道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

愛情と結婚の進化論と人類史

 

 

『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史』では、基本的には進化心理学や文化進化論などの考え方に基づきながら、人間には「社会性」がどのような形で備わっていて、どういう条件が揃えばそれらが表出されるか、といったことが論じられている。

 この本のメインとなる主張は、"私たちの遺伝子には社会や集団の「青写真(ブループリント)が組み込まれている"、というものだ。

 世界には様々なかたちの社会があるとはいえ、どんなかたちの社会でも存続できるというわけではない。現に存続してきた社会とは、それが表面上はどれだけ多様であっても、根本となる構造は共通しており「青写真」に基づいているのだ。逆に言うと、「青写真」を無視した構造の社会(人工的に作られたコミューンや、漂流者たちが急造した社会など)は存続することが困難であり、早い段階で崩壊してしまうのである。

 また、「青写真」は「社会性一式(ソーシャル・スイート)」とも呼称されている。

 

これから示すように、あらゆる社会の核心には以下のような社会性一式が存在する。

 

(1)個人のアイデンティティを持つ、またそれを認識する能力

(2)パートナーや子供への愛情

(3)交友

(4)社会的ネットワーク

(5)協力

(6)自分が属する集団への好意(すなわち内集団バイアス)

(7)ゆるやかな階級制(すなわち相対的な平等主義)

(8)社会的な学習と指導

 

(上巻、p.37)

※以下、引用はすべて上巻から。

 

これらの特徴は団結することにかかわっており、不確実な世界で生き延びるためにきわめて有益なものである。知識をより効率的に獲得・伝達する方法を提供し、リスクを共有できるようにしてくれるからだ。言い換えれば、これらの特質は進化の観点から見て合理的であり、私たちのダーウィン適応度〔訳注:ある遺伝子型を持つ個体が次代にどれだけ残るかを示す尺度〕 を高め、個人的・集団的利益を促進する。人間の遺伝子は、社会的な感性や行動を私たちに授けることによって、私たちが大小の規模でつくる社会の形成を助けてくれるのである。

こうしてつくりだされた社会環境が、今度は、進化的時間を通じたフィードバック・ループを生み出す。歴史を通じて、人間は社会集団に囲まれて暮らしてきたが、同胞ーー私たちが交流し、協力し、あるいは避けなければならない人びとーーの存在は、遺伝子の形成においてどんな捕食者にも劣らないほど大きな影響力を持っていた。進化論的に言えば、私たちが社会環境を形成してきたのと同様に、社会環境が私たちを形成してきたのだ。

(p.39)

 

 進化心理学の考え方にしたがって、この本のなかでは人間というものには生物学的に決定された共通の特徴が存在しており、古今東西のどこであっても人間の本質が変わらない、とされている。以下の引用部分はドナルド・ブラウンの「ヒューマン・ユニヴァーサル」論について紹介する箇所だ*1

 

一九九一年、文化人類学者のドナルド・ブラウンは、文化人類学の分野で普遍的特性を探ることへの「タブー」と称するものに挑んだ。彼は、文化的特徴を普遍的なものとした可能性のある三つの広範なメカニズムの概略を描いた。そうした文化的特徴は、(1)ある場所で使われはじめ、広く拡散していったものかもしれない(たとえば車輪のように)。(2)環境によって課される、あらゆる人間が直面する話題(たとえば住みかを見つける、料理をつくる、子の父であることを確定するなどの必要性)に対して一般に見いだされる解決法を反映しているのかもしれない。(3)あらゆる人間に共通する生来の特徴(たとえば音楽に惹かれる、友人を欲しがる、公正の実現に尽くすなど)を反映しているのかもしれない。すべてではないにしても一部の普遍的特性は、進化した人間本性の産物に違いない。

仮説上の「普遍的人間」について詳しく説明するなかで、ブラウンは、言語、社会、行動、認識にかかわる表面的な普遍的特性を数十も列挙している。

 

 人間の普遍的特性として挙げられるものには、文化の領域では、神話、伝説、日課、規則、幸運や先例の概念、身体装飾、道具の使用と製作などがある。言語の領域では、文法、音素、多義性、換喩、反意語、単語の使用頻度と長さの反比などがある。社会的領域では、分業、社会集団、年齢階梯、家族、親族制度、自民族中心主義、遊び、交換、協力、互恵主義などがある。行動の領域では、攻撃、身ぶり、うわさ話、顔の表情などがある。精神の領域では、感情、二分法的思考、ヘビへの警戒や恐怖、感情移入、心理学的な防御機構などがある。

 

(p.33)

 

 

