道徳的動物日記

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「気概」とリベラルな民主主義(読書メモ:『歴史の終わり』)

 

 

 

 

 フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』は数年前にも読んで感想を書いているが、『IDENTITY  尊厳の欲求と憤りの政治』を読んだときにそこで紹介されていた「対等願望」や「優越願望」に関する議論が興味深く感じられたので、昨年の夏に改めて読み返した*1

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

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……とはいえ、1992年に書かれた当時の時事ネタが数多く含まれているために冗長であったり無駄であったりするところも多く、上下巻の本を保存しておく必要もないと考えて、引っ越しを契機に処分する前にキモとなる議論をここに要約しておく……というよりも、写経的に書き写しておく。まあいまさら『歴史の終わり』を手に取ろうとする人もほとんどいないと思うので問題ないでしょう。もしこの記事で興味を持てたら買うなり借りるなりしてちゃんと読むように。

 

 この本は全5部からなるが、哲学者たちの議論に基づきながら人間の「欲求」や「あ願望」と歴史の発展を結び付かせる議論をしているのは、第3部の「歴史を前進させるエネルギー:「認知」を求める闘争と「優越願望」」と第5部の「「歴史の終わり」の後の新しい歴史の始まり」にて。

 フクヤマはフリードリヒ・ヘーゲルの議論を参照しながら、人間が持つ「認知」に対する欲求(=承認欲求)と「優越願望」が歴史上のさまざまな政治的な出来事の動因になっている、と説く。

 

真に自由な意志が存在していようといまいと、事実上あらゆる人間はあたかもそれが存在しているかのごとくに振る舞い、自分は純粋に道徳的な選択ができるという確信にもとづいて互いを評価する。人間活動の多くが自然な欲求の充足に向けられている反面、はるかに移ろいやすい目標の追求に膨大な時間が費やされている。人々は物質的な慰めだけでなく敬意や認知をも求め、同時に、自分は多少なりとも価値や尊厳を持ち合わせているから他人に敬われて当然だと信じている。認知を求める人間の欲望や、もっとも強力な自然の本能にさえ逆らうほどはっきりした自発性を無視してしまうような心理学や政治学に頼っていたのでは、人間の行動についてのきわめて重要なポイントを見誤ってしまうだろう。

[……中略……]

とはいえこの認知を求める闘争は、正真正銘の人間的行為の発端ではあるが、人間的な行為そのものからはほど遠い。ヘーゲルのいう「最初の人間」たちのあいだで繰り広げられる血なまぐさい戦いは、彼の弁証法の起点にすぎず、そこから現代のリベラルな民主主義にいたるには、はるかな道のりが残されている。

人類史の問題は、ある意味では、相互的かつ平等な土俵の上で認められたいという主君と奴隷双方の欲望を満たす方法の探究と見なすことができる。そして歴史は、この目的を達成する社会秩序の勝利とともに幕を閉じるのである。

 

(上巻、p.252- 253)

 

この認知への欲望を、政治的共同体全体に貢献するような形で緩和・抑圧することが政治の中心的課題だと見なしている政治哲学者は実に多いが、それも驚くにはあたらない。そして実際、認知への欲望を手なずけようとするもくろみは、近代政治哲学の手によって大きな成功を収めてきたため、平等な民主国家の市民たちは、この認知への欲望がそもそもなんのためにあるのかさえ見落としがちである。

 

(上巻、p.270)

 

[プラトンが論じるところの]「気概」は、人間が生まれながらにもっている正義感のようなものだ。人々は、自分がなにかしかの価値をもっていると確信しており、他人がそれを否定するようなーー自分の価値を正しく「認知」しないようなーー振る舞いをすると腹を立てるのである。英語で怒りと同義語である indignation(憤り)という言葉を見ても、自己評価と怒りとの密接な関係がわかる。「尊厳(dignity)」は、人間の自分に対する価値観とかかわっていて、何かの拍子にその価値観が侵害されると「憤り」が生まれるのだ。

