道徳的動物日記

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自由市場が限定されるべき(意外な)理由(読書メモ:『「正しい政策」がないならどうすべきか 政策のための哲学入門』①)

 

 

 

 動物実験やギャンブルにドラッグなどの規制、公共交通機関の安全性や刑罰や健康など、様々なトピックに関する政策について、哲学・倫理学の視点から何が言えるのかということを考えていく本。

 本書の特徴はふたつある。ひとつめは、政策に関する議論について哲学が及ぼし得る影響力をウルフがかなり現実的にーーつまり、少なめにーー見積もっていること。したがって、抽象的な理論に基づく正論を言ってハイ終わりと済ませずに、むしろ各トピックについて哲学の正論がなぜ賛同を得られないかや現実の問題に対して有効でないかが分析されたうえで、結果的にはどの章でも常識や世論に対して哲学がかなりの譲歩を行う、という構成になっている。

 この点については「日和っている」と思う人もいるかもしれないが、ある種のプラグマティズムであるし、実際に政策論議について哲学を持ち込んでもこういう風にしかなり得ないだろうなという納得感も抱ける。(また、応用倫理学の文章を読んでも、法律や規則の作成に関する議論への参加などの実践的な場面についてはこういう温度感の主張を行なっているようだ。ウルフ特有のスタンスというよりも、哲学者が現実に関わるときには一般的な態度であるのだろう。)

 ふたつめは、各トピックに関する議論において、ウルフのオリジナリティが溢れる意外な見解や変わった角度からの考察が登場することだ。『哲学入門』ではあるが、無難な教科書的見解を書き連ねただけの本ではないのである。

 

 たとえば、「ある種の財は自由市場で売られるべきではなく、自由市場とは違った方法によって人々に配分されるべきだ」といった直感的な見解(サンデルが『それをお金で買いますか』などで散々論じてきたような主張)に関する以下の議論は、わたしは初めて目にしたものだが、なかなか印象に残ったしそれなりの説得力を感じた。

 

あるいは、チケットの転売、いわゆる「ダフ屋行為」について考えてみてほしい。多くの人はこれを極めていかがわしい行為だと思うし、それがさまざまな形の詐欺を含んでいることが多いのは事実だ。しかし、いかなる詐欺も含まれていない場合、少なくともその行為のもつ外部性についての潜在的な長期的影響を考えることなしに、それのどこが問題なのかを正確に言うことは難しいだろう。私がいま言及した「阻止された取引」ーー駐車スペース、電車の座席、コンサートのチケットーーについて興味深いのは、関わっている財がありふれたものだということだ。これらの財そのものの性質の中に、それらの取引を阻止したいと思わせるような何かがある、とは言い難い。市場取引が、駐車することや電車で座ること、また娯楽イベントに行くことの社会的意味を堕落させる、などとわれわれは本当に言いたいのだろうか。それは馬鹿げたことだろう。これらの財はすべてお金で売られるものなのだ。ポイントは、われわれはそれらの財について何らかの市場は認めるが、その他の市場には強く抵抗するということだと思われる。なぜなのだろうか。

 

(p.243, 以下、強調は引用者によるもの)

 

これらの事例に関する一つの説明の出発点は、財が希少なときには、どんな社会でもその分配のためのルールを必要とする、という観察である。多くの場合には、われわれは「早い者勝ち」という要素をもつルールを使う。だが、これが唯一の方法ではない。市場決済価格を課金するというのも、もう一つの可能性だ。駐車や座席のケースでわれわれが見たのは、あるルールが有効なときには、違うルールに従って行動しようとする人を、われわれは受け入れないということなのだ。それは、駐車スペースや座席が市場価格原理によって分配されるべきではない、というわけではない。むしろ、他のルールがあるときには、それをあなた自身の目的のために覆してしまうことは、それによって誰も損害を受けなくても、不公正、あるいはもしかすると搾取的となるのだ。これはある種の第三者効果であるが、われわれが見た他の例とは大きく異なる。もしわれわれがルールを完全に他のものに替えるなら、ちょうど駐車の事例で見たように、われわれは過渡的な影響を切り抜ければ、それに十分簡単に慣れてしまうだろう。私の推測は、電車の「早い者勝ちで座る」というような、希少な財の分配についてわれわれが実行している非市場的なルールが生き残っているのは、単に、それを破る人は何か間違ったこと、さらにはとんでもないことを行なっているという、強い直感をわれわれがもっているからである、というものだ。言い換えると、われわれはルールについて、ある種のタブー的な地位を何らかの形で作り上げてきたのだ。おそらく、ルールはそれ自体としては脆弱なので、それが存続するためには、タブーによって支えられることが必要なのだろう。タブーは「強固な道徳的直観」の形で示される。それを破ることは道徳的理由からはほとんど考えられない、と思われないならば、ルールの存続はおぼつかない。しかし、財の性質にはルールを要求するようなものは何もないようだ。それは単に、われわれがどのように希少性を統制しようとしたか、ということだ。タブーはーーそして強固な〔道徳的〕直観はーールールに付随しているのであって、財に付随しているわけではない