 さて、この本の第5章「始まりは愛」 では、人間(と動物)が異性のパートナーに対して抱く愛情、そして人間の様々な社会における結婚制度というトピックが論じられている。

 そもそも、「恋愛」や「結婚」といったテーマは、進化論的に考えるうえではかなり興味深く、そして厄介なものである。わたしたちがだれかに恋をして求愛するときに抱く感情とは、あきらかに身体的なものだ。恋愛で悩んでいる人は、相手のことばかり考えて他のことが考えられなくなるだけでなく、食欲も失ったりしてしまう。「恋愛とはロマンティック・ラブ・イデオロギーといった文化的規範によって押し付けられるものに過ぎない」という風の主張をする人は多いが、ふつう、文化的規範といったものが思考や生理的機能にここまでの影響を与えることはない。そして、恋愛をした人がのぼせ上がったり食欲を失ったりする姿は、大昔から世界各地の様々な物語や記録のなかで描かれてきたのだ。恋愛という現象が自然なものであり、普遍的なものであることは明白だろう*2

 恋愛に比べると、結婚を普遍的なものであると主張することは難しい。婚姻とは法律で定められる「制度」であり、そのかたちも社会によって様々だ。一夫一妻制の社会もあれば、一夫多妻制や多夫多妻制の社会もある。どこの社会でもなんらかのかたちで結婚制度が存在するという事実は結婚も「青写真」に基づいていることを示すかもしれないが、モノガミーとポリアモリーという真逆に見える制度のどちらもが存在し得るというのは、どういうことだろうか。

 

 実際のところ、わたしたちが「これは世界中のみんながやっていることだろう」と思っている慣習や行動ですら、一部の社会では実践されていなかったりタブー視されていたりすることがある。たとえば、アフリカ南部に住むツォンガ族はキスを気持ち悪く思ってタブー視しているし、アフリカのほか地域や中南米に暮らす狩猟採集民や農耕民たちの多くにも愛情のキスや性的なキスの習慣はないそうだ。……とはいえ、普遍的な要素もやっぱり存在するのである。

 

人間の条件の大きな謎の一つ、すなわち、単なる「性的な関係」ではなく「愛情のある関係」を他人と築こうとする衝動の根底にあるものは何だろう。進化の観点からすると、人間がパートナーを欲しがる理由を説明するのは簡単だ。しかし、どうして人間はパートナーに特別な愛着を抱くのだろう?どうしてパートナーに愛情を感じるのだろう?

愛したい、所有したい、交わりたいという人間のせめぎ合う欲望を理解するには、人間の恋愛・性愛の多様性と、それらに通底する核心にあるものーー何かがあるとすればだがーーの両方について考える必要がある。

キスだけにとどまらず、セックスや結婚にまつわる多くの規範や慣習は世界中で異なっている。だが、異なってはいない別の特徴もある。オーガズムの生理といった不変の特徴は、地域にかかわらず同じはずであり、人類の進化した生態や心理から生じるものだ。こうした普遍的特徴のなかでもカギとなるのが「夫婦の絆」を結ぼうとする傾向だ。これは、パートナーと強固な社会的愛着関係を築きたいという生物学的な衝動であり、ますます理解が進んでいる分子と神経のメカニズムによって促進される。進化は文化に対して連携して機能すべき「原料」を提供し、その基盤のうえに配偶システムが築かれる。第11章で考察するように、それに次いで今度は配偶システムが進化を形成することもある(たとえば、いとこ結婚を禁じる一部の文化的規則は子孫の生存に影響を与える)。

(p.179)

 

 結婚という慣習には、文化的規範と進化的基盤が絡み合っている。さらに、環境という要素が与える影響も大きい。アウストラロピテクスは一夫多妻制であったようだが、移動しながら狩猟採集を営むという生活様式を取り入れたホモ・サピエンスは一夫一妻制となった。これには、食糧源の変化が影響している(狩猟は集団で協力しておこなう行為なので集団に平等主義をもたらし、パートナーのために食糧を採集して与えるという行為は一対一の排他的な関係の価値を高める)。しかし農業革命が起こった一万年前や民族国家が興隆した五千年前は、社会経済的不平等をもたらして一夫多妻制を復活させた。一夫一妻制がふたたび戻ってきたのは、西洋諸国では二千年前から、他の地域では数百年前からである。

 