それとは逆に、自分が自分の自尊心にしたがって行動してはいないことを他人に悟られたとき、われわれは「羞恥心」を感じる。そして、自分が正当に(つまり自分の真価にふさわしく)評価されたときには「誇り」を感じるのである。

[……中略……]

「気概」という言葉が対象物を価値あるものにする魂の部分を示すのに対し、「認知への欲望」は「気概」の働きの一つであり、他人の意識に対して自分と同じ評価をしてくれることを求めるものだという点で、この両者には多少の違いがある。認知を要求しなくとも、自分のなかで「気概」に満ちた誇りを感じることは可能である。だが、尊厳とはリンゴやポルシェのような「モノ」ではない。それは意識のあり方であって、自分自身の価値観について本質的な確信をもつためには、その価値観を他人の意識によって認めてもらわなければならない。だから「気概」は必ずではないにせよ、一般的にいって、他者からの認知を求めるようにと人々を駆り立てていくのである。

 

(上巻、p.274 -275)

 

 ここでフクヤマヴァーツラフ・ハヴェルの『力なき者たちの力』から青果店のエピソードを引用したのちに、共産主義社会は人々の「気概」を徹底的に抑え込んで人々を道徳的な堕落を許容する服従的で卑屈な存在にしてしまう、と論じている。

 

さらに、人間が自分の「徳性」の枠からはみ出さずに、自分の価値を評価できるという保証もない。ハベルの考えでは、すべての人間には善悪の判断力と「正義」の萌芽が見られるという。しかし、この一般論を受け入れたにしても、他の人間よりそういう心の発達が遅れている人のいることは認めざるを得ないだろう。ある種の人間にとっては、道徳などないに等しいといっておく必要もあるだろう。人は、自分の道徳的価値のためばかりでなく、富や権力や肉体美のために他者から認められたがる場合もあるのだ。

さらに重要なのは、すべての人間が自分を他人と対等なものとして評価するはずだ、などと考える根拠がどこにもないことだ。むしろ人は、自分が他人より優越していることを認めさせようとしがちだし、それはほんとうの精神的価値にもとづいている場合もあるが、多くは思い上がった自己評価から生まれてくる。このように、自分の優越性を認めさせようとする欲望を、私は古典ギリシア語から語源を借りて「優越願望」(megalothymia, メガロサミア)と新たに命名したい。自分の権威を認めさせるために隣国を侵略し人民を隷属させる暴君にも、ベートーベン解釈にかけては当世の第一人者を自認するコンサートピアニストにも、この「優越願望」が見てとれる。一方、「対等願望」(isothymia, アイソサミア)はその反意語であり、他人と対等なものとして認められたいという欲望を意味する。「優越願望」と「対等願望」は、認知への欲望の二つのあらわれであり、近代への歴史の意向もこの両者とのからみで理解することができる。

 

(下巻、p.31 - 32)

 

 共産主義に限らず、ホッブズやロックなどによる近代哲学は「気概」や「認知への欲望」をできるだけコントロールしたり無力にしたりすることを目指すものであった(これらの哲学者に逆らって「気概」の価値を擁護したのがニーチェである)。とくに「優越願望」は現代ではすっかり悪いものとされてしまったが、その一方で「対等願望」は過去よりもさらに浸透した。現代人がよくつかう「尊厳」とか「自負」といった言葉も「対等願望」の言い換えである。

 

リベラルな民主主義社会を選び取った場合に問題となるのは、それがわれわれに自由に金儲けをさせ、魂のなかの欲望の部分を満たしてくれるという点だけではない。さらに重要で、最終的にいっそうの満足を与えてくれることは、この社会がわれわれの尊厳を認めてくれるという点なのだ。リベラルな民主主義社会はすばらしい物質的な繁栄をもたらす可能性を秘めているが、それはまた各人の自由を認め合うという、まったく精神的な目標実現にいたる道をも指し示してくれる。リベラルな民主主義国家では、われわれが自分自身の価値をどうとらえているかという観点から人間が評価される。このようにして、われわれの魂のなかの欲望の部分と「気概」の部分は、ともに満足を見出すのである。

