道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

覚え書き:ポストモダンの「ごにょごにょ規範主義」、サンドバッグとしてのネオリベラリズム(と優生思想)

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 先ほどの記事でジョセフ・ヒースの「『批判的』研究の問題」を取り上げたことなので、この記事から面白いところをいくつか引用しよう。

 

さっき言ったように,「批判的社会科学」の志は,たんに規範的な決意に導かれた社会科学をもたらすことだけではなくて,そういう規範的な決意を明示的にすることでもある.ぼくが読んだこの手の本でいちばん大きな問題なのは,ほぼ例外なく,この後半部分〔明示化〕で失敗している点だ.著者たちは――ほんのひとにぎりの法学教授たちをのぞいて――規範的な論証をどう展開すればいいのかまるでわかっていなかった.それどころか,じぶんたちが採用しようとしている規範的な基準がどういうものなのかをはっきり述べるのを信じられないくらい忌避していた.その結果どうなるかといえば,本まるまる一冊を費やして,「ネオリベラリズム」だなんだといったものへの抵抗をもっと強めようとする.ところが,その「ネオリベラリズム」がいったいどういうものなのかは一向に述べられない.まして,それのなにがいけないのかなんてまるで示されない.

ずいぶん前のことだけど,ハーバマースがフーコーを批判する論稿を書いた.そこでハーバマースはフーコーのことを「ゴニョゴニョ規範主義」だと言って非難していた.どういうところを非難しているのかと言うと,フーコーの著作は明らかにあれやこれやの道徳的な懸念・関心にかきたてられて生まれているのに,当人はそうして傾倒している道徳的な事柄がどういうものなのか頑としてはっきり述べようとしなかった.そのかわりに,とかく「権力」「体制」といった規範的な意味合いがにじむ語彙を修辞的な装置に使って,じぶんの規範的な判断を読者が共有するよう仕向けつつ,その一方で,公式にはじぶんはべつにそんなことをしちゃいないと否認していた.つまり,問題は,フーコーがじぶんの価値観をこっそり忍び込ませつつそんなまねはしてませんとうそぶいていたところだ.ハーバマースに言わせれば,まがいものでない批判理論にそんなごまかしは無用だ.規範的な原理原則を明示的に導入して,それを擁護する合理的な議論を提示すべきだとハーバマースは論じた.

 

 この記事では社会科学に対する批判理論が取り上げられているが、倫理学におけるポストモダニズムや批判理論でも「ごにょごにょ規範主義」を感じることはある。たとえば、肉食と菜食の問題についてのポストモダニズム的(デリダ的)な主張だ*1。あるいは、功利主義や権利論に対するフェミニズム的批判理論である*2

 前者は明らかに「動物の苦しみのことについて気にかける必要はなく、肉食には何の問題もない」という主張を含有する議論であるが、その主張を表立って出してしまうと色々と批判にさらされて自分の主張の脆弱さがバレてしまうので、主流派の動物倫理の"差別性"とか"欺瞞"をあれこれと並べ立てることで「なるほど、菜食の義務を主張する動物倫理の主張は一見反差別でありながら実は差別的な発想が隠されているんだ、じゃあそんな差別的な発想に従っちゃいけないからこれまで通りに肉を食べてもいいんだね」と誘導するような議論であった(ゲイリー・シュタイナーが言うところの「気分を良くするための倫理学」である)。

 後者は動物の道徳的地位を認めてはいるものの、「動物には痛覚や意識能力があるから、動物には道徳的地位がある」と言明してしまうことで優生思想だとか選別の思想だとか批判されることを避けるために、主流派の理論を批判しつつ自分たちの具体的な理路や結論は曖昧なところに隠してしまって、「わたしは動物への道徳的配慮の必要性を認めていますが、功利主義者や権利論者のような差別的な理路には与しませんよ」という体裁だけを整えて「いい顔」をするのだ。

