道徳的動物日記

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経済的不平等のなにが悪いのか?(読書メモ:『21世紀の啓蒙:理性、科学、ヒューマニズム』)

 

 

 原著が出たあとに寄せられた反論に対してピンカーが行なった再反論を紹介したり*1、現代ビジネスの記事でピンカーについて書いたりしたけれど*2、『21世紀の啓蒙』を通して読むのは今回がはじめて。……とはいえ、前著『暴力の人類史』に比べると、読み物としての面白さは数段劣ると言わざるをえない内容だ。

 

『21世紀の啓蒙』にせよ『暴力の人類史』にせよ、核となる主張は「人類は進歩してきて、世界はどんどん平和になってきた」というものであるが、『暴力の人類史』ではこの主張を説得的に「論証」するためにかなりの努力がなされており、ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』を引用している部分や「道徳的フリン効果」についての議論をはじめとして、印象に残る箇所が多々あった。読者たちの常識に反する主張を伝えるためには、単にデータやグラフを延々と示し続けるだけだとダメで、認識を一変させるくらいにビビッドなエピソードを示したりエキサイティングな主張を展開したりするなどの「工夫」が必要とされたわけである。

 ……しかし、『21世紀の啓蒙』を読む読者の大半は『暴力の人類史』も読んでいるということをピンカーも理解しているので、この本を書くときにはもはや「論証」や「工夫」は必要とされなかった。したがって、『21世紀の啓蒙』のとくに第二部では延々とグラフやデータが示され続けるということになるし、しかも主張の大半は「『暴力の人類史』の出版以後にも暴力が減り続けて社会が豊かになり続けていることを示す」というものだから、新鮮味がほとんど感じられない。

 第一部と第三部では「啓蒙主義」の意義が説かれて、科学的かつ理性的に考えて議論することの大切さが語られる。その主張に異論はないが、ピンカーが自分の言いたいことをゴリ押ししているだけという感も否めない。たとえばジョセフ・ヒースが『啓蒙思想2.0』で展開した議論の方がずっと含蓄があったしウィットにも富んでいた。

 というわけで全体的にはあまり評価できない本ではあるのだが、分厚いわりにスラスラと読めるのはいいところだ。また、進歩の指標として取り上げられているトピックの数は『暴力の人類史』のときからさらに増えているので、情報量が盛り沢山であることはたしかだ。

 

 しかし、第二部第九章の「不平等は本当の問題ではない」は、『暴力の人類史』でもあまり取り上げられなかったトピックである「不平等」にスポットをあてたものであるが、この章で展開されている議論は例外的に新鮮味があって、なかなか面白かった。

「経済的不平等は深刻な問題である」という主張は左からも右からも連呼されていてすっかり定番な議論になっているが、ピンカーは果敢にもこの主張に対して反論しようとするのだ。

 

格差という概念の範疇に入る現象は山ほどあるが、そのなかに深刻なものがあることは確かだ。それらに対して何らかの対処が求められるのは、人々が不平等感に煽られて「市場経済も技術進歩も対外貿易も放棄せよ」といった破壊的な考えに走るのを防ぐためでもある。格差というのは分析が非常に困難で(人口が一〇〇万なら九九万九九九九通りの不平等がありうるのだから)、これを扱う本も数が多い。だがわたしがこのテーマに一章を割くべきだと思ったのは、あまりにも多くの人がディストピア論に惑わされ、格差を「現代社会が人間のありようを改善できていない証拠」ととらえているからだ。このあと論じるように、その考え方は多くの点で間違っている。

(上巻、p.189)

※以下、引用はすべて上巻から。

 

哲学者のハリー・フランクファートが二〇一五年の『不平等論』でこうした問題を堀り下げ、次のように論じている。不平等それ自体は道徳上好ましくないわけではない。 好ましくないのは「貧困」である。長生きで、健康で、楽しく、刺激的な人生を送れるなら、お隣さんがいくら稼いでいても、どれほど大きな家に住んでいても、車を何台もっていても、道徳的にはどうでもいい。「道徳的見地からすれば、誰もが"同じだけ"もつことは重要ではない。道徳上重要なのは誰もが"十分に"もつことである」と。