人類学的・歴史的記録のなかで一夫一妻制をとっていた少数派の社会は、両極端の二つの大きなカテゴリーに分けられる。かたや、男性間の身分格差がほとんどなく、生体的に厳しい環境にある小規模な社会、かたや、ギリシャやローマのように繁栄をきわめた大規模な古代社会。「生態的に押しつけられた」一夫一妻制が採用されるのは、環境のせいでほかの選択肢を選ぶのが難しい場合だ。これは、食べ物が手に入らないせいで痩せてしまう人に似ている。ギリシャ・ローマのような「文化的に押しつけられた」一夫一妻制は、一つの規範として採用される。これは、容貌や健康上の理由で痩せているほうが好ましいため、体重を落とすことを選ぶ人に似ている。文化的に押しつけられた一夫一妻制は、現在主流となっている形だ。

(p.185)

 

自然人類学者のジョゼフ・ヘンリックらによれば、文化的な一夫一妻制が広がった一因は、一夫一妻制が集団どうしの競争で有利だという点にあるという。配偶者がいない男性は、自分が属する集団内で暴力に訴えるか、ほかの集団を襲撃するかして、紛争を引き起こす。一夫一妻制を採用した政治体、国家、宗教では、このような暴力の発生率が下がり、内部にも外部にも資源をより生産的にふり分けることができる。こうした観点からすれば、一夫一妻婚にかんする現代の規範と制度は、集団間の競争と集団内の利益という圧力に呼応した一連の進化のプロセスによってつくられてきたのである。

(p.188)

 

 というわけで、一夫一妻制は「普遍的」なものとまでは言えない。『ブループリント』のなかでは、一夫一妻制である狩猟採集民のハッザ族、一夫多妻制である牧畜民のトゥルカナ族、土地や食料が不足している状況に対応するために一妻多夫制を営む部族たち(パラグアイアチェ族など)、そして結婚という制度がそもそも存在せず父親や夫という概念もなくポリアモリー的な関係を営むヒマラヤ山脈のナ族が、具体例として紹介されている*3

 このなかでも、ナ族に関する記述はとりわけ興味深い。一見すると、現代の先進国社会でポリアモリーを復活させたいと企む人たちにとっては、「結婚」という概念から解放されたかのように見えるナ族のような社会が存在することは朗報だ。人間社会における結婚や愛情のあり方はひとつに固定されているわけではなく、どんな形にでもどうとでも変えられる、という期待を抱けるからである。……しかし、(ほかの社会に比べるとずっと少ないとはいえ)ナ族のあいだですら性的な嫉妬は存在するし、社会の規範に逆らって排他的で独占的な関係を結ぼうとする男女もいるのだ。

 

〔ナ族について調査した文化人類学者の〕蔡はこう結論している。人間にはいくつかの根本的なーーそして私に言わせれば、生物ならではのーー欲求があり、そのうちの二つがパートナーを余裕したいという欲求と、複数のパートナーを持ちたちという欲求であると。同じ集団内で、一見矛盾するこれらの二つの衝動と折り合いをつけるのは難しいし、実のところ選択肢は二つしかない。多様性を楽しむことなく所有するか、所有することなく多様性を楽しむかだ。

進化の過程を通じ、愛着には強い力があることがわかっている。しかも、社会は制度的に言って両方を満足させることはできないため、ナ族はーー おそらく社会としては唯一 ーー後者を選んでこのジレンマを解決したように思える。

 

(……中略……)

 

それでも、正式な制度によって、(パートナーを愛することと所有することの両方に対する)これらの人間的欲求のどちらかを根絶することはできない。これらの欲求は、人間本性の最も根源的な部分から発しているからだ。人は、あらゆる社会であらゆる種類の規範を破る。そこでナ族は、走婚だけでも社会は十二分に機能するにもかかわらず、人目をはばからない訪問という制度を認めることで、所有欲もある程度は満たせるようにしている。さらにはナ族のあいだですら、「燃えさかる愛の炎にわれを忘れた」カップルが、お互いを完全に所有すべく駆け落ちすることがある。彼らは相手を訪問するだけでは飽き足らず、複数の相手を持つことには興味がない。こうした状況は、多くの社会がパートナーの変更を可能にするために、結婚制度に便宜的要素を与えるのと似ている。たとえば離婚を許したり、男性が内妻を迎えることを認めたりといったことだ。

多くの人びとがこう論じてきた。きわめて珍しいナ族の性的慣行は、結婚の普遍性を反証するものであり、一夫一妻制に生物学的根拠などありえないことを示していると。だが、変り種が存在するからといって、人類に中心的傾向がないとは限らない。科学者として私たちは、まとめることもできれば分割することもできるーーつまり、共通点を探すこともできれば差異を探すこともできるのだ。人間の青写真は私たちの現実の原案であって、最終版ではない。