 結論を明示することで露わになってしまう自分の主張の脆弱さを隠して、批判に対する応答責任を避けること、そして他の理論よりも一方上なメタ的な立場に身を置くことで体裁を良くすること……ここら辺が「ごにょごにょ規範主義」のキモであるのだろう。

 

 また、生命倫理においても、安楽死や中絶をめぐる議論で「ごにょごにょ規範主義」を感じることがある。安楽死については、あきらかに「安楽死は認められない」と考えているであろう人が、そこの結論はごまかしたまま、自己決定権の幻想や"生権力"を云々しつづける*3。中絶についても、「女性の自己決定権は胎児の生きる権利に優先する」と言明してしまえばいいものを、それだけは言わずに、女性の身体に対する"生権力"の介入を論じたり「権利と権利の対立という発想自体に男性的な発想が隠されている」などと批判したりしながら外堀を埋めていって、「中絶に反対するやつは悪どいやつだ」という結論をなんとなく匂わせたりする。生命倫理は文字通り生命に関わる問題であるために、結論を言明してしまうと冷酷さや悪人っぽさが生じてしまうおそれがあるので、それをごまかすことに腐心するのだ。

 ついでに言うと、トロッコ問題に対するよくある批判も「ごにょごにょ規範主義」の一種かもしれない。たとえば、「人間を目的ではなく手段として扱うことは許されない」「5人を救うためであっても、1人を犠牲にすることは許されない」という主張は一見すると立派で見栄えがいいが、「じゃあこれこれこういう場合でも"手段として扱う"ことになるからダメなんですか?」「1人を犠牲にすればこれだけの人が助かる場合であっても、犠牲にすることは許されないと言い続けるんですか?」などの批判が発生して、それに応答するうちに立場が苦しくなってくる。その逆の立場(「5人を救うためなら、1人を犠牲にすることは許される」)も事情は一緒だ。だから、トロッコ問題という思考実験の恣意性とか権力性を批判することで、トロッコ問題を出してくる相手の悪人っぽさを指摘しつつ、自分の抱いている結論を言明することは回避するのだ*4

 

たとえば,ずいぶん前から,批判的研究で「ネオリベラル」という言葉が最重要語として機能しているのは気づいていた.事情を知らない人に説明しよう.「ネオリベラリズム」の基本的な問題はこういうことだ.この言葉はでっちあげだ.フーコーによって人口に膾炙するようになった単語で,実はフーコー当人も理解してなかった経済的なあれこれの考えについて語るのに使われているにすぎない.じぶんから「はい自分がネオリベラルです」と称している人たちなんて,どこにもいない.そのため,それが指す事柄にはなんの制約もかかっていないし,「ネオリベラリズム」について主張される批判に応えるべき人間もいない.「ネオリベラル」を,他の「保守」「リバタリアン」といった言葉と比べてみるといい.「リバタリアン」を自称する人たちは実在するから,もしもリバタリアニズムを批判する文章を書けば,現実のリバタリアンが「おまえの言い分はおかしい」と言って反論を書いてよこすかもしれない.一方,「ネオリベラリズム」の場合には,なんでも好き放題に言える.なにを言っても,生身のネオリベラルが「お前の言い分はおかしい」と反論を書いてよこす心配はない――そんな人がどこにもいないからだ.その結果,著作でこの言葉を使う人たちはようするにこうあけすけに宣言しているにひとしくなっている.「私が意図している読者層は,同じ左派のエコーチャンバーですよ.」 エコーチャンバー外の人たちとやりとりしようとのぞんでいるなら,エコーチャンバー外にいる人たちがみずから自覚して実際に掲げているイデオロギーをとりあげないといけないだろう.(この点で,ネオリベラリズムを批判する人たちは大学業界の臆病ライオンだ.そんないわれはないと思うなら,実際の右派を見つけて議論してみてはいかが?)

