道徳的動物日記

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「死ぬ権利」を整備することは「死ぬ義務」につながるのか?

 

 以下のツイートを目にしたのをきっかけに、前々から思っていたことを書こうと思う。

 

  

  

 

 ここではたまたま目に入ったツイートを引用したが、上述のツイート主も紹介している、「安楽死尊厳死法制化を阻止する会」の声明文も引用しよう。

 

声明*安楽死・尊厳死法制化を阻止する会

 

現在、尊厳死の法制化を求める動きが活発化している。
 日本尊厳死協会は、リビング・ウィルに署名し入会する者を募り、その数が10万人を超えたと宣伝している。しかし、同協会のリビング・ウィルは、将来おこるかもしれない状態を想定して前もって行う意思表示であり、実際に延命措置に直面しての意思表示ではない。
 リビング・ウィルの署名者を広く募り、尊厳死の法制化をめざすとき、個人の「死ぬ権利」は、「死ぬ義務」となり、弱い立場の者に「死の選択を迫る権利」に置きかわっていかないか。
 「あのようになってまで生きていたくない」と、生きている人の状態を「あのように」と見る、自らの内にひそむ選別の思想こそ振り返る必要がある。
 尊厳死法制化の動きは、人工呼吸器を使って呼吸し、栄養・水分補給をうけて生活している人々をはじめ、障害者や高齢者に目に見えない恐怖をいだかせるものとなる。
 現在では癌への対処法も進歩し、抗癌剤の副作用を減らし激痛を緩和することも可能になってきている。激痛のため生命を絶つなどということは、もはや過去のこととなった。
 生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制が不備のまま、「尊厳死」を法制化することは、病に苦しむ人や高齢者に「死の選択を迫る」圧力になりかねない。
 これらの疑問を措いて、尊厳死を法制化することを、決して認めるわけにはいかない。医療の現実を把握し、検討し、正しい方向を追求するために、私たちは「安楽死尊厳死法制化を阻止する会」を組織し、真に生命を尊重する社会をめざそうとするものである。

 

 上述したツイートや声明文に限らず、この種の議論は(特に日本の)生命倫理学界隈ではよく耳にする議論であるように思える。尊厳死安楽死にも様々な種類や定義があることは承知だが、以下では大雑把に「死ぬ権利」としてまとめて、「死ぬ権利」を法整備することの反論としてよく主張される議論について考えたいと思う。

 

 

 私が想定している、『「死ぬ権利」を法整備することの反論としてよく主張される議論』とは、具体的には以下のようなものだ。

 尊厳死や自発的安楽死などの「死ぬ権利」が認められるように法整備などを行うことは:

(1)「死ぬ権利」が認められてしまうと、本当は死にたいと思っていない人も家族や周囲や社会のプレッシャーを感じて「死ぬ権利」を行使してしまうようになり、実質的に「死ぬ義務」として機能してしまう

(2)「死ぬ権利」の法整備を求める議論は、医療費を負担したくなくて高齢者や病人に税金を使うくらいなら他のところにまわしたいと思っており「死ぬ権利」を整備することで一人でも多くの高齢者や老人を殺したいと目論んでいる政府や国の陰謀である;

(3)「死ぬ権利」の法整備をすることよりも、高齢者や病人が「死ぬ権利」を行使することを求めずに済むような、「生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制」を備えることの方が優先順位が高い

 という主張だ。

 

 たしかに、本来死にたくないと思っている人、また十分な医療を受ければ回復できるはずの人などが、国の財政の都合によって半強制的に死を選ばされたり家族や周囲の人間のプレッシャーに屈して自分の意志に反する死を選ばされることがあるとすれば、それは非道徳的であるし、防がれるべき事態だ。

 そして、(他の国の事情がどうなっているとか、他の国と比較してどうであるかはさておいて)少なくとも日本で「死ぬ権利」を整備することは上述の(1)や(2)の事態につながってしまう、という懸念もわからないのではない。インターネットの掲示板や日常会話などで、ある人が自分の身内の老人や病人について「もう世話をするのはうんざりだ、お金も時間もかかりすぎる、早く死んでくれれば助かるのに」という趣旨の発言をしていることを見聞する機会は、偶にある。立場のある政治家や高名な文化人が「社会保障のために尊厳死が必要だ」「高齢者は社会に配慮して適当な時に死ぬ義務がある」という発言をする事例も散見されることを踏まえれば、「死ぬ権利」を整備することは医療費削減を目論みる政府や社会の陰謀だ、という主張が出てくることも理解できなくはない*1

