道徳的動物日記

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能力主義は魅力的である(読書メモ:『実力も運のうち』②)

 

 

 

 前回の記事で論じたように、サンデルによる能力主義批判の核心は、能力主義が人々の「心情」に与える影響についての議論にある。

 生まれ落ちた環境のちがいや才能の有無などの「運」の要素を無いものとする能力主義では、ある人の成功はその人自身の能力と努力と意志が成せるものだと認識されて、ある人の失敗はその人自身の無能さや怠惰さが原因であると認識されてしまう。結果として、能力主義社会の勝者たちは驕りを抱き、敗者のことを侮蔑するようになる。そして、能力主義のロジックを内面化した敗者たちは屈辱を感じるようになるのだ……というのが、サンデルの主張のポイントだ。

 

 とはいえ、『実力も運のうち』という本の面白いところは、批判対象である能力主義のロジックの魅力についても、ある程度までは説明されているところにある。

 日本における政治に関する議論に親しんでいる人であれば、能力主義とはすなわちネオリベラリズムであり、自民党や維新の会といった保守政党が福祉を削減する名目で提案するものである、と考えてしまう人もいるかもしれない。しかし、サンデルが『実力も運のうち』のなかでとくに槍玉に挙げているのはバラク・オバマヒラリー・クリントンを代表とする、民主党のリベラルな政治家たちだ。

 たしかに、オバマやヒラリーは能力主義を謳ってきた。

 

出世や「値すること」について語りながらも、アメリカの政治家の大半は能力主義については明言しない。オバマは例外だった。たとえば、ESPNの解説者によるインタビューで、彼は感慨深げにこう語った。スポーツが人びとを引きつけるのは「スポーツが真の能力主義の支配する数少ない場所の一つだからです。理学士号を持つ者は多くありません。最終的に、誰が勝つか、誰が負けるか、誰がいいプレーをするか、誰がミスをするかーーそのすべてが目の前で展開されるのです」。

二〇十六年の大統領選挙戦のあいだ、ヒラリー・クリントンは出世と「値すること」のレトリックをしばしば口にした。「私たちの選挙戦は基本的信念に関わる戦いです。つまり、ここアメリカでは、どんな見た目であろうと、誰であろうと、誰を愛していようと、努力と夢の許すかぎり前進できる機会を誰もが持つべきだという信念です」。彼女は、自分が当選したら「みなさんが享受するに値する機会を必ず手にできるようにします」と誓った。選挙中のある集会では、こう明言した。「この国に真の能力主義を根付かせたいのです。不平等にはもううんざりです。努力すれば成功できるとみなさんに感じてほしいのです」

(p.106)

 

 ヒラリーが「どんな見た目であろうと」や「誰であろうと」と論じていることは重要だ。リベラルな政治家であっても能力主義を称えるのは、機会の平等を保証する能力主義とは、人種や性別、性的指向などに基づいた差別に反対するものであるからだ。

 アメリカ人たちが昔から経済的な格差に寛容であり、所得の再分配に抵抗感を抱くことはよく知られている。そのため、オバマやヒラリーのようなリベラリストが提案してきた政策も、経済的不平等の是正をして「結果の平等」を追求するものではなく、「機会の平等」を実現する障壁となっている人種差別や性的な差別を撤廃しようとするものでありつづけてきた。

 また、この本の結論部分では、人種差別にもめげずに活躍した野球選手ハンク・アーロンのエピソードを紹介したうえで、サンデルは以下のように書いている。

 

このくだりを読めば、能力主義を愛さずにはいられないし、能力主義こそ不正義への最終回答ーー才能は偏見にも、人種差別にも、機会の不平等にも打ち勝つという証明ーーだと思わずにはいられない。そして、その考えからは、正義にかなう社会とは能力主義社会であり、自分の才能と努力の許すかぎり出世できる平等な機会が誰にでもある社会だという結論に至るまで、ほんの一歩である。

だが、それは間違っている。ヘンリー・アーロンの物語が示す道徳は、能力主義を愛するべきだというものではない。本塁打を打つことでしか乗り越えられない正義にもとる人種差別制度を憎むべきだというものだ。機会の平等は、不正義を正すために道徳的に必要な手段である。とはいえ、それはあくまでも救済のための原則であり、善き社会にふさわしい理想ではない。

(p.317 - 318)

 

「そもそも差別のある社会が悪いのであり、機会の平等は不正義を正すための手段に過ぎない。それを過度に理想化して、手段ではなく目的として扱うのは本末転倒だ」というサンデルの批判は、たしかに正論だ。

 また、とくにアメリカで能力主義や「機会の平等」が魅力的に映るのは、アメリカとは他の国に比べて差別の問題が表面化しやすい国であるからだろう*1。人種的マイノリティや性的マイノリティに対する抑圧が現に存在しているからこそ、マイノリティを抑圧から解き放って出世や活躍のチャンスを与える「機会の平等」のレトリックが魅力的に映るのである。逆に言うと、そもそも差別が無い状態であったなら、「天賦の才と決意の許すかぎり出世する」ことを称える能力主義のストーリーにわたしたちが誘惑されることもないのかもしれない。

