- 作者: スー・ドナルドソン,ウィル・キムリッカ,Sue Donaldson,Will Kymlicka,青木人志,成廣孝
- 出版社/メーカー: 尚学社
- 発売日: 2016/12/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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今回の記事では、『人と動物の政治共同体』の第6章と第7章をざっと紹介しよう。第8章の「結論」は改めて紹介する必要もないと思うので、『人と動物の政治共同体』の紹介記事は今回で終わり。
第6章「野生動物の主権」では、章の題名通り、野生動物の問題が扱われている。著者らは、既存の動物倫理学は野生動物に対して「危害を与えてはならない」という消極的義務は主張してきたが野生動物に対して介入して何かをしてやるという積極的義務は主張してこなかったのであり、要するに野生動物の問題に関しては「放っておけ」ということ以上の議論ができてこなかった、という点を批判する*1。例えば倫理学的な動物の権利論では道徳的行為を行える道徳的主体とそうでない存在ははっきり分かれているのであり、道徳的主体である私たちは野生動物を傷付けなかったり有害な人間の活動(狩猟や自然破壊など)から野生動物を守る義務があるし、私たちが野生動物を傷付けるとすればそれは道徳的に間違った行為である。だが、野生動物たちは道徳的主体ではなく、例えばオオカミがウサギを傷付けて捕食したとしてもオオカミは道徳的主体ではないのでオオカミの行為も道徳的に間違った行為とならない。要するに野生動物同士の関係は道徳的に正しくも間違っていないニュートラルなものなので、それに介入する道徳的義務も存在しないとされる。場合によっては傷付いていたり苦境に陥っている野生動物を助ける「援助の義務」というものが存在するとされるかもしれないが、それは野生動物を傷付けないという消極的義務に比べるとかなり例外的で弱いものとされるし、私たちの身近な存在(身近にいる人や家畜動物)に対する「援助の義務」と比べて私たちから離れたところに存在する野生動物に対する「援助の義務」はずっと弱いものとされる。
動物倫理学において野生動物に対する積極的介入が忌避されてきたのには、もちろん理由がある。例えば、私たちは野生動物に対して消極的義務のみならず積極的義務があるということをひとたび認めたとすれば、ウサギが傷付くことを防ぐためにオオカミがウサギを捕食する行為も防がなければいけなくなるのか、そもそもどうやってオオカミの捕食行為を防ぐのか、その場合は餌を得られないオオカミはどうなるのか、食物連鎖とか生態系とかが崩れて予期せぬ被害が出ないか…という風に、現実的に解決不可能な問題が際限なく登場することになる。功利主義者の場合でも、権利論者のように「道徳的主体/そうでない存在」という区分に固執することはないとはいえ、「自然や生態系に関して人間は完全な知識を持っていない以上、野生に対する人間の介入が最終的にどのような結果をもたらすかは予測不可能であるし、多くの場合には安易な介入は動物たちが受ける苦痛を増やす結果になる」という理由に基づいて多くの場合には野生に対する介入に反対するだろう*2。また、野生動物に対する介入は野生動物の自然な存在の仕方を傷つける、といった議論もある。
既存の動物倫理学に不満を抱いており、場合によって野生動物に対する積極的介入も行われるべきだと考えている著者らは「主権」という概念を導入することで独自の理論を打ち立てようとする。「野生動物のコミュニティには"主権"があるのであり、私たちは野生動物たちの主権を尊重して多くの場合には野生動物の独立を尊重し介入を行うべきでないが、人間の主権国家に対しても場合によって積極的援助をする道徳的義務があるのと同様に、場合によっては野生動物の主権コミュニティに対しても積極的援助をする道徳的義務がある」という感じの主張を行っている。