 

(下巻、p.57 - 58)

 

[人種や民族に基づくナショナリズム国家とは]反対にリベラルな国家は理にかなった存在だ。なぜならこのような国家では、相互に受け入れが可能な唯一の根拠、つまり人を人して見なすという原則をふまえつつ、認知への欲望同士のぶつかりあいを和解させていくからだ。リベラルな国家は普遍的なものでなくてはならない。つまり、あらゆる市民を、彼らが特定の国家的、民族的あるいは人種的集団に属しているという理由からではなく、彼らがまさに人間であるという理由によって認めていかねばならない。同時にその国家は、主君と奴隷の区別の廃止を基礎に、階級のない社会を築いていけるくらい均質的なものでなくてはならない。

[……中略……」

リベラルな国家は、理性的な自己認識の一つのあらわれである。なぜなら、このような国においてはじめて人間は、共同体としてのみずからの本質を悟り、その本質と合致する政治共同体を作り上げていけるようになるからである。

 

(下巻、p.59 - 60)

 

…われわれがいま歴史の終着点に立っているというコジェーブの主張が正しいかどうかは、ひとえに、現代のリベラルな民主主義国家が人間の認知への欲望をどの程度満足させているかにかかっている。近代のリベラルな民主主義は主君の道徳と奴隷の道徳とをうまく統合し、両者の要素を多少は残しながらもその区別を消し去ってしまった、とコジェーブは考えていた。しかしほんとうにそうなのだろうか? とくに、近代の政治制度は主君の「優越願望」を政治にとって無害なものに変え、その矛先をそらすことに成功したのだろうか?じきにもっと多くを求めるようになりはしないだろうか?そして、「優越願望」が近代政治によってそんなにも徹底的に骨抜きにされ、方向転換させられたのだとすれば、ニーチェが認めた「優越願望」をわれわれは賞賛に値するものとしてではなく比類なき災害と見なすべきなのだろうか?

 

(下巻、67 - 68)

 

 この疑問に対する答えは最終章にて書かれている。

 

プラトンは「気概」を美徳の土台だとしながらも、「気概」そのものは善でも悪でもなく、それを公共の善に奉仕させるためには訓練が必要だと論じた。換言すれば、「気概」は理性によって支配されるべきであり、欲望の同盟者となるべきだというのである。公正な都市では、魂の三つの部分がことごとく満たされ、理性の導きのもとで均衡を保っている。

[……中略……]

このようなものさしにもとづいて、歴史上のさまざまな政体のうちで現代も通用するものを比較すると、リベラルな民主主義が魂の三つの部分すべてにいちばん幅広い余地を提供しているように思われる。たとえリベラルな民主主義が理論上はもっとも公正な政体にあてはまらなくても、現実上はその資格がある。というのも、ヘーゲルがわれわれに教えてくれたように、近代の自由主義は認知への欲望を捨て去ったところに立脚しているのではなく、むしろその欲望がより合理的な形態へと変化したところに成り立っているからだ。

仮に「気概」が、それ以前にあらわれた形で完全に保存されてはいないとしても、それで「気概」が完全に否定されるわけではない。さらにいえば、「対等願望」だけを土台にした自由主義社会などは存在しない。自由主義社会はすべて、たとえおおっぴらに信じている原理とは相反することであっても、安全で飼い慣らされた「優越願望」をある程度までは容認せざるを得ないのである。

歴史的なプロセスが合理的な欲望および合理的な認知という二本の柱に支えられていること、そして現代のリベラルな民主主義がこの二本の柱のある種のバランスを保つのに最適な政治システムだということが正しいとすれば、民主主義に対する最大の脅威とは、ほんとうの意味で存続の危機にさらされているものは何かという点についてわれわれ自身の頭のなかが混乱していることにあるのだ。というのも、現代社会が民主主義に向けて進化してきた一方で、現代思想は袋小路に突きあたり、人間とその独自の尊厳を形作っているものは何かについて合意に達することも、ひいては人間の諸権利を定義することも不可能になってしまったからだ。

