配が正当化されるべきであるとするなら、それは、自由以外の根拠(平等、正義、治安)に基づいてでなければならないと考えている。それゆえ、この議論が、どのように作用すると考えられいるのかは見ておくに値するのである。

私有財産を持っている人は、もしそれを持っていなければ、なす自由を持っていなかったであろう事柄をなす自由を持っているということは確かである。バルモラルを散歩する女王や、飛行機を保有していて、いつでも好きなときにバハマに飛んで行ける金持ちを考えてみればよい。しかし、私有財産を持っていない人は、どうだろうか。彼らにとって、女王がバルモラルの丘を所有しているという事実は、その丘を散歩する彼らの自由に対する制限を構成している。別の誰かが飛行機を保有しており、運賃を支払ったときにのみ、他人をバハマまで飛行させるという事実は、バハマに行く彼らの自由に対する制限を構成している。リバタリアンは、自分たちは自由を大切に思っていると語り、自由を根拠にして私有財産権に賛成する。しかしながら、彼らは、私有財産権の存在によって、必然的に生じる自由は、気にかけていないーーあるいは、気づいてすらいないーーように思われるのである。

リバタリアンが、自分たちの推奨する解決策が必然的に生み出す不自由に盲目であるということを、いったい何が説明してくれるだろうか。最良の説明は、彼らは、道徳化された自由の構想と協働しているのだと考えることである。彼らの見解では、私有財産は、それを持たない人が、さもなければしたかもしれない事柄をするのを妨げることが正当化しうる限り、その人の自由を制限してはいないのである。この見解によれば、われわれは、バルモラルの丘を散歩することを妨げられた人は、自由を奪われていると考えるべきではない。というのも、女王の地所に対する所有権は、そのような制限を正当化するからである。しかしながら、女王から地所を取り上げることは、その地所は正しく彼女のものであるのだから、彼女の自由への干渉を含んでいるだろう。このことは、リバタリアンの見解が、究極的には、所有権の正当性についての見解であることを示唆している。彼らが自由に訴えているところとは、実際には、何が自由の制限と見なされるーーそして、見なされないーーのかについての判断を、特定の所有権の正当性についての判断に依拠させるようなある構想に訴えかけているところなのである。その意味で「リバタリアン」という言葉はーー「自由」という語の横領を伴っておりーー、誤解を招きやすい。道徳化されていない自由の構想と協働している人は、リバタリアンの社会における、自由の欠如ーー財産が私的に所有されているというまさにその事実によって、さもなければできたかもしれないことを妨げられたすべての人が経験しているーーに気づいている。そのような人たちは、自由の名において、私有財産の廃止ーーあるいは、再分配ーーを唱道するかもしれないし、また、自分たちを自由の敵だとする示唆には、憤慨する可能性が高いのである。

 

(p.100 - 102)

 

●共同体とリベラリズム

 

[共同体主義者によるリベラリズムに対する反論として]……もし「リベラルな共同体」が機能すべきであり、人々が同胞市民を正しく取り扱うために自己利益の追求を進んで制限すべきだとすれば、人々は、単なる「同じ国家の市民」であるという感覚を超えた、より厚く鼓舞するような共通のアイデンティティの感覚を共有していなければならないのではないかという疑念である。もし私が、他の人間を気遣う以上に同胞市民を気遣っているということが正しいとすれば、それは、われわれが同じ抽象的な諸原則に同意しているからでも、リベラルな国家を維持するというプロジェクトに合同で携わっているからでもない。私の同胞市民はまた、私の仲間である同国人だからである。彼らが、私にとって特別ーーリベラルの物語が、単に共通のシティズンシップという観点から説明しようとしている権利や義務を受け入れるに足るほど、私を彼らと同一化するのに必須だという意味において特別ーーであるのは、共用された言語や共有された伝統、共通の歴史を持った私に似たイギリス人だからである。動機づけの働きをするのに必要とされるのは、抽象的なシティズンシップの観念ではなく、われわれの共有された国民的アイデンティティーーイギリス国民としてのアイデンティティーーである。

(……中略……)

自らを普遍的で抽象的な観点で提示してはいるが、「リベラルな共同体」という観念は、より排他的で、より家族に類似したものを前提していると反対論は主張する。家族と同様に、国家のメンバーとしての自分自身に対するわれわれの感覚は、共通の歴史が存在するという信念に基礎を置いている。それは、われわれに、自分たちが何者であるのかに関する感覚を与えてくれるのである。そして、それは、排他的な道徳的紐帯を生み出す。国家が国民(民族)と一致するがゆえにーーあるいは、一致する限りにおいてーー、われわれは、国家ーーわれわれの政治共同体ーーと自分を同一視する。もし国民(民族)と国家が一致しないならば、われわれは、それらが一致しうるように事態を変えようとしたとしても不思議ではない。(ソ連崩壊後のヨーロッパにおける紛争は、主としてお互いを同じ国民(民族)のメンバーとして同一視し、国家と国民(民族)を一致させようとする人々にかかわるものであった。)それゆえ、共同体主義者の説明によれば、「リベラルな共同体」という観念は、自己充足的なものではない。それは、同胞市民を公平に取り扱うという最小限の理念を超えた共同体の構想に訴えかけることなしには、特別な道徳的関係を説明することができないし、平等主義的なリベラルがそうなることを望んでいるように人々が動機づけられるということも期待しえないのである。人々のアイデンティティは、「シティズンシップ」といった抽象的な観念よりも個別的なものによって「構成され」なければならない。それは、共同体主義者が、当初からずっと言い続けてきた種類の事柄である。

 

(p.238 - 239)

 

何が共通のアイデンティティの感覚を、生み出しているのだろうか。何が人々を導いて、お互いに対する一種の連帯感ーー再分配を行おうとするリベラリズムの要求水準の高い諸原理に従って、お互いを取り扱うよう動機づけるのに必要とされるーーを抱かせるのだろうか。戦争は、有効である。イギリスの福祉国家への支持が、第二次世界大戦の直後に頂点に達したことは、偶然ではない。共通の目的や同じボートに乗り合わせているという感覚を形成し、分断する社会の境界線を突き崩す人々の間の一種の相互交流を生み出すのに、戦争ほど好都合なものはないのである。そのような感情が弱まっていくにつれてーー社会が、より多元的で、多様なものになり、文化的に同質なものでなくなるにつれてーー、ある種の国民的ーーあるいは、市民的ーー奉仕の擁護論は強まっていった。いまでは、人々が、自分自身を、国家のメンバーとは感じずに、より地域的で個別的なグループ分けーーエスニシティ、宗教、生活様式ーーに主として同一化することは、容易である。人々に、人生の一年間を、「国民的奉仕(兵役義務)」と見なされており、そのようなものとして提示されているものに捧げるよう求めることは、たとえそれが、ローカルなレベルで履行されたとしても、彼らの中に、「市民としてのアイデンティティ」の感覚を育てるかもしれない。もちろん、こうしたことは、彼らの自由を制限するだろう。そうした根拠に基づいて、それに反対するリベラルもいるかもしれない。しかし、リベラルは、自由だけではなく、正義もまた大切に考えているのである。もし人々が、共通のアイデンティティの感覚を共有している人に対してのみ、公正に行動するよう動機づけられており、また強制的な国民的奉仕には、そうした感覚を伝える力があるのであれば、リベラルは、それが持つ自由制限的な含意を進んで受け入れるべきなのである。

 

(p.240 - 241)