道徳的動物日記

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市民の議論に対して哲学者が提言できる範囲とは?(読書メモ:『「正しい政策」がないならどうすべきか 政策のための哲学入門』②)

 

 

 

 

●「安全性」をめぐってわたしたちの内部で生じる、帰結主義と義務論の対立

 

たとえば、鉄道衝突事故が起きた後に、犠牲者の親族が訴えるであろうことを考えてみよう。ある意味で、あらゆる衝突事故は回避できたものだ。さまざまな要素が複合して事故が起きたのであり、もし一つでも要素が異なっていれば、事故は起きなかっただろう。そして多くの場合、責任を負っている会社は、そうした事故が起こらないように何らかの仕組みや技術を導入することができたはずだ。したがって、たとえば運転士が信号に正しく応答しなかったせいで鉄道事故が起きたなら、一体どうしてこんなことが21世紀において起きるのだろうか、と思うのは当然だ。そもそも、鉄道が信号に自動的に応ずるような技術はすでにあって、それを採用している国もいくつかある。よって、技術があるなら、単純にそれを導入したらどうか。そうすれば、このような事故を一切防ぐことができる。コストがかかるというだけでその対策を拒否するのは、確かに何か不道徳なところがある。

以上の推論は極めて強力に思われ、おそらく否定しようがない。しかし、帰結主義者が、新システムを導入するコストは膨大になると反論するのももっともだ。今回の事例では、指摘したように何十億ポンドにも達するだろう。一年に一人か二人を救うために、これだけのお金を出すことは本当に妥当だろうか。とりわけ、そのお金を他の目的に使えば、もっと良いことを実現できるというのに。哲学の教科書はよく、帰結主義者と絶対主義者[義務論者]を次のような構図で描く。つまり、第一次世界大戦中に、対立する勢力がそれぞれの塹壕にいて、自らの大義は正しいと確信しているものの、どうすれば勝利できるかについては見当がついていないという構図である。しかし、今回の例では、二つの勢力が勢力が闘い合っていると考えるのは間違っている。われわれ各自の内部において、対立が存在するのである。多くの人々が、自身が二つの観点に引き裂かれているーー別の要素が視野に入ると、別の立場に意見が変わるーーのに気づくだろう。したがって、ここに極めて深刻な道徳的問題がある。

 

(p. 127 - 128)

 

[ハットフィールド鉄道事故グレート・ヘック鉄道事故について]

両事故に対する国民とメディアの関心の相違は、ある種の特別な道徳的責任という原理に訴えることによってある程度は説明がつく。ここで厳密な原理を示すのは難しいが、次の区別が関連すると思われる。つまり、鉄道会社にとって直接的な関心たるべき問題ーーたとえば線路のコンディションやメンテナンスーーと、直接の関心ではない問題ーー自動車の運転手が払うべき適切な注意の程度、といった点ーーとの区別である。もちろん、後者の問題についても鉄道会社はすべての責任を放棄できるわけではないが、その場合では、われわれの道徳的な直観はより帰結主義的になる傾向がある。つまり、絶対的、予防的アプローチーーこれは、完全に自分の責任の下にある問題については適切であるーーではなく、釣り合いのとれた、費用対効果の高い政策を求めるようになる。もちろんこれらの場合でも、コストの制約という考えが適用されねばならないが、われわれの反応が対極に向けられるという点を、われわれは少なくとも理解できる。要するに、ある事故の原因が会社にとってより直接的な管理の下にあればあるほど、会社は安全対策について絶対主義的な態度をとるべきである。

(……中略……)

もちろん、私がこれまで述べたことは、決して現在とられている対策と異なるものを正当化するものではない。むしろそれは、国民、メディア、会社が現在取っている道徳的態度が正しいのかどうか、というさらなる議論の問題である。しかし、すでにみたように、彼らの判断を裏づけている漠然とした原則は、「ある事故の原因が、より会社の道徳的過失であればあるほど、会社はより絶対主義的な態度で、同種の事件を予防すべきだ」というものだ。当然ながら、これについて論ずべきことはたくさんあり、いまはまだ議論の解決というより議論の出発点に近いのかもしれない。しかし、ここで示した原理自体はある程度明確であると思われる。しかし、次に論ずべきなのは、ある行為者の道徳的過失を生じさせるのは何なのか、という問題だ。ただし、ここではさらに議論しないことにする。

 

(p.143 - 145)

 