 

 だが、私が疑問に思うのは、家族からのプレッシャーや政府の目論見がどうであるかに関わらず、「自分の生が苦痛に満ちており生きるに値しないから死にたい」と自身が心から思っている人はやはり存在しているであろうし、「死ぬ権利」が法整備されない限りは(そして、非合法・グレーゾーンな手段で自殺を実施することもできないという場合には)、その人自身の「死にたい」という気持ちは否定されて、その人は意に反した苦痛を背負い続けるであろう、ということだ*2。ある社会がある権利を法整備しないことは、間接的にとはいえ、その権利を否定しているということである。日本の社会で「死ぬ権利」を法整備した場合に生じるかもしれない問題について考えるのも大切だが、現時点で日本の社会が「死ぬ権利」を否定していることによって苦痛を感じ続けるという負担を負わされている人がいることも、やはり考える必要はあるだろう。

「死ぬ権利」の法整備に懐疑的な人々は「死ぬ権利」が法整備されることによって生じるであろうと予測される犠牲者のことを懸念しているが、一方で、「死ぬ権利」が法整備されないことによって現時点で存在している犠牲者の救済は無視されていると言える。(3)の『高齢者や病人が「死ぬ権利」を望まずに済むような「生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制」を備えること』を優先するべきだという主張にしても、たしかに現在の医療体制や社会体制には改善の余地が十分にあるかもしれないが、全ての人の「生きようとする意思と願い」が完全に全うされることが保障されるような医療体制や社会体制が保障することは技術的・制度的・コスト的その他の問題で非常に難しいか、不可能であるかもしれない。仮にそのような医療体制や社会体制を整備することが可能であるとしても、現在の不備な状態からそれらが整備された状態までに移行するのには数年から数十年のタイムラグがあるはずだ。そして、仮に理想的な体制が整えば「死ぬ権利」を求めるような人は存在しなくなるとしても、現時点で「死ぬ権利」を求めている人がいるとすれば、理想的な体制が整うまでのタイムラグの間ではそれらの人々の「死ぬ権利」は認められず、実質的に「死ぬ権利」が否定され続けることになる

 

(1)や(2)の問題に関しては、以前に訳した、オーストラリアの倫理学者であるラッセル・ブラックフォードの記事から引用してみよう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

安楽死を促す不当な圧力から弱者を守る必要性についてはいかがだろうか?この論点については、ウェルビー(注:記事内で著者が反論している、安楽死反対派の論客)の主張は他の論点よりも強固である。幇助自殺を認める法律はかなり多くの弱者たちを危険に晒すことになる、とウェルビーは主張している。そのような法律が制定されたならば「この懸念について有効に対処できる予防手段は存在しない。患者の負担を背負わされたくないと思っている、患者に対して非協力的なごく少数の親戚たちから発せられる、かなり陰険な圧力については言うまでもない」。

 本当だろうか?本当に、死を選ぶことを選択させる不当な圧力に対して有効に対処できる予防手段は存在しないのだろうか?

たしかに、法律の悪用につながりかねない動機は多く存在しているし、どの動機についても空想上のものだと軽んじることはできない。しかし、イギリスやオーストラリアのような国々に実際に存在している医療文化においては、幇助自殺が最後の手段としてではなく積極的に賞賛されるものとして病院や医師から見なされる程までの変化がそう簡単に起こるということは有り得ないだろう。現時点で存在している医療ケアの文化を失わせるのではなく、医療ケアの文化を反映して補強するように新しい法律を設計することは可能である。

 家族内の関係や感情には様々なものが存在しているということをふまえると、家族による法律の悪用の方が、より現実的な懸念であるかもしれない。この懸念は、幇助自殺を合法化することを拒否する理由になるだろうか?

 いいや。患者が家族と相談した時に発生するどんな不当な圧力についても、その圧力を軽減するための手続きを法律に導入することが可能であるからだ。家族の意見が与える影響は、他の影響を与えることによってある程度は和らげることができる。専門的なカウンセラーと議論することやアドバイスを受けることを義務化するなどの方法だ。それらの方法の目的は、死を選ぶことを止めるように患者を説得することではなく、死を選ぶという決断が感情的な圧力に対する反応ではないことを保証するためである。

 ウェルビーも指摘しているように、死を決断する際の患者が、人生が終わる間際になって自分は他人にとって重荷になっている、と感じているという可能性は確かに存在する。これについては私も認めざるをえないが、このことがショッキングであるとも私には思えない。もし私がひどく無力な状況で、屈辱と苦痛を感じており、私が愛する人たちの資源と時間が私の死を引き延ばすために使われるとしたら、その事実は私の考えに対して影響を与えるだろう。当たり前のことだ。なぜ、その事態に何か邪悪なことが含まれているかのように想像したり装ったりする必要があるのだろう?