(p.190)

 

このような格差と貧困の混同は、「富は猛獣にとってのアンテロープの死骸と同じように有限で、その分配はゼロサム競争であり、誰かの取り分が増えれば他の取り分が減る」という考え方ーー仕事量についていわれる「労働塊の誤謬」のような考え方ーーから生じる。しかし前章で述べたように、富とはそういうものではなく、産業革命以降に指数関数的に増えたのだった。つまり裕福な人がさらに裕福になるときには、貧しい人も裕福になりうる。専門家でさえ塊の誤謬に陥ったような表現をよく使うが、それは概念を混同しているというより、修辞上の熱意の表れかもしれない、

(……中略……)

塊の誤謬よりさらに有害なのが、裕福になった人は本来の取り分以上のものを他人から奪っているという考え方である。これがなぜ間違っているかについては、哲学者のロバート・ノージックの有名な論述があるが、それを二一世紀版に書き換えるとこうなる。今日の世界的な富豪の一人に『ハリー・ポッター』シリーズの著者、J・K・ローリングがいる。このシリーズは四億部以上を売り上げ、さらに映画化されて同じくらいの観客を動員した。仮に一〇億人が『ハリー・ポッター』のペーパーバックか映画のチケットのために一〇ドルずつ支払い、その一割がローリングの収入になったとしよう。当然のことながら彼女は大富豪となり、格差を拡大させたことになるわけだが、人々を不幸にしたわけではなく、むしろ幸福にした(すべての富豪が人々を幸せにしたという意味ではない)。この説明はローリングの所得が努力や能力の成果にすぎないとか、彼女が世界に提供した情報や幸福の対価にすぎないといっているのではない。どこかの委員会が彼女は富豪になるにふさわしいと決めたわけでもない。彼女が得た富は、一〇億人の読者や鑑賞者の自発的行為から生まれた副産物である。

(p.191 - 192)

 

 フランクファートのような「経済的不平等それ自体が悪ではない」という主張に対する反論として考えられるのは、経済的不平等が存在すること自体によって人々の福利にもたらされる悪影響を主張する議論であるだろう。邦訳されている本としては、リチャード・ウィルキンソンとケイト・ピケットの『平等社会』や『格差は心を壊す:比較という呪縛』、アンガス・ディートンの『大脱出』、ロバート・フランクの『ダーウィン・エコノミー:自由、競争、公益』などでこのような議論が展開されている*3。具体的な主張の内容としては、「経済格差の存在は個人の精神に悪影響を与えて、身体的な健康も害する」といったミクロなものも、「経済格差の存在は社会の紐帯を破壊して、民主主義を機能不全に陥らせる」といったマクロなものもある。

 これらの主張に対して、ピンカーは以下のように反論する。

 

『平等社会』 および類似の著書の理論は「左派の万物の新理論」と呼ばれていて、複雑に絡み合う相関関係をいきなり一つの原因で説明しようとするところに問題がある

(……中略……)

また、スウェーデンやフランスのように経済的に平等主義の国々と、ブラジルや南アフリカのような不平等な国々とでは、所得分配以外にも数々の相違点があるが、そこが無視されている。平等主義の国には、豊か、教育レベルが高い、良い統治がなされている、文化的に均質といった特徴も見られる。つまり不平等と幸福度(あるいは他の社会善)の見た目の相関は、ウガンダよりデンマークで暮らすほうがいい理由はたくさんあるということを示しているにすぎないかもしれない。

(……中略……)

いや、「不平等が悪を生む」という主張に対しては、もっと決定的な反論の根拠がある。社会学者のジョナサン・ケリーとマリア・エヴァンズが三〇年にわたって六八の社会の二〇万人を対象に調査を行い、その結果を分析したところ、不平等と幸福度の相関は疑似相関であって因果関係ではないことがわかった。(……中略……)発展途上国においては、格差は人々の気力をくじくのではなく逆に鼓舞していて、不平等な社会のほうがかえって人々の幸福度が高いという結果も生じている。