ナ族の関係構造の根底にある動機は、複数のパートナーが欲しいという人間の基本的な欲求であり、結婚制度の根底にある動機は、パートナーを所有したいという同じく基本的な欲求だ。ナ族の例外的ケースは次のことを証明している。愛着への欲求ーー実はパートナーと絆を結びたいという欲求ーーほど深く根本的な人間性の一面は、完全に抑圧することも置き換えることもできない。まさにその絆を断ち切るために、きわめて精巧につくられた一連の文化的規則をもってしても、絶対に不可能なのだ。

(p.219 - 220)

 

 第6章の「動物の惹き合う力」では、人間と一部の動物が異性に対して抱く「絆を結びたいという欲求」のあり方について、詳細に論じられる。ここで主に取り上げられるのは、以前にもこのブログで紹介した、人間と同じように一夫一妻制を営む哺乳類でありプレーリーハタネズミを用いた、ラリー・ヤングの研究だ*4

 

 この本のなかでもとくにオリジナリティがあって印象にのこる主張が、「人間が他人や自集団に対して抱く愛情は、パートナーに対して抱く愛情を基盤として、進化していった」というものである。

 

進化の過程で、人間はまず自分の子供、次に配偶者を愛するようになり、続いて血のつながった親戚、さらに婚姻によってできた親戚(姻族)、最後に友人や集団に愛着を感じるようになったらしい。私たちは、ますます多くの人々に愛着を感じる種になるための長期的な移行のまっただなかにいるのではないかと、ときどき思うことがある。だが性的関係以外の人間関係を理解するためには、まず性や恋愛による結びつきを理解しなければならない。こうした結びつきは、進化の過程においてそれ以外の絆に先行していた。配偶者への愛情は、青写真のカギとなる要素なのだ。

(p.183)

 

……ほかの霊長類とくらべると、人類の社会組織の顕著な特徴は、血縁関係のない大勢の個体と共に暮らすことだ。正確に言えば、人間はオスもメスも複数いる集団で生活し、配偶者との間に夫婦の絆を結ぶため、その集団は厳密には複数家族集団だと言える。 さらに、ほかの霊長類とは異なり、人間の家族は父系のみ、母系のみの親族と共に過ごす必要はなく、いわゆる多所居住の形をとって一方から他方へと移ることができる。

そうした住み方の特徴の起源は複雑だが、一つの経路として、夫婦の絆と両親による子育てへの共同投資の結果、両性が特に居住にかんする意思決定でより平等になったことが挙げられる。母親と父親の双方が、自分の親族と一緒の生活をーー別々の時期にかもしれないがーー選択できるのだ。長きにわたって各集団の多くのメンバーがこの選択権を行使した結果、かなり混成された、おおむね血縁関係のない一連の集団ができ上がったのだろう。ようするに、狩猟採集民の野営集団内に見られる血縁関係の度合いの低さは、男性と女性がそれぞれの親族と共に時間を過ごそうとするうちに、自然に生じたのだ。こうして、夫婦の絆と共同の子育てが、血縁関係のない人たちとの協力と友情の土台となったのである。

おおむね非血縁者から成るそのような集団の中で、人びとは血縁関係のない友人を持てるようになった。それについては第8章と第9章で見ていく。感情と愛着の輪を広げることが可能となった。人間の集団にとって大切な協力の方法である食物の分かち合いについて考えてみよう。食物を入手したその場で一緒に食べるだけでなく、他者と分け合うためには、ある場所から別の場所へと運べなくてはならない。したがって、分け合う目的での食物の採集はおそらく、二足歩行と共進化したのだろう。二足歩行により、両手が空いて、パートナーや子のもとへ食物を持ち帰ることができるようになったからだ。

(p.259 - 260)

 

 著者の議論は、どことなく、ピーター・シンガーの著書『輪の拡大』を思い出させるところがある*5。シンガーも、人間が道徳的配慮の対象を自分自身から身近な家族や親族へ、そして自集団へと拡大させていった進化的な歴史について記述していた。……とはいえ、進化によって備わった感情に基づいた道徳配慮には限界があり、これからは感情ではなく理性に基づいて世界中の人々や動物へと配慮の対象を拡大しなくてはならない、というのが主な論点であるのだが。『ブループリント』のなかでシンガー(や最近の「進化論的倫理学」の議論)があまり参照されていないのはやや残念なことではある。

 

 

*1:

 

 

この本はいつか読みたいと思っているのだけれど、どこの図書館にも置いていないし中古価格は高騰しているしで、なかなか手が出せなくて困る。

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:ナ族では、結婚の代わりに走婚(通い婚)が行われている。男性は日が暮れてから女性の家に行って、相手の家族とは接触しないように注意して、セックスだけして夜明け前に帰るのである。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

econ101.jp