道徳的動物日記

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なぜ人類学者は人間の「共通点」ではなく「差異」を強調するか?(『ヒューマン・ユニヴァーサルズ:文化相対主義から普遍性の認識へ』)

 

 

 

 原著は1991年であり、スティーブン・ピンカーの『心は空白の石板か』の11年前に出版されたもの。当時における文化人類学が人間の「普遍特性」の存在を認めなかったり軽視したりすることを批判して、人類学において普遍特性をいかに扱って説明すべきであるか、ということが論じられている。

 

 この本で繰り返し指摘されているのは、異なる社会や異なる文化に生きる人たちの間の「共通点」や「差異」を文化人類学者が強調しがちであるということには、学問的な方法論やディシプリン以前の営利的な事情が関わっているということだ。

 

ここで述べてきた歪曲ーーとりわけ心の白紙(タブラ・ラサ)説ーーに関して、人類学者は全面的な責任があるわけではない。しかし、社会や文化による差異や決定を強調したいという人類学者の職業上の動機は、そう簡単には片づかない。社会や文化の違いの存在を示せば示すほど、そしてそれらが純粋に社会や文化の力学を反映していると論じれば論じるほど、社会・文化人類学者(あるいは社会学者)は、学問の世界と実際的な人間の営みにおける自らの役割をより正当化でき、その結果より多くの収入を得、より多くの聴衆を聴衆を講演に集めることができ、研究費も増え、書くものもより広く読まれるようになる。責任の一部は、直接人類学者が負うべきものだ。なぜなら、サモアでは思春期のストレスがないと報告したのも、チャンブリ族では性役割が逆転していると報告したのも、ホピ族では時間の概念がないと報告したのも、人類学者だからである。そしてこれらの報告を真に受け、人類が限りない可塑性をもっているという神話にそれらを織り込んだのもまた、人類学者である。なによりもこのことが、すべての文化に共通する規則性や客観的基準といったものは実質的には存在しないという立場をとる(あるいはそれにつながる)極端なかたちの相対主義に、実証科学の力を貸すことになった。

(p.275 - 276)

 

 また、「心の白紙説」や「人類も限りない可塑性」を強調する議論の背景には、ある種の道徳的・イデオロギー的な動機もあった。

 

[行動主義の創始者であるジョン・ワトソンの有名な言葉に関して]*1今考えてみると、個人差への環境の影響について述べたこの有名な言葉は、人間の心の「能力」を「モジュール(機能単位)」として見る見方の最も極端なものーー人間の心が数多くの生得的で高度に特殊化したメカニズムから構成されているという見方ーーとなんら矛盾しないのは明らかである。しかし、その時代の社会学者や人類学者は、ワトソンの論法になんの欠点も見出せなかったようであり、ワトソンと同様の結論を引き出した。すなわち、人間は社会や文化の産物であって、社会や文化を変えれば人間を変えることができ、社会や文化の力学を知れば人間の営みもコントロールできる。知的で科学的な社会化によって、人間は自分がなりたいものになることができる。こうした見方は、大勢の社会科学者のものの見方に合うだけではなく、さまざまな階層のアメリカ市民にアピールする、平等主義と科学に対する楽観的な信仰も具現していた。ワトソンは預言者として歓迎され、彼の考え方は、家族、労働力、産業、そして社会全般に関わるさまざまな問題を解決できるように思えた。

しかし、ワトソンは「すばらしい考えを提示した」が、その考えを支持するために示した実験的証拠は、ないも同然だった。[マーガレット・]ミードの『サモアの思春期』も、これに負けず劣らずすばらしい考えの例だが、この本の成功もこの文脈の中で見る必要がある。それは、際立って行動主義の主張を確証しているように見えたのだ。

(……中略……)

ミードの考えは、社会科学の教科書に長い間根を張った。その考えの需要は、人類学だけでなく、それをとりまく広範な領域において支配的になりつつあった思想をミードの考えが的確に表現していたことを反映していた。(文化相対主義などの)代表的な環境決定論と、社会科学を実際の社会問題に適用できるという楽観論との同一視は、現在にいたるまで影響力をもち続けている。

生物科学が社会科学の明確なガイド役とはなりえなかった時代に、こうした展開があったのは確かに、偶然ではない。ダーウィン的な考えは、それが社会ダーウィニズム全般に結びついたり、とくに優生主義に結びついたりしたために、汚されていた。さらに、進化論が一層の飛躍をとげるには、ダーウィンとメンデルの研究の統合を待たなければならなかった。R・A・フィッシャーの『自然淘汰の遺伝的理論』[1930]に始まるこうした統合が起きるまで、生物学の理論的展開に注意を向けた社会科学者はほとんどいなかった。

(p.107 - 109)

 