(p.194-195)

 

「不平等な社会の方が人々を幸福にする」という主張に対しては「ほんとかよ」と思わなくもない。とはいえ、ウィルキンソンとピケットの本は読んでいてもあまり説得力が感じられず、なんでもかんでも悪いことを不平等というひとつの原因に押し付けている感が強かったこともたしかだ。

 事実の問題として「不平等は人を不幸にする」論と「不平等は人を不幸にするわけではない」論のどちらの方が正しいかということは、経済学や統計学の門外漢であるわたしとしては、結局のところは判断がつきかねる問題だ。……とはいえ、昨今の言論では経済的不平等はもっとも憎まれている事柄であり(擁護するのはごく一部の経済学者だけだ)、それに対する批判は精度が低くても甘めに扱ってもらえがち、というのはありそうな話であると思う。

 

 また、ピンカーは、「人が稼ぐ額」ではなく「人が消費する額」に注目すればアメリカの貧困率は現在では3%しかない、とも主張している。グローバル化と技術の進歩によりモノの値段が安くなったことで、所得が少ない人でも昔に比べて豊かな生活ができるようになったということだ。とはいえ、この議論はさすがに「定義のすり替え」という感が強いし、不平等を問題視している人たちに対する反論にもなっていなさそうに思える。

 しかしながら、数十年前の社会がいまよりも生活水準が高かったり、過去の世紀は現代に比べて不平等がずっと激しかったという事実を指摘することは、安直な現代文明批判や反資本主義運動を牽制するという点において、重要であるだろう。

 

 

 

 他の章についても軽く言及しておくと、犯罪の問題について扱った第一二章「世界はいかにして安全になったか」*4。マーサ・ヌスバウムのケイパビリティ論が取り上げられる第一七章「生活の質と選択の自由」や、「世界がいくら進歩してもわたしたちはぜんぜん幸福になっていないじゃないか?」という疑問に答える第一八章「幸福感が豊かさに比例しない理由」、キリスト教イスラム教にニーチェ信者をこきおろす第二三章「ヒューマニズムを改めて擁護する」はそれなりに面白かった(しかし、いずれの章についても内容はやや船舶であり、別の専門家がその章のテーマを題材にした一冊の本を読んだ方がいいような気はする)。

 第一部における「啓蒙」や「エントロピー」「情報」の定義論に、チャールズ・P・スノーの『二つの文化と科学革命』を紹介してくれるところとかもタメにはなる。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

gendai.ismedia.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:一二章のなかでもとくに興味深い文章。

高い犯罪率が続いたその何十年かのあいだ、たいていの専門家は「暴力犯罪には対処しようがない」というだけだった。それによると、暴力犯罪は暴力的なアメリカ社会と一体化したものなので、人種差別や貧困や格差などの根本にある原因を解決しないかぎり、抑えることはできないとされていた。このタイプの歴史悲観論は<根本原因論>と呼んでもいい。それは見かけ上は深遠な考え方で、「社会の病とはすべて根深い道徳的病であり、単純な治療などでは決して病状が和らぐことはない。そんなことをすればかえって病の核心にある壊疽を治療できなくする」とするものだ。こうした<根本原因論>が問題なのは、現実世界の問題がその想定より単純なことではなく、むしろ逆であることだ。つまり典型的な<根本原因論>が考える以上に、現実問題は複雑なのである。とりわけ<根本原因論>が道徳を基盤に論じられてデータを取り入れていない場合は、現実問題をとらえきれていない。

実は現実世界の問題は複雑すぎて、対処するには原因ではなく症状に直接働きかけるのが最善の方法である。そうすれば、病巣のなかで複雑に絡みあう原因をすべて熟知していなくてすむからだ。

(p.317)