このことは一方で、平等な権利を認めさせたいという極度に肥大化した欲求にはけ口を与え、他方で「優越願望」の再解放へ道を開いていく。歴史が合理的な欲望と合理的な認知によって一貫した方向へ動かされているという事実にもかかわらず、そしてリベラルな民主主義が実際には人間のかかえる問題の最善の解決策であるにもかかわらず、このような思考の混乱は起こり得るものなのだ。

 

(下巻、p.260 - 261)

 

 なお、リベラルな民主主義でも「気概」や「優越願望」が発揮される道筋とは、起業や発明に代表されるような資本主義的な活動のこと。これは社会を豊かにもするのでウィン-ウィンだ。

 

 さて、周知の通り、フクヤマは本書でリベラルな民主主義が「歴史の必然」かつ「歴史のゴール」であると主張しているかのような議論をしているので、アメリカ国内でも海外でも色々と批判されることになったし、世界のどこかで民主主義やリベラリズムに対する反動や揺り戻し(クーデーターとか革命とかによって民主主的が潰されて非民主的な政権が樹立したり、民主主義の枠内でポピュリズムが巻き起こったりするなど)が起こるたびに引き合いに出されては「やっぱりフクヤマは間違っていたんだ」と冷笑や揶揄を受けることになった。諸々の本や教科書、学校の授業などでも『歴史の終わり』は徒花や反面教師としてしか紹介されないだろう。

 しかし、改めて『歴史の終わり』を読んでいると、やはりそんなにヘンなことを言っているようには思えない。また、フクヤマはこの後に『政治の起源』『政治の衰退』などの大著を含む様々な本を出版しているが、いずれの著作でも一貫してリベラルな民主主義を支持しているようだ。

 最終章の議論などは、もっとも穏当に解釈すれば「「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外のすべての政治体制を除けばだが」というクリシェと同じようなことを言っているように思える。リベラルな民主主義はユートピアというわけではなく、「認知への欲望」「対等願望」や「気概」「優越願望」が引き起こす問題を完全にコントロールしたり予防したりできるわけでもないが、それらのバランス取りは他の政治体制に比べるとずっとうまくできている、ということだ。

 ……そして、「肥大化した欲求」がゆえに自ら民主主義を捨てた先には失望しか待ち受けていなかったり、「思考の混乱」がゆえにリベラリズムではなく実現不可能なユートピア思想に惹かれしまったりする、という事象は『歴史の終わり』が書かれた1990年代当時にも現代にも起こっていそうなことである。

 

 もちろん、本書の骨子となっているヘーゲルやアレクサンドル・コジェーヴの思想はいかにも胡散臭いし、あまり真に受ける義理もないと思う。フクヤマ自身もそのことを理解していたからこそもうすこし『政治の起源』『政治の衰退』では人類学や進化論や諸々の社会科学の知見を取り入れて現代的なアップデートを図ったのであろう。

 書いていてなんとなく思ったが、現実の政治体制や政治運動はともかく、政治哲学はほんとうにリベラル・デモクラシーを正当化した時点でほぼ「ゴール」であったかもしれない。しかし、政治哲学者や政治思想家は(政治哲学の)歴史が終わった後にも登場し続けるので、これまでの哲学者たちと差別化を図るために、無理くりにでもリベラリズムを否定したり民主主義に代わる制度を提唱したりするしかない。つまり、「思考の混乱」は哲学者たち自身が(自分の存在意義を証明するために)ある意味では意図的に引き起こしているということだ。……先日に動物倫理の本を読んだときにも動物倫理内部での差別化を図る議論が虚しくなって同じようなコメントを書いたが、最近のわたしは半ば本気でこういうことを考えるようになっている。

*1:最新刊の『リベラリズムへの不満』もマイケル・ウォルツァーの『まっとうな政治を求めて──「リベラルな」という形容詞』とセットで読みたいところだ。

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