……帰結主義者と絶対主義者はよく対立する理論的立場として提示されるが、さまざまな事例を見当すると、われわれのほとんどは帰結主義と絶対主義のどちらの推論にも引き寄せられるということだ。よってわれわれは、問題は帰結主義と絶対主義のどちらかを選ぶことだと考えるのではなく、双方の要素を包含する立場を考え出す必要がある。

 

(p.145)

 

 帰結主義者の立場からすれば「別の要素が視野に入ると、別の立場に意見が変わる」という恣意性や不安定さを回避するために、わたしたちは義務論(絶対主義)ではなく帰結主義を採用すべきだ、ということになるだろう。鉄道事故で死んでしまった人の身からすれば、過失が鉄道会社にあるかその他の要素(運転手など)にあるかは些細なことであり、そこに第三者であるわたしたちがこだわるのは「過失の種類が直接的であるほど、責任は重くなるべきだ」とわたしたちが感じているからに過ぎない。そして、この感覚には実のところ大した根拠がないこと、この感覚には集団での協力や配分といった社会的行為を円滑にまわすという機能はあるかもしれないが道徳と本質的な関係があるかどうかは定かでないことを、ジョシュア・グリーンやピーター・シンガーなどの帰結主義者なら指摘するはずである(進化論的暴露論証)。

 ……とはいえ、上の段落はあくまで哲学者が哲学者に対して行うような議論であり、『「正しい政策」がないならどうすべきか』では哲学者ではない一般人の感覚や思考を尊重しながら、哲学者が政策に対して提言できる範囲は限定されている/限定されるべきである、ということを前提にしながら書かれている。

 

公共政策の問題に、あたかもあなたが何かの撲滅運動にでも参加しようとするかのように、「まず、あなたの〔正しいと思う〕理論を選びなさい」という方法論によって取り組むことは、哲学的には興味深い帰結を導くかもしれないが、現在の政策論争にとって有用な〔論争上の〕貢献につながることはまずない。もちろんーー私はまたこのことを明確にしてきたと思いたいがーー根本的な哲学的議論は、論争における極めて重要な部分であり、議論を豊かにする多くのアイデアをつけ加えてくれる。だが、それらは、それら自体としては何も解決はしないだろう。ここで暗黙の裡に推奨された方法論は、実践的な問題について考えるときには、他方の極から始めるべきだ、ということを提案する。つまり、哲学的理論ではなく、公共政策における目下の意見の対立から始めるべきということである。われわれは次のことを問う必要がある。人々は、自分たちがどう意見が対立していると考えているのか。そして、それは意見の不一致を理解する最善の方法なのか。他によりよい方法はあるのか。そして、もしそうなら、それは進歩を生み出すための新しい道筋を拓くのだろうか。哲学者は公的議論の条件を明らかにするのに貢献できる、とよく言われる。もちろん、哲学者はこれができる唯一の人々ではないが、区別をつけたり、結論に向かって議論を追求したり、比較的に緩い議論をより厳密な形式で再構成したりすることは、われわれの(哲学者として受ける)トレーニングの一部である。だが、このことをするためには、まず、自分が介入したいと思う論争に突っ込まなくてはならない。

 

(p.48 - 49)

 

 

●動物の取り扱いに関する「議論」と、「動機」や「行動」とのギャップ

 

しかし、少なくとも私にとって奇妙な点は、[動物実験に関する帰結主義や義務論などの]そのような議論にはどんなに知的に説得力があっても、私は動機に訴えるそれほど強い力を見出さないということなのだ。私はいまだに、動物で試験された薬や家庭用品を使っている。私の大学で行われている動物実験について、私は抗議していない。だいぶ後ろめたいものの、私は肉を食べ続けている。道徳哲学者のR・M・ヘアなら、表明された信念と行動のこの組み合わせに対して、私の主張は不誠実なのだと論じて応答するだろう。ヘアは誠実な道徳的信念はつねに行動にあらわれると論じたが、私の行動は私の主張する信念に従っていないのだから、動物への危害ある取り扱いに対して私が行ういかなる道徳的主張も、必然的に不誠実なのだ。だがこの議論は、私には教条主義的で説得力がないように思われる。現象学的には、道徳的議論は良心のレベルで最も強く衝撃を与えるものであり、それが行動を生み出すものかどうかは、さらなる別の問題であると、私には思われる。私は思うのだが、ある程度は、われわれは自身の道徳的信念に則って行動することの帰結を考慮に入れなくてはならないのだ。良心が促すように行動することが、犠牲にするものが大きいとか、あるいは無様だとか都合が悪いといった程度でしかない場合でさえ、人々は、彼ら自身が何らかの〔良心の〕レベルで肯定しないあり方で、自ら行動しているのかもしれない。類比のために、19世紀のアメリカ南部における奴隷制の存在を考えてみよう。各々の奴隷所有者たちが、一人の人間が他の人間を買い、彼または彼女に対して恣意的な力を振るう慣行の中に、何も問題がないと心から信じていたということは、私には信じ難い。多くの人がそれは何らかの点で自然な物事のあり方だと考えていたことは間違いないだろうが、確かに疑いを抱いていた人々もいたのではないだろうか。これらの「後ろめたい主人たち」は、誰も他人の奴隷であるべきではないという道徳的議論を受け入れたであろうが、ある程度の生活水準で生きていくには〔奴隷をもつより〕他の方法がないと信じて、彼や彼女の奴隷を解放することを真剣に考えなかったのだ。同じように、われわれの多くは、熟慮しているときには道徳的に受け入れがたい動物の使用であると思うもののもたらす利益を、あきらめようとはしない。というのも、そうすればわれわれの生活はより不便で快適で無くなってしまうからだ。