 私の人生が引き延ばされることによって他人に対してもたらされる影響について私が思考してしまうことは、ほとんど避けられないことである。死を選ぶかどうかという決断にとって、それは充分に関連性がある事柄であるのだ。また、他人に対する影響が私の思考の対象となったとしても、私が自分自身の人生を生き続けることが喜びが無く、苦痛で、もどかしく、屈辱的であると思っているとしたら、他人に対する影響がそれらの感情に取って代わる訳ではない。私は他人に対する影響と自分自身の人生について同時に考えるだろうし、後者の方が私にとっては重要に思えるだろう。たしかに、医療的な援助によって死のうと決断した人たちの多数が、自分が他人に対して重荷になっているということを決断の理由の"1つ"として挙げている。だが、ウェルビーが行っているようにその"1つ"の理由に注目して大体的に取り上げるのはアンフェアである。他人にとって重荷になっているという感情が影響していることは、予想できることなのだ。

 より正当な懸念として、患者を適切に保護するための手続きはあまりに要求が多くて複雑なものになるから実際には有効に機能しないだろう、という予測がある。その手続きは患者による死の決断を妨げるだろうし、実際には苦しみを増して意図していない侵害を起こすかもしれない。意図しているものとは反対の結果が生じることになる訳だ。

 ウェルビーが実際に主張している議論以上に、上述の議論には説得力がある。とはいえ、この議論は必要以上に悲観的である。法律の悪用の可能性を最小化するための手続きが実用的に機能するように設計することは可能であるはずだ。 

 詳細な手続きの範囲内にきちんと含まれないような事例についても、「慈悲殺」の例に倣って比較的広い範囲の擁護論を主張することは可能であるだろう。いずれにしても、現在のイングランドウェールズには医師が自殺幇助を遂行する際の処置に関するガイドラインが存在している*3。死を選ぶことについての安定していて、明確で、充分な情報に基づいた決断を「犠牲者」が下している際や、自殺に対する幇助が同情にのみ基づいている場合であったとしても、処置が行われる可能性はガイドラインによって低くされている。

 公平のために記しておくが、ウェルビーもこのようなガイドラインを否定してはいない。安楽死に関する法律改正が制定されたとしても、残酷な処置から患者を守るための保護を追加するためのガイドラインを維持することが妨げられる訳ではないのだ。

 

(1)の議論に対する反論としては、上述したブラックフォードの議論は十分に的を得ていると思う。

(2)に関しては、日本の状況は「イギリスやオーストラリアのような国々に実際に存在している医療文化」よりもひどく、日本の政治家や政府は外国のそれより悪質・非倫理的であると仮定することはできるかもしれない。しかし、確かに暴言・放言を放つ政治家や文化人は存在しているとはいえ、たとえば現代の日本がナチス時代のドイツのように高齢者・病人の安楽死を政府が積極的・強制的に行う社会になることは考え難いだろう。一部の生命倫理学者や社会学者は「いや、"生権力"を管理する政府は一見するとそれとはわからない間接的な手段で高齢者や病人に安楽死を強制させ殺害することができるのだ」というタイプの主張を行うが、私が見た所、このタイプの主張は学術的な議論というよりもよくできたお話や陰謀論であるに過ぎない場合が多い。そして、そもそも日本は民主主義社会なのだから、高齢者や老人を殺害することを試みる政府があらわれたとしても、選挙などの手続きによってそれを阻止することは可能であるはずだ。

 

 結局のところ、(1)〜(3)のいずれの議論も、検討に値する部分が含まれているのと同時に、問題点や疑わしい点が含まれていると思う。少なくとも、現時点で「死ぬ権利」を求めている人々の「死ぬ権利」を否定するのに足りるほど強固な議論であるかどうかにはかなりの疑いの余地があると思える。

 再び、ブラックフォードの記事から引用しよう。

 