 

 だけれど、正論はしょせん正論でしかない。

 わたしには、サンデルですら、能力主義のストーリーに含まれる魅力を過小評価しているように思える。

 漫画や映画などのエンターテイメントな物語においては、主人公が時代や環境に由来する様々な障害や逆境にもめげずに、本人の意志と才能と努力を発揮することで活躍して、目標を実現したり夢をつかんだり成功したりする、というストーリーが定番のものとなっている。このストーリー自体は「立身出世もの」などといったかたちで古今東西の物語に見受けられるが、アメリカの映画では主人公が受ける人種的・性的な差別が「障害や逆境」として設定されていることが多い。そして、そのような映画はアメリカ人のみならず世界中の人々を魅了している。

 観客が自分の人生で対峙している問題は映画のなかの主人公が直面しているものとは厳密には異なるかもしれないが、差別に屈せずに自身の能力を活かして道を切り拓く主人公の姿に、観客は感情移入することができる。そのような物語は、実際に多くの人々を鼓舞して、勇気付けているのだ。

 

 差別に抗う能力主義の魅力を描いた作品のなかでも、とくに印象に残るのがディズニーアニメの『ズートピア』だ。

 

ズートピア (字幕版)

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  • 発売日: 2016/07/11
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  動物が二足歩行をして人語を話す世界を舞台にしたこの映画では、現実における諸々の差別を「体の小さな草食動物(ウサギ)に対する差別」や「いつ凶暴になるかわからない肉食動物に対する差別」という架空の設定に置き換えたうえで、差別にもめげない意志を持って努力して自分の能力を発揮することで周囲からも認められて活躍していく主人公たちの姿が描かれている。『ズートピア』は架空の世界を題材にすることで、現実世界の具体的な問題を取り上げた作品よりもさらに普遍的な内容を描くことに成功したのであり、アメリカに限らず世界中の子どもたちや大人たちを共感させて勇気付けたのだ。

 ……とはいえ、わたしは『ズートピア』が劇場で公開された5年前からこの作品を面白いと思いつつもノリきれない気持ちを抱いている。昨年に再視聴したときには、以下のような感想を書いた。

 

もうひとつ、この作品のところどころに垣間見える「ネオリベ」っぽさも気になるところだ。主人公のジュディの特徴が「あきらめない」ことや努力家であるところも、裏を返せば、普通なら他の動物から軽んじられるウサギである彼女が周りから認められたのは彼女の「能力」ありきだ、ということになる。警察署長が就任初日のジュディに交通整理を命じることが悪行のように描かれているが、それも、警察学校を首席で卒業した彼女の「能力」が正当に認められるべきだ、ということが前提となっている。『ビリーブ 未来への大逆転』を観たときにも思ったが、性差別の克服のために能力主義が取り入れられる、というのはなかなか世知辛い話である。

この作品における「多様性」讃歌にも、やはり資本主義と能力主義ありきな雰囲気が感じられる。あるいは、ニューヨークや東京などの現実の都会における「多様性」も所詮は資本と労働力を前提にしたものに過ぎないかもしれない。そういう点ではファンタジックなヴィジュアルからは想像できないほどのリアルさを描けている作品であるかもしれないが、この作品で描かれている価値観を手放しで称賛するわけにはいかないこともたしかである。

 

『ズートピア』 - THE★映画日記

 

 ついでに書いておくと、主人公のジュディが映画の冒頭で「交通整理」の仕事を担当させられる場面が否定的に描かれている点には、アメリカ的な能力主義の悪いところが象徴されている。

 サンデルが批判する「能力主義」とは厳密には メリトクラシー(meritocracy) であり、meritとは功績のことだ。つまり、「ある人の価値は、社会に対してその人が成した功績によってはかられる」という考え方である。そして、メリトクラシーのもとでは、「職業には貴賤がある」という発想は堂々と正当化される。たとえば同じ警察官であっても交通整理と犯罪捜査とでは社会に対する貢献度が違うのであり、だれにでもできる前者に比べて、限られた人にしかできない後者の方が価値のある仕事だ。犯罪捜査をおこなうだけの実力のある警官が交通整理しかさせてもらえないとすれば、その警察官の価値は不当に低くさせられているので、警察官本人は自分の価値を社会に示すために抗議して、交通整理から犯罪捜査へと配属を移してもらうべきである。……ここでは、「交通整理も犯罪捜査も社会を維持するために必要な仕事であるという点では変わりがないのであり、どちらかがどちらよりも大事だということはなく、等しく価値のある仕事である」という発想はないのだ。

 わたしが思うに、子ども向けのアニメ映画のなかですら「職業の貴賎」を描写することは、きわめてアメリカ的な発想にもとづいたものである*2。『実力