 

(p.244 - 245)

 

…〔市場からの保護が当てはまる〕一番もっともらしい事例は、財そのものの性質の中に、売ることにより財が破壊される何ものかがあるというものである。愛と友情は最良の候補として残るかもしれない。それ以外にわれわれは、第三者への有害な効果を防ぐために、何らかの取引規制が必要だと指摘した(軍隊での階級の販売の例)。さらには、ある種の搾取やルールの破壊を避けるための市場の制約もある。しかしこれらのルールの多くは完全に偶発的なものであり、変更されうるのだ

 

(p.248)

 

[スポーツや芸術も現在では自由市場の対象となっているが、そのことは必ずしもスポーツや芸術を堕落させなかったという議論に続く段落]

このことは、すべてのものは市場で供給されるべきだということを意味するのだろうか。私が述べてきたことからは、これは導かれない。ある特定の何かが市場からは除外されるべきだとは言えない、という事実ーーもしそれが事実ならーーから、すべてのものは市場で供給されるべきだ、ということは結論されないのだ。実際、私はかなり大きな非市場の領域があるべきだと考えている。だが、ややひねくれて言うと、私は、いくつかの重要な要素を脇に置けば、十分な規模の非市場セクターがある限り、何が市場の領域におかれるかそうでないかは、あまり大きな問題ではないという見解に変わりつつある。

 

(p.250)

 

…ここで私は、さまざまな財を市場から隔離しておくことを支持する二つの議論を見てみたい。第一は、おそらくより明白なものだ。もしすべての財が市場ベースだけで提供されているのであれば、人生で経済的に成功しなかった人々は、それ以外のほとんどすべてからも締め出されてしまうだろう。非市場的供給を認めることは、より多くの人たちに、普通のレベルの〔人生の〕満足を達成可能にすることができる。

(…中略…)

第二の議論は、公的セクターと私的セクターの供給原理の違いにとくに関わっており、二つのタイプの経済的関係を比較するものである。第一は市場にあり「取引社会」と呼べるもので、そこで人々は最善の取引を求めて、個々の取引活動を行う。もし期待していたものを得られなかったり、わずかな価値しか与えられなかっりしたら、あなたには抗議する権利があり、ことによっては告訴するかもしれない。第二は、特徴づけるのは難しいが、「清濁併せ呑む(taking the rough with the smooth)」または「一長一短(swing and roundabouts)」社会として考えられるものである。このケースの考え方は、ときとして良く、ときとして悪い結果をもたらす分配の一般的ルールや方針があるが、われわれは〔その中でされる〕個々の取引をその利点によって判断するよりは、その取引実践を全体として判断するべきだ、というものだ。

 

(p.251 - 252)

 

さて、これら〔二つの利点に関する主張〕の最初のものは偶然に依存する主張である。それは、個々の価格設定により、別の形で〔社会運営の〕効率性が促進されると考えるなら、多くの人が誤りだと思うだろうものである。だが、それはある財については正しく、他の財については誤りとなるはずであり、それが正しい場合には、このことはその分野で公的供給を行うことの正当な理由である。だが、社会的連帯ーーわれわれはいまここで、みな一緒だという感覚ーーは公的セクターを拡大しておくことによって促進されるのだ。しかし、このことのポジティブな効果は、そのセクターが全体として非効率的で無駄が多いと思われれば、干上がってしまうだろう。すなわち、正味で利益があると少なくとも思われていなければならないのだ。