[1950年代前半に]続く十年ほどの間は、人類学の本流では普遍特性を一般に明示的に論じた著作の数は増えず、人類学の大部分で、大きな後退が見られた。戦争直後に湧き上がった普遍特性への熱がなぜ冷めたのかについては、普遍特性に対して多くの人類学者たちがまだ抱いていた相反する感情に加え、おそらくさらに二つの理由があった。普遍特性への関心は、一九三〇年代後半から四〇年代にかけての大きな危機ーーナチスの台頭ーーに際してなんらかのしっかりした基盤をもちたいという望みによって刺激されていたのだが、この危機が去ってしまうと、そうした普遍特性への関心も薄れてしまったということなのかもしれない。実際、これに続く大きな世界的危機ーー第三次世界大戦の脅威ーーに際しては、多くの学者たちから、寛容とそれを支える文化相対主義の新たな支持を求める声が起こった。第二に、人類学者が普遍特性を喜んで受け入れたにしても、普遍特性をどのように説明すべきか、あるいは、おそらくもっと重要なのだが、普遍特性への関心をどのように研究に結実させるかということが、あまり明確ではなかった。心理学は依然として行動主義に偏りすぎており、ほとんどガイド役にはならなかった。進化生物学でなにが起こりつつあるのか、あるいはそれが役に立つのかどうかをーー文化の進化への人類学的関心にもかかわらずーーわかっている人類学者も、ほとんどいなかった。

(p.129 - 130)

 

 この本のなかでは、文化人類学において普遍特性と文化相対主義とが各時代にそれぞれどのように扱われてきたかを示す第三章「普遍特性研究の歴史」がもっとも興味深い。また、第四章の「普遍特性を説明する」ではいくつかのタイプの説明が紹介されるが、基本的には進化論的・生物学的な観点からの説明が主となる。

 文化の当事者たちの観点や枠組みから内在的に説明する「イーミック(emic)」と、外在的に説明する「エティック(etic)」という分析枠組みに関する説明(そして、一部の文化人類学者はイーミックなことにこだわるあまりエティックな普遍性を見逃してしまいがちなこと)も、興味深かった*2

 第六章の「普遍的人間」では、地域や時代を超えてどこの集団や個人にも当てはまる数多くの特徴を記述しながら、普遍的な<人間>が描かれる。たとえば以下のような感じ。

 

<人間>は善悪を区別する。そして、前に述べたように、少なくとも暗黙にではあるが、責任と意図を認める。また、約束もわかり、約束を交わす。人間のモラルで鍵となるのは、前述の互酬性と共感の能力である。嫉妬は普遍的に見られる。嫉妬のもたらす不幸な結果に関して、それを扱う象徴的な方法(たとえば呪術)も普遍的にある。

(p.246)

 

 さて、『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』が出版されてから三十年が経っても(『心は空白の石板か』からも二十年が経っている)、「心の白紙説」や「人類も限りない可塑性」を強調する議論は相変わらず提出され続けている。その理由についても相変わらずブラウンの説明が当てはまるように思える。……つまり、人間の共通点ではなく差異を強調する議論の方がおもしろくてワクワクして魅力的なので、多くの人に読まれて売れ行きがよくなる、ということだ。

 また、普遍的特性を認める議論は、「文明」や「国家」や「市場」などの「制度」の利点や価値を認める議論にもつながる。人間が安全に快楽に関する同じような欲求を(社会とか資本主義によって喚起されて作り出されるのではなく)生得的にに持っているのだとすれば、それらの欲求を満たしてくれる制度はどんな人間にとっても好ましいものだとか、制度がない状況とある状況との両方を経験したらどんな人間も後者を求める、といった主張を展開できるかもしれない。また、人間には暴力的な傾向や残酷な性質が普遍的に存在するのだとしたら、それをより抑制できる文化や価値観はそうでないものよりも道徳的に優れている、と主張することも可能であるはずだ。……実際、ピンカーの『暴力の人類史』や一部の文明史家・経済史家の著作では、このタイプの主張が展開されている。

 一方で、アナーキストたちの主張は人間は「制度」から解放されて自由になった方が幸福になる、ということを前提としている。おそらく、彼らの主張は、人類には普遍的特性とそれに伴う制約が存在するという議論(というか事実)とは相容れない。だから、アナーキズムサヨクの運動では、経済学者でも政治学者でも倫理学者でもなく、デビッド・グレーバーのような「人類学者」によるお墨付きが求められるのだ。……グレーバーに限らず、日本の論客にも同様のタイプの人はちらほらといるように思われる(文化人類学者の人もいれば、人類学の議論を援用した「哲学」を論じるタイプの人もいそうだ)。

 

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*1:「私に健康で発育の良い1ダースの子どもと彼らを養育するために私が自由に設定できる環境とを与えてほしい。そうすれば、その子どもたちに適切な環境と経験を与えて、医師や弁護士、芸術家、経営者、ホームレス、泥棒などにすることができるだろう」

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0257792

*2:

www.nihongo-appliedlinguistics.net