ただ,ネオリベラルを自認する人がどこにもいないおかげで叶ってしまった望みが1つある.「ネオリベラル」という言葉を使うと,その文章を届ける相手がせばめられて,根っこの規範的な判断を共有している人たちに限定される.すると,この大学教員たちは「ネオリベラリズムはわるいもの」という信念にみんながすっかり賛同している気分になれる.ざっくり言えば,「ネオリベラリズムはなにか市場原理主義に関連していて,マーガレット・サッチャーロナルド・レーガンにはじまって,それ以来,公共のすみずみにまで侵入しはじめた」と考えられている.それにとどまらず,「ネオリベラリズム」は実にいろんなものを意味して使われている.(一例:政府の社会プログラムで〔受給資格を満たしているかどうか確かめるために〕家計調査をするのは「ネオリベラル」だろうか? 「ネオリベラルだ」と考える著者たちもいるし,そう考えない著者たちもいる.どちらにしても,どうしてその結論になるのか説明する人はいない.どうやら,直感で判定しているらしい――「家計調査は給付を拒否する手段なんだ」と考えるか,それとも「家計調査をすることで社会プログラムは累進的になり格差是正がはかられるんだ」と考えるかでちがってくるわけだ.ともあれ,福祉給付の申し込みにあたって書類記入が必要になるという事実だけでも,批判的研究をやっている人たちは「従順な身体の(再)生産につながる」「ネオ植民地国家(だかなんだか)を正常化する目的を推し進めるねらいである」といって非難しがちだ.

段ボールいっぱいの本を読んでみてなによりびっくりしたのは,「ネオリベラル」という言葉を侮蔑的に使っていた10冊のうち,この言葉で意図される意味についてなにかしら説明している本が1冊しかなかったことだ(興味深いことに,その1冊は,マルクス主義の視座をとると明言して書かれていた唯一の本だった).おそらくいちばんわけがわからない本は,「新保守主義〔「ネオコン」〕」という用語も定義抜きで――しかも国際関係論の意味ではなく――使っていた1冊だった.議論を追いかけてみると,どうやら著者が新保守主義をとてつもなくわるいものだと考えているのはありありとわかるし,ネオリベラリズムとはどこかちがうものと考えているのもわかる.けれど,どこがどうちがうと考えているのかはまるっきり不明だった.

 

 ……実はいうと、わたし自身も「ネオリベラリズム」という単語を藁人形的に使用してしまったことはあるので、これに関してはあまり強いことは言えない*5。しかし、たしかに、「ネオリベラリズム」という単語が都合のいいサンドバッグとして使われていることは色々な本やネット上での議論を見ていても良く感じるところだ。ヒースの言うように、自分のことを「ネオリベラリストです」と自称する人なんていないんだから、サンドバッグとして無限に叩ける概念ではあることは否めない。

 同じようにサンドバッグとして用いられている概念はというと……またもや生命倫理の話題になってしまうが、「優生思想」がそれだろう。ナチス以前の時代には優生学に対して現在のような負のイメージはなかったので、優生学者を自称して優生学運動を行う人たちはいた。しかし、ナチス以後の現在では、自分のことを優生学者だとか優生主義者だなんて自称する人なんてほぼ皆無である。……だが、安楽死出生前診断の問題に関する議論では、批判すべき行動のラベリングとして「優生思想」という言葉がかなり頻繁に用いられる。はては、恋愛や子作りのパートナー選びすら「優生思想」とラベリングされるようになった始末だ*6

 優生思想には"内なる"という修飾語が用いられることが多いことも象徴的だ*7。自分自身の価値観や考え方について反省する文脈で「内なる優生思想」という言葉を用いるのに留めるなら、問題ないだろう。だが、議論において、他人の主張に対して「内なる〇〇思想」や「内なる〇〇主義」を見出すことは禁じ手である。それを言い出したらなんだって言えてしまうし、議論というものが成立しなくなってしまうからだ。

 

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

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*3:

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*4:

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*5:

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ただし、「若者はなぜネオリベ化するのか?」の記事ではある種の"性向"とか"心情"をあらわす言葉として、あえて"ネオリベ"という言葉を採用した、というつもりではある。

*6:

anond.hatelabo.jp

*7:

news.yahoo.co.jp

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