- 作者: Francis Fukuyama,フランシスフクヤマ,渡部昇一
- 出版社/メーカー: 三笠書房
- 発売日: 2005/05
- メディア: 単行本
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1992年に出版されたフランシス・フクヤマの著書『歴史の終わりと最後の人間(The End of History and the Last Man)』は、現在となっては本国のアメリカでも日本でも否定的に受け止められることが多いようだ*1。『歴史の終わり』で行なわれている主張でも特に代表的なのが、共産主義やその他の権威主義・非民主・抑圧的な政治体制は矛盾が含まれており持続性のない失敗した政治体制であることがいまや明らかになったのであり、西側資本主義の西洋社会に代表されるような経済的・政治的自由主義を伴う民主主義体制こそが人類が辿り着いた最良の政治体制である、民主主義を超える政治体制が生み出されることはこの先もないだろう、といった主張だ。だが、『歴史の終わり』の出版後、イラクにおけるアメリカ主導の民主化が失敗したりその後も中東で民主化運動が失敗したりいくつかの国家が民主主義から権威主義へと逆流していったりしたことなどのために、この主張は説得力がないものと見なされるようになってしまった。
Paul Sagarという人が書いた上述の記事でも、フクヤマは極端な自由資本主義イデオロギーを唱えてジョージ・W・ブッシュのネオコン政権にお墨付きを与えてしまった思想家として、主に左派の人々から(時には右派からも)激しい批判を受け続けており、イラク戦争以後に世界に起こった事象を見れば『歴史の終わり』の議論は的外れで馬鹿馬鹿しいものだったと嘲笑もされている、ということが指摘されている。
だが、フクヤマに対するこのような批判の大半は『歴史の終わり』を誤読しているものだ、とSagarは論じている。そもそもフクヤマが主張している「歴史の終わり」論はヘーゲルの弁証法の議論に基づいた観念的・哲学的レベルな議論であり、「大文字の歴史」( big-H history )と称される近代化のプロセスといった抽象的な事柄について書かれたものなのだ。弁証法の結果として自由民主主義が最良の政治体制あることが明らかになり「大文字の歴史」は終わったとしても、もちろん現実の「小文字の歴史(history)」は依然として続くのであり、そして「大文字の歴史」が弁証法を通じて一定の方向に進歩し続けるのと違い「小文字の歴史」では様々な偶発的な出来事が起こり続けるのであって、現実のレベルで民主主義を否定したり民主主義がうまく機能しない国家があらわれることを『歴史の終わり』は特に否定していないのである。要するに、「最良の政治体制は何であるか」ということについてのイデオロギー論争や社会科学的な論争に(ソビエトの崩壊を機として)決着がついたことを「歴史の終わり」と称しているのであって、世界中の国家が民主主義を受け入れるだろうとか民主主義を否定する国家は今後現れないだろうとかそういう主張をしている訳ではないのである。
そして、「大文字の歴史」に関するフクヤマのヘーゲル主義的な主張が妥当であるかどうかはさておいて、『歴史の終わり』ではまた別の注目すべき議論がされていたことをSagarは指摘している。『歴史の終わり』は、政治体制に関する議論のみならず、「優越願望(プライド、気概)」と「対等願望」という人間の心理についての議論も行っている本であった。自分は他人よりも優れているということを証明して他人よりも良い待遇や尊敬を持って扱われたいという「優越願望」と、人は皆が差別なく平等に扱われるべきであり特定の立場にいる人が他の人よりも良い扱いを受けることは許せず、また自分も他人と同じくらいの待遇を受けて人として承認をされたいという「対等願望」という二つの心理は人間に普遍的に備わっているのであり、この二つの心理は歴史を通じて様々な社会においてイデオロギーや政治体制として表れてきたのであって、「優越願望」と「対等願望」はこれまでも抗争を続けており前者が優勢であったのだが最終的には「対等願望」を反映する自由民主主義が勝利することになった、というのがフクヤマの議論である。
だが、人間の普遍的な心理である「優越願望」は自由民主主義体制においても結局は消えることはないのであり、スポーツや芸術などの形によって発散することはできるがそれにも限度はある。民主主義社会の内側で溜まった「優越願望」のエネルギーが、誰もが対等に扱われる民主主義を退屈で間違ったものであるとして自己否定を行うことで、せっかく辿り着いた「大文字の歴史」の流れは逆流する危険性がある、とフクヤマは指摘していたのだ。特に厄介なのは、それまでは他の人々よりも良い待遇を受けていたのが平等主義が広まることによって相対的に地位が転落していた人々であり、そのような人々は自分が当然のものとして見なしていた承認も奪われて騙されしまったように感じて、民主主義の否定に走るだろう。平和と繁栄を特徴とする自由民主主義社会に生きる人々が、まさにその平和と繁栄を否定し始めるのである。ソビエトが崩壊した以上はもはや共産主義の説得力は失われているので、民主主義を否定する人々はファシスト的な右翼を支持せざるをえない。…そして、先の大統領選でドナルド・トランプに投票したアメリカの白人たちの行動原理はまさにコレなのである、トランプ当選に代表されるようなポピュリズム・ファシズムがやがてアメリカに登場することをフクヤマは25年前の時点で予見していたのだ、というのがSagarの主張だ*2。
…とはいえ、最近のフクヤマ本人がトランプの当選やアメリカ政治について発言している内容は、Sagarが論じている内容とはまた異なっている。フクヤマが最近著した連作『政治の起源(The Origins of Political Order)』と『政治の秩序と政治の衰退(Political Order and Political Decay)』は、世界各国の政治経済体制の歴史を追った比較政治史的な著作であり、『歴史の終わり』で行われていたような哲学的な議論はほとんどされていない*3。ヘーゲルやマルクスやコジェーブの哲学を参考にした「大きな歴史」論にせよ、ニーチェの哲学を参考にした「優越願望/対等願望」論にせよ、『歴史の終わり』で行なわれている議論は哲学的なお話としては面白くて興味深いかもしれないが、記述的主張としての正確さとか学問的議論としての厳密さにはやっぱり問題があるだろう。他方で、『政治の起源』や『政治の秩序と政治の衰退』で行なわれている議論は政治学や経済学やその他の社会科学を参考にしたものであり、『歴史の終わり』に比べても学術性が高くて信頼できるものであるように思われる*4。
上記の二つの記事は、どちらもトランプ当選後にフクヤマ本人によって書かれた記事である。フクヤマが指摘しているのは、アメリカの政治システムは利益誘導型のロビイスト政治が行き過ぎていることと民主主義的なアカウンタビリティを保証するためのチェック&バランスの機能があまりに強くなり過ぎたために機能不全を起こしており、様々な社会問題を有効に解決するための政治的決定を行うことが実質的にほぼ不可能になっている、ということだ。トランプのようなポピュリストが当選したのも、機能不全した政治システムに業を煮やした有権者たちの反動であるのだ(しかし、民主主義の機能不全に対してポピュリズムも有効な解決策であるとは言えない、とフクヤマは論じている)。…『歴史の終わり』で「自由民主主義は最良の政治体制である」と主張していたフクヤマは、『政治の起源』以後でも民主主義の利点を認めているが、少なくとも現在のアメリカの民主主義が最良のものであるとはとても言えないということを『政治の秩序と政治の衰退』で論じている。民主主義が有効に機能するのはどのような場合であるか、また民主主義が失敗したり他の政治体制の方が優れていたりするのはどのような場合であるかということについて、抽象的な哲学ではなく具体的な社会科学に基づいて論じる議論を、近年のフクヤマは行っているのである。
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