もし追求しようと選んだ行動が、われわれが信じるに道徳的に正当化されないなら、われわれは選択に直面する。われわれは明らかな偽善とともに生きるか、生き方を変えるか、または道徳的信念を調整することができる。だが、政治的、または〔社会の〕構造的には、もう一つの選択肢がある。それはわれわれの目的を、われわれが正当化されないと信じる行いを受け入れることなく追求できるようにする、制度や技術の進歩である。おそらく、奴隷なしでビジネスを継続することが経済的に可能となったということが明らかになったときには、奴隷制はより容易に廃止できただろう。同じく、もしわれわれが、肉と同じくらい美味で栄養がある非動物食を生産する方法や、動物を用いない薬剤の試験方法を見つけることができれば、われわれは求める目的を、道徳的に問題がある仕方で行動することなく、追求し続けることができる。結局それは、道徳的問題を、それを避けることで解決しようという望みなのだ。

動物実験の場合、〔問題〕回避という方向でなされた先導的な提案は、ラッセルとバーチにより提議された、「三つのR」の理論である。(……後略……)

(p.43 - 45) 

 

●犯罪の被害に遭うことはなぜ恐ろしいか?

 

人々は犯罪の被害者になるのを避けようとして、このような極端な犠牲をもたらす行動をとってしまうことがある[犯罪率の高い地域では、窓を開けっ放しにしたりエアコンの効いた商店に出かけることが難しいために、酷暑が原因で死ぬ人が多かったという事例のこと]。この点を念頭に置いて、われわれは一体なぜ犯罪をそれほど恐れるのか、という最初の問いに立ち戻りたい。これまででわれわれは、ベンサムの指摘した「無限の損害」という考えを得た。私はこれを、自分が制御できない、あるいは影響を及ぼせないほどまでに混乱して悪化する状況を回避しようとする意識、と理解する。しかし、ベンサムはこの分析において、何かを見落としていると私は思わざるをえない。無限の損害はトルネードや鉄砲水、サメによっても脅かされうるし、これらを想像するのもまた恐ろしいことだ。ただし、犯罪とはある人が他人に対して行うものであるという事実は、さらなる道徳的および政治的な側面を与えてくれるように思われる。そして、このためにわれわれは、それほど極端な恐怖をもたらさない犯罪事件に対して、過剰なまでに心配になってしまうこともある。損失が比較的小さい、あるいは限定的だとわかっている犯罪に対しても心配するのである。よってわれわれは、犯罪との関係におけるリスク、不安、恐怖について、より深く検討することが必要だ。

 

(p.154)

 

私が思うに、人々は被害者になることを恐れている、という言い方は間違いかもしれない。恐れとは〔実際の〕損失や傷害に対するものだからだ。しかし、それ以上に、いわば被害者にされることを強く嫌う気持ちも存在する。このことを示すちょっとした例として、大道手品師にからかわれたり、騙されたりすることに耐えられない人たちがいる。おそらく、それが彼らの自己意識や尊厳の感覚を傷つけるからだろう。犯罪被害者にされた場合、人は、自分が自らの運命の支配者であるという感覚を失う。さらに、その人は憐みの対象になる。多くの人は、このことを自分の尊厳が傷つけられることだと思うだろう。しかし、最も重要なのは、他人があなたを侮辱を持って扱い、そのことに成功したという事実である。先に述べたように、侮辱は未遂犯罪においてさえも示される。しかし、犯罪が成功した際に、おそらく人は、その侮辱はそれに値したのだという考えを抱くようになる。もし自分を守ることができないなら、私とは一体どんな存在だというのか。完遂した犯罪は、少なくとも場合によっては、ある人の地位や自尊心を変化させるように思われる。この点で、犯罪は社会秩序を侵害する、破壊的な性格をもっている。