 生き続けることがその人自身にとって苦しみとなる時点が存在することを、私たちは認めるべきだ。制御できない極度の苦痛に襲われている場合もあるだろうが、身体的な苦痛が制御されているとしても生き続けることが苦しみとなる場合もあるだろう。多くの末期患者は自分自身について様々な感情を抱いているが、とりわけ無力で屈辱的に感じており、かつては人生に喜びを与えたどんな活動も行うことができないと感じている。そのような状況では、自分の人生は実質的にはもう終わっているので、現在はただ引き伸ばさせられているに過ぎない、と感じられる場合もあるだろう。

 このように制限されていて不幸な状況では、通常の私たちが死に対して抱く恐怖(殺人に対する恐怖や故殺に対する恐怖、その他の死に対する恐怖など)は、全くもって的外れな感情となる。早まった死を恐れたり死の危害から守られている環境を要求するのではなくて、自分自身の苦しみに満ちた人生を自分で終わらせることができないということに対して、まことに理に適った恐怖を抱くかもしれない。上述した状況において、私が死ぬことを他人が助けてくれることが刑法によって禁止されているとしたら、もはや法律は私たちを恐怖から守ってくれるために存在するものではなくなる。むしろ、恐怖から人々を守ることとは正反対に法律が機能してしまう。私たちが自分の人生を制御するために残された手段が法律によって奪われてしまう。私たちの抱く理に適った恐怖を法律が増してしまうのだ。

 刑法の存在する最大の理由は、他人から危害を与えられることから私たちを守るためである。このことに議論の余地はほぼ無い。もちろん、一部の状況では、自分自身の選択の結果から私たちを守るために刑法がパターナリスティックに機能する場合もある。だが、パターナリスティックな法律が存在することに楽観的であるべきではない、と私は考える。一般論として、パターナリスティックな法律は私たちを侮辱して子供扱いするものであるし、私たちの自律を侵害するものである。パターナリスティックな法律に対して私たちは疑い深く審査を行うべきなのだ。

 時には、パターナリスティックな規制が特別に必要になる事態も存在するだろう。そのことは私も認めよう。しかし、パターナリスティックな法律は通常ではなく例外的な存在であるべきだ。私たち自身に関する私たちの選択について政府が干渉することは、実際的に可能な限り、できるだけ制限されるべきだ。ある状況においては私たち自身の選択は制限されるべきだと主張するなら、選択を制限するのに見合うその状況に特有の事情というものを示すべきである。特に、私たちの選択に対する干渉が私たちの自律の領域を大幅に減少させるものである場合には。

 

 

 蛇足になるが、「安楽死尊厳死法制化を阻止する会」の声明文について、特に気になった箇所についてコメントしたい。

 

「あのようになってまで生きていたくない」と、生きている人の状態を「あのように」と見る、自らの内にひそむ選別の思想こそ振り返る必要がある。

 

 例えば非常な激痛や精神的苦痛に苛まれて苦しんでいる高齢者・病人を見て私が「あのようになってまで生きていたくない」と思考するとすれば、その思考の中身は「あのような激痛や精神的苦痛を私は感じたくない、私はあのように苦しみたくない、それよりも死ぬ方を私は選ぶだろう」というものであり、痛みや苦しみに対する嫌悪や忌避の感情であるはずだ。自分は当事者でないために相手の痛みや苦しみを大げさに想定している、実際に自分がその立場に立った時には痛みや苦しみに対する嫌悪や忌避よりも死を恐れる感情の方が増すかもしれない、などなどの事柄によって私の思考が的外れなものとなる可能性はあるかもしれないが、それを「選別の思想」と言われるのはよく分からない。(特に日本の)生命倫理学界隈の議論では、十分に理が通っている主張や常識的な反応などに対しても「それは選別の思想(=優生学的な発想)だ」というレッテルを貼って切り捨てることがよくあるのだが、そういうのは非生産的だし、多くの人の感覚や納得からは乖離した、特定の前提を共有した一部の人にしか通じない内輪の議論であるように思われる。

 

*1:

www.j-cast.com

www.j-cast.com

*2:安楽死尊厳死法制化を阻止する会」の声明文では「現在では癌への対処法も進歩し、抗癌剤の副作用を減らし激痛を緩和することも可能になってきている。」と書かれているが、可能になっているとはいえ程度問題であって完全に苦痛が抑制できるようになっている訳ではないだろうし、死にたいと思うほどの肉体的・精神的苦痛を感じている人は現在でも存在しているだろう