もちろん、物質的には得をしない人もいるだろう。そしてもし、彼らが物質的損失を引きずり、それによって過度に影響を受けるならば、他の面でも彼らは得をしなくなるだろう。よって、われわれは難しいバランスを維持する必要があるのだ。社会が最善の結果を得るためには、われわれは、公共サービスは「私に十分な価値を与えてくれるのだろうか」と問わずに、それが全体として十分な価値をもたらすのかどうかを問うことができなくてはならないのだ。さらに悪いのは、「個々の公共サービスから、私は十分な価値を得ているのだろうか」という問いだ。この最後の問いが普通になされるようになれば、公共サービスは脆弱になり、われわれの被る潜在的損失は極めて甚大なものになるだろう。したがって、もしわれわれが公的セクターを社会的連隊と効率的供給を生み出すための手段にさせたいなら、われわれはそれを維持し、かつそれには一定の〔限られた〕形の審査のみを受けさせるようにしておく必要がある。

 

(p.253 - 254, この段落のみ強調は引用元から)

 

 まず、「財の性質に関わらず、なんらかの財は市場で取引されないほうがよい」という議論は、「なんでもかんでもが売り買いされる世の中はイヤだ」というわたしたちの多くが抱いている直感にマッチしている。とはいえ、経済学者であれば、ほぼどんな財についてもそれが自由市場で取り引きされることの理由や効率性を指摘することができるかもしれない(自由市場はそれだけ合理的で優れたシステムだということかもしれないし、「理屈と軟膏はどこにでも付けられる」ということであるかもしれない)。

 実のところ、わたしだって、世間では評判が悪く多くの人が「市場で取り引きされるべきでない」と考えているであろう代理出産についても「代理母の決定権や安全性が保証されているのなら、関係者双方の自発的な取り引きに文句を言うべきではないな」と思うところが強い。また、サンフランシスコの不動産価格暴騰に伴うホームレス問題についても、その惨状に胸を痛めはするが、不動産価格が上がること自体には然るべき理由があることや、政府などが無理に家賃などにテコ入れしても副作用が歪みが生じるであろうことは察せられる*1

 ここで言いたいのは、特定のタイプの財について「その財が自由市場で取り引きされるべきでない理由」を述べようとしても、あえなく反論を受けてしまうだろうということだ。……しかし、本書の議論は、財のタイプではなく財の取り引きに関するルールに注目することで、「その財が売買されるのには然るべき理由があるんですよ」といった経済学的な反論を回避することができている。

 また、ブランコ・ミラノヴィッチが『資本主義だけ残った』で「スマホやアプリなどのテクノロジーの発展により、これからは人々の自由時間や私的領域もすべて自由市場における売買の対象になるだろう」という議論をしていたのを読んだときには、「そんな世の中はあまりに侘しくて不愉快なので間違っている」という(規範的な)感情を抱くと同時に「いくらなんでもそこまで"ホモ・エコノミクス"的な世界ができあがるわけないでしょ」という(事実的な)判断もしたものだ*2。本書のなかでウルフが行っている議論は、規範的にも記述的にも、ミラノヴィッチの議論に対するわたしの違和感を説明しているように思える。なんでもかんでもが売買されてしまう社会はロクでもないし、ロクでもないのがわかっているからこそ社会にはなんでもかんでもが売買されないようにするための防衛機能が備わっている……と考えることができるかもしれない。

 

 さらに、公的セクターには財を供給すること以上に社会的連帯を生み出すということに意味がある、というコミュニタリアン的な議論も、こういう形で提示されると納得がいく(サンデルと違ってウルフは経済学的な発想をしっかり検討したうえで提示しているので、誠実さが感じられるということ)。

 そして、公共サービスについて「私は十分な価値を得ているのだろうか」と問うてはいけないという、ついつい忘れがちな正論が書かれているところもいい。……とはいえ、正論ではあるがゆえに、これこそが公共サービスをキープすることが難しい理由でもある。維新の党的な「ネオリベ」で「ポピュリズム」な改革は大衆から受け入れがちであるが(わたしもついつち気持ちの上では賛同してしまいがちだ)、それに反論するためには、「自分の視点からではなく全体としての視点から考える」という必要ではあるが不自然な思考を人々に行ってもらわなければならないのだ。

 

*1:家賃テコ入れの問題はジョセフ・ヒースの『資本主義が嫌いな人のための経済学』でも扱われていた。

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp