道徳的動物日記

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野生動物に対する倫理的責任とは?

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 ↑ 上記の記事は本日に掲載されたものだが、この中で取り上げられているクレア・パーマーという倫理学者が書いた『Animal Ethics in Context(文脈のなかの動物倫理)』をちょうど再読していたところだった。この本の内容についてはパーマー自身による要約記事を抜粋したうえで翻訳して紹介したことはあるが、せっかくなので改めて書いておこう*1

 

Animal Ethics in Context (English Edition)

Animal Ethics in Context (English Edition)

 

 

 この本のなかで、パーマーは功利主義や権利論などの動物倫理の主流派の考え方を「キャパシティに基づいた考え方 capacity-oriented view」と名付けて、それらの欠点を補うものとしての「関係性に基づいたアプローチ relational approach」を提案している。

 動物が持っている「苦痛を感じること」や「主体的な意識経験」などのキャパシティに基づいて動物の道徳的配慮を論じる主流派のアプローチでは、対象の動物がコンパニオンアニマルであるか家畜であるか、または野生動物であるかという違いを問わず、同じキャパシティを持っている動物であれば同じ道徳的配慮に値するということになる。つまり、家で飼われているイエネコであろうと農場にいるニワトリであろうと、またはアフリカの平原にいるシマウマであろうと、彼らの苦痛や意識というキャパシティが同等であれば私たちは彼らに同等の道徳的配慮をしなければならない、ということだ。

 しかし、キャパシティに基づいた道徳的配慮の議論は、私たちが持つ直観に大きく反するという問題がある。

 イヌやネコなどのコンパニオンアニマルに対して私たちが道徳的責任を負っていることに反対する人はほとんどいないだろう。また、工場畜産や屠殺などの問題に関心を持つ人であれば、ニワトリやウシやブタなどについても私たちは道徳的に配慮しなければならないということには同意するはずだ。だが、ことが野生動物の問題になると、私たちが彼らに対してコンパニオンアニマルや家畜に対してと同等の道徳的責任を負っていると考える人は多くはない。

「動物たちに介入して、(相応の必要性もなく)彼らに苦痛を与えたり殺害したりしてはならない」という消極的義務 であれば、コンパニオンアニマルや家畜と野生動物のいずれに対しても認められるだろう。しかし、「苦痛を受けていたり殺害されそうになっていたりする動物たちがいれば、介入して彼らを助けるべきである」という 積極的義務 に関しては、 コンパニオンアニマルや家畜に対しては認められると考える人であっても、野生動物に対しても同様の責任を認める人は少ないと思われる。

 

 パーマーは、野生動物に対して私たちが一般的に抱いている考え方を「レッセフェール(なすに任せよ)の直観 Laissez-Faire Intuition = LFI」と名付けて、以下のように分類する。

 

 A. 人は、(一応のところ prima facie)野生動物を害するべきでも援助するべきでもない。むしろ、  人は野生動物に対して一切関与するべきではない。これを「強いLFI」 と呼ぶ。

B.人は、(一応のところ)野生動物を害するべきではないし、彼らを助ける義務が推定されているわけでもない。…しかし、(時に、または、常に)彼らを援助することが許容される可能性はある。これを「弱いLFI」 と呼ぶ。

C.人は、(一応のところ)野生動物を援助することが(時に、または、常に)許容されるとはいえ、野生動物を害するべきではないし、彼らを助ける義務が推定されているわけでもない。しかし、特定の状況においては、彼らを援助することについての積極的義務が生じる可能性はある。このような直感の最も妥当なバージョンが「非接触のLFI no-contact LFI」である。…

(p.68)

  

 行為の結果や帰結を重視して行為者の意図や被行為者の属性を軽視して、消極的義務と積極的義務の区別も本質的には認めない功利主義では、 LFIに適った主張を展開することは難しい*2

 トム・レーガンが主張するような権利論においては消極的義務と積極的義務との区別を行うことができる。また、道徳的行為者 moral agentと道徳的受益者 moral patients との区別を導入することで、道徳的行為者(人間)が道徳的受益者(動物)に対して与える危害とその他の理由で動物たちが被る危害(動物同士の捕食や逃走、自然災害など)との区別を行って、前者を防ぐ義務が存在する一方で後者を防ぐ義務は存在しないと論じることができるのだ。…しかし、権利論では「強いLFI」には適していても「弱いLFI」や「非接触のLFI」には適していない。人間の行為が(直接の)原因ではない危害からも野生動物を守るべきであるように思われる事例は有り得るのだ。

 

 パーマーの提唱する「関係性に基づいたアプローチ」では、動物たちのキャパシティのみならず人間と動物との関係にも注目することで、LFIなどの直観により適った議論の展開が目指される。

 関係性のアプローチの長所は、私たちが野生動物よりもコンパニオンアニマルや家畜に対して強い道徳的責任を持つ理由を無理なく説明できることだ。人間がコンパニオンアニマルや家畜が対して負っている責任は、グローバル世界において富裕国が貧困国に負っている責任や、ある国において主流派グループの人々が被差別グループの人々に負っている責任に近い。トマス・ポッゲのグローバル正義論や国家の「賠償責任」の考え方などを援用しながら、パーマーは人間社会がコンパニオンアニマルや家畜に対して持つ集団的責任について論じる。…つまり、これまで人間社会は家畜やコンパニオンアニマルを不当に利用して搾取することで利益を得てきたことが、彼らに対する特別な道徳的責任を生み出す、ということだ。

 対象となる動物の種族と人間社会との関係性に注目することで、コンパニオンアニマル/家畜/野生動物という単純な括りに収まりきらない、動物たちと人間社会との間における様々な歴史的経緯を考慮の対象にすることができる。野生動物のなかでも人間に住処を奪われてきた動物たちに対しては、その加害の事実に基づいた倫理的責任が発生するはずだ(パーマーはアメリカ市街におけるコヨーテの問題を具体例として出している)。捨て猫や野良猫の問題も、猫たちが人間によって自然界で独力で生きていくことが困難な傷付きやすい(Vulnerable)存在にさせられたことが考慮されるべきである。地球温暖化の影響によって住処を失う野生動物に対しても、人間は何らかの責任を負っていると言えるだろう。

 パーマーの議論は権利論や功利主義の議論に比べて「正義 justice」の考え方が強調されることが特徴的だ。その点では政治哲学っぽい議論でもあり、政治哲学者であるウィル・キムリッカが著者の片割れである『人と動物の政治共同体』でもパーマーがよく引用されていることも理解できる。ある面では、キムリッカらの著作はパーマーの著作の延長線上にあるものだからだ。

 

 オーストラリアでの森林火災ではすでに10億匹以上の動物が犠牲なっているようだ*3。森林火災が大規模した一因として地球温暖化が指摘されていること、そして地球温暖化の原因が人為的なものであることは明白であることをふまえると、人間がオーストラリアの野生動物に対して負っている道義的責任も明確になるかもしれない。また、忘れるべきでないのは、野生動物を救助する理由は「絶滅の危機」に限らないということだ。たとえ絶滅の危機に瀕していない動物や外来種の動物であっても、その動物たちと人間社会との関係や歴史的経緯によっては、彼らに危害を与えない義務や援助を行う義務が生じる場合もあり得るのだ*4

*1:過去の記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:ただし、「自然界に介入することは結果として動物たちの苦痛を増やす結果になることが多いから」という理由で、功利主義においても野生動物への援助を控える理由を主張することはできる。ピーター・シンガーなどはこのような議論を展開している。

*3:

www.afpbb.com

*4:

davitrice.hatenadiary.jp