「野生動物たちは自己統治ができないから主権を持つ存在であると見なすことはできない」といった反論に対しては、主権を持つために必要とされる条件が人間に都合よく恣意的に設定されている、見方によっては野生動物たちも自己統治を行っているということはできる、という再反論を行っている。積極的援助をいつ行うべきかということについては、人間の主権国家に対する積極的援助について色々と論点があるように難しいのだが、大災害のように野生動物のコミュニティそのものの崩壊の危険がある時などには行うべきだとされている。また、知識のある科学者や自然保護活動家による自然保全のプロジェクトを行うことはOKとされているし、専門知識はない個人であっても野生動物に長らく関わっており自分の行為が間接的な悪影響を生み出さないことが確信できる場合には野生動物を餌付けしたり治療したりすることもOKとされている。…紹介の仕方がかなり雑になっているが、これは、著者らの他の議論と同じくこの議論もかなり場当たり的で説得力に乏しいものであるように私には思えるために、解説する気が失せているからである。
他にも、(人間の主権国家に対して別の主権国家が不正義や非道を行った場合には保障や謝罪が必要とされることと同じように)過去に人間が野生動物に行ってきた不正義とか非道とかを反省して未来志向の正義を目指す義務があるとか、野生動物と接触するコミュニティでは現在のように野生動物に対してのみ一方的にリスクを押し付ける(野生動物が交通事故で死ぬことに対して対策を取らなかったり、クマなどの"危険"な動物が人間のコミュニティに現れた場合にはすぐに殺害してしまったり、など)ことは間違っているのであり、環境を整備することで野生動物との不幸な遭遇が起こらないようにしたり、人間側も野生動物に害を与えられることについてのリスクを甘受する必要がある、といったことが論じられている。「主権」があると言っても当然野生動物は政治や国際会議などには参加できないわけだが、野生動物の利害を代表する役割の人間が代わりに意思決定に参加することで補おう、といったことも論じられている。
第7章の「デニズンとしての境界動物」では、ハトや野良猫やネズミなど、人間の生活圏に存在していて人間の行動に依存した生活を送っているが家畜として飼われている訳ではなく自立して生きている動物たちである「境界動物」について論じられている。著者らは「境界動物」には家畜動物に保証されているような「シティズンシップ」を与えることはできないが、それに準ずる「デニズンシップ」を与えるべきだと論じている。境界動物は野生動物に比べて人間との関わりが強く、人間が境界動物たちに対して負っている義務も野生動物に対して負っているそれに比べて強いので、野生動物たちに対してよりもさらに積極的な介入を行ってやる必要がある。しかし、シティズンシップを持つ家畜動物に対してほどの義務はデニズンである境界動物たちに対しては負っていない。じゃあその義務の具体的な中身はなんであるかというと各種の境界動物の性質やその動物と人間との関係性によって色々だが、餌場や居住地を保障してやることとか境界動物に対して人間が生じさせる可能性のある諸々のリスクを排除することや、境界動物と人間社会が有効的な関係を築くためには境界動物に関わる人たちも境界動物が人間に迷惑をかけて嫌われることがないように配慮しなければならないとか、そんな感じである。
*1:「クレア・パーマーが「レッセ・フェール的直感」として、動物の権利論の深層にある問題だと指摘している事柄である
*2:ただし、自然への介入が動物の苦痛を減少させることが一定以上の精度で予測される場合には、功利主義は自然への介入を行うことを支持することになる。以下のゲイリー・ヴァーナーの議論を参照。
また、著者らはジェフ・マクマーン(Jeff McMahan)がニューヨークタイムス誌に発表した記事「肉食者たち(The Meat Eaters)」も取り上げている。この記事の主張は、捕食によって自然界に生じている苦痛を考慮すれば、すべての肉食動物たちを段階的に絶滅させたり遺伝子介入によって草食動物に変化させたりすることで、肉食動物をこの世からなくして草食動物のみを存在させることによって自然界から捕食行為を無くしてしまうことを行うべき道徳的理由は存在する、というものだ。もちろん、現時点では科学技術能力や遺伝知識の限界などのために不可能であるとはいえ、科学が発達してその行為(を予防するつもりの苦痛よりも多くの苦痛を生じさせてしまう結果を生み出すこともなく行うこと)が可能になった時点で、人間は肉食動物を草食動物に置き換えるべきであるのだ。記事内では、遺伝子介入一般に対する忌避感に基づいた反論や「生物種には特別な価値があるから、絶滅を起こすことは道徳的に問題だ」という反論もあらかじめ想定された上で再反論されている。現実性はともかく、なかなか興味深くて鋭い議論であるように思える。
https://opinionator.blogs.nytimes.com/2010/09/19/the-meat-eaters/