道徳的動物日記

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「進化政治学」はそんなにおかしいのか?

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 広島大学伊藤隆太氏の発言が差別的であるとして問題視されており、それにあわせて、彼の研究分野である「進化政治学」も批判の対象となっている。

 わたしの目から見ても伊藤氏の発言のうちのいくつかは差別的であり、解雇まで求めることが妥当であるかどうかはともかくとして、批判は免れないものだと思う*1

 しかし、Twitterなどでは、伊藤氏の差別発言が問題であるからと言って、彼の研究している学問分野までもが安直にレッテルを貼られて否定される、という風潮が散見される。それも、ほかの分野の学者たちがレッテル貼りや否定の先鋒に立っているようで、かなり嘆かわしい事態だ。

 

 たとえば、シノドスに掲載されたオピニオン記事と、それに対する反応のひとつが、下記のようなものである。

 

synodos.jp

 

 

 

  わたしの目から見ても、Twitter上での伊藤氏の発言はたしかに「俗流進化論」っぽいものではある*2。しかし、上述のオピニオン記事を読む限り、「進化政治学」の考え方自体はさほどおかしなものではないように思える。

 

進化政治学には三つの前提がある。第一に、人間の遺伝子は突然変異を通じた進化の所産であり、政策決定者の意思決定に影響を与えている。第二に、生存と繁殖が人間の究極的目的であり、これらの目的にかかわる問題を解決するために、自然淘汰(natural selection)と性淘汰(sexual selection)を通じて脳が進化した。第三に、現代の人間の遺伝子は最後の氷河期を経験した遺伝子から事実上変わらないため、今日の政治現象は進化的適応環境(environment of evolutionary adaptedness)――人間の心理メカニズムが形成された時代・場所、実質的には狩猟採集時代を意味する――の行動様式から説明される必要がある。

 

 要するに、人間の意思決定や心理や行動の特徴や傾向や認知バイアスなどなどには、狩猟採集民時代の環境に適応するための性淘汰や自然淘汰に適応するための進化的な経緯が、現代になっても影響している。そして、「人間の意思決定や行動や認知とはどのようなものであるか」とうことは、政治にも関連している。だから、政治について進化の観点から説明をしたり、進化的に備わった人間の諸々の特徴や傾向を前提として政策を考案することには意義がある、……という主張である。

 オピニオン記事のなかでは、スティーブン・ピンカーの「暴力の衰退」説が参照されており、「戦争とは人間の本性(human nature)に根差したものである」というトマス・ホッブズ的な人間観・戦争観が支持されている。この人間観については進化心理学者や文化人類学者の間でも異論があることは留意されるべきだろう……とはいえ、有力な見解であることも間違いないとは思うが*3

 重要なのは、このオピニオン記事のなかでは「自然主義的誤謬」は犯されていないということだ。つまり、「人間の本性はこうであるから、その本性に基づいて、このような政策を実現するべきだ」とは論じられていない。むしろ、人間の本性を抑制するために「教育や国際制度といった環境の整備が不可欠」であることや「負の因果効果を環境的要因で相殺する必要がある」ことが主張されている。ここでは、「人間の本性」には規範的な意味は与えられていない。あくまで、より望ましい政策を考慮するための「変数」のひとつとして扱われているだけだ。

 そして、人間の意思決定や心理や行動の特徴や傾向や認知バイアスなどなどを具体的な政策提言に結びつける議論は、進化政治学に限らない。たとえば行動経済学の本でも、「なぜ人間は損得や利益について合理的な判断ができないのか?」ということをそもそもから説明する場合には進化論が持ち出されることが多い。そして、人間の認知バイアスなどを分析したうえで、それに対処する方法としての「ナッジ」が提案されて、個人や家庭内での習慣や企業でのキャンペーンのみならず公的なもののデザイン設計などの政策レベルでも「ナッジ」を導入することが提案されるのだ。

 では、行動経済学は、社会ダーウィニズムや、あるいは優生思想につながるのか?わたしはつながらないと思う。同様に、進化政治学も、社会ダーウィニズムや優生思想にはつながらないだろう。最適者生存の理論が"規範的に"正しいとする自然主義的誤謬もなければ、「特定の人種や特定の遺伝的特徴を持った人は、そうでない人よりも望ましい」という主張も含まれていないからだ。人間一般に自然的に備わっている傾向に関する議論と、人種や遺伝的特徴の優劣に関する議論には、かなりの乖離がある。

 

 今回の件では、進化政治学のみならず進化心理学一般に対しても、「社会ダーウィニズム」や「優生思想」などのレッテルを貼っている人たちが散見される。学者も含めて、こういう人たちのほとんどは、おそらくなにも考えていない。ただ、進化論っぽいことを批判する際には社会ダーウィニズムや優生思想を持ち出すのが「定番」になっているから、今回もいつも通り社会ダーウィニズムや優生思想を持ち出しているだけなのだ。

 

 また、この種の議論で毎回出てくるのは、「でも、進化論は実際に悪用されてきた歴史があるのだから、進化論に基づいた主張をする人は(ほかの理論に基づいた主張をする人に比べて)悪用されたり誤解されたりしないように、とりわけ気を付けるべきだ」という主張だ。この主張には一理あるかもしれないが、とはいえ、どんな主張も誤解されて悪用される危険性をはらむところ進化論だけがことさらに槍玉にあげられるのはおかしい、とは言いたくなる。

 また、わたし自身がこれまでブログや他のところで書いてきた記事でも、自然主義的誤謬に関する注意や「統計的な平均値の話である」という但し書きをこまめに入れてきたが、それを丸々無視されて、優生思想だとか生物学的決定論だとかなんとか批判されてきた経緯がある。実際のところ、そのような批判をしている人にとっては、「進化論の悪用」に対する危惧は方便に過ぎず、とにかく進化論や生物学に基づいた議論そのものを否定することが目的であるのだろう。だから、「進化論の悪用」を問題視している人の批判を毎回受け入れていると、ゴールポストがどんどん移動させられて最終的に何も言えなくなる可能性が高いのだ。

 

 

*1:署名キャンペーンの記事のなかで引用されているものについては、たとえば「道徳的に劣っている中国人をまともに相手にする必要はない」という文章は、差別的であると判断して差支えがないように思える。apjという方がnote記事でこの発言を擁護しているが、この擁護にはやや無理があって苦しい。

note.com

一方で、書名キャンペーンで「セクシズム」だと批判されているフェミニズム批判発言は、apj氏が書かれている通り「フェミニズムに対する単なる異論あるいは反論に過ぎない」。他の多くの発言も、不用意で雑であるとは思うが、差別であるとは断定できない、あるいは、きわめて狭い範囲での社会学や社会運動界隈での用法でしか「差別」と判断されない発言であるだろう。

*2:「社会ダーウィニズム」とまで言えるかどうかは微妙なところだ。

*3:

econ101.jp

davitrice.hatenadiary.jp