 

(p.156)

 

……犯罪が悪い、あるいは少なくとも何らかの犯罪がある人々にとって悪い理由は、被害者にされたという事実によるということだった。これを思い出してほしい。それは、他人があなたのことを侮辱を持って扱おうとしたというよりも、彼らがそうするのに成功した、という事実である。未遂犯罪と完遂犯罪との間に、これほどの心理的な違いが存在するのはそのためだ。犯罪者はあなたに犯罪を働くのに成功したことにより、おそらく、自分がある面であなたに優越している、ということを言外に告げていることになる。彼らはあなたを被害者にし、地位を貶めた。明確な被害者がいない場合ーーたとえば公共財産の破壊行為ーーであっても、犯罪に成功したということは、ある意味で犯罪者は規範、あるいは少なくともルールを超越している、ということを含意する。犯罪はあるメッセージを伝えるのである。

もちろんここで、犯罪者がこのように考えているということを示せる証拠はほとんどない。しかし、私の説明には一定の妥当性があると想定させてほしい。もしそうだとすれば、刑罰は新たな観点から見えてくる。つまり、刑罰の少なくとも一部の目的は、すべての当事者間での、何らかの適切な地位を回復させることにあるということになる。もし犯罪者が逮捕され、適切に処罰されれば、彼はもはや何かをやりおおせたわけではないことになる。彼はもう、高い立場にあると言外に主張することはできない。被害者だった人は、犠牲者としての立場が終わったと感じ、以前の立場が回復される。しかし、刑罰の時点で一人の被害者も確認されていない犯罪ーー被害者がそもそもいない場合(脱税)、あるいは死亡をもたらした犯罪(殺人)ーーについてはどうだろうか。これと同じ分析が、修正された形でなお当てはまるのである。通例では、被害者が確認され生存する場合には、被害者の立場を引き上げ、加害者の立場を引き下げることにより、刑罰は当事者間の立場を「リバランス」させる。被害者が死亡した場合でも、なお刑罰を科すことによって、われわれが社会としてその人の命を極めて重大に扱っているということを示せる。これと逆の例として考えてほしいのは、人種差別が存在する社会において、ある少数派民族の人々に対する殺人がほとんど捜査されず、それにより、彼らが低い立場にあるという強いメッセージが実際に伝わっているような状況である。被害者のいない犯罪の場合、できることは犯罪者の立場を引き下げることだけだが、これはなお重要な問題として残る。応報論によれば、その罪が重ければ重いほど、道徳的なバランスを回復させるためにより多くのことが求められることになるだろう。

よって、ここでわれわれは、刑罰に関するコミュニケーション的理論との関連をみてとれる。もし犯罪がメッセージを伝達するなら、刑罰もまたそうする。一般的には、最初のメッセージを相殺するための、反対のメッセージを送ろうとするのである。(……中略……)

つまり、どの社会においても、何らかのレベルの刑罰は適切なものと認められるのであり、犯罪者が刑罰を受ければ、「正義は実現され」、可能な場合には被害者の地位が回復し、犯人の立場が引き下げられることになる。

このように応報をコミュニケーションとして理解すると、それは刑罰の正当性として、しばしば思われるほど野蛮なものではなくなるかもしれない。

 

(p. 168 - 169)

 

 前回の記事でも書いた通り、本書は単なる両論併記的な入門書ではなく、ユニークでオリジナリティのある発想もしばしば顔を出す。アカデミックな議論では否定されがちな、刑罰に関する「応報論」を「被害者の地位の回復」やコミュニケーションという発想から肯定する上記の議論も、少なくともわたしは初めて目にしたものだが、なかなか説得力を感じた。

 本書では、哲学者の頭のなかにある理論だけでなく、「このトピックについて一般人ならこう考えるだろう」ということや「このトピックについて世論が共有している常識とはこういうものだ」ということに関する考察や推測も多分に含まれている。このような議論を行うためには、人間観察者としての「モラリスト」の能力や経験も必要になってくるはずだ。哲学者が世間の人々や社会と対話するためには「理論」だけをやってればいいとうわけではないことを(もちろん思想史や人物研究をやってればいいというわけでもない)、理論とは別のところにある人々の「道徳観」に対する理解も必要になるということを、本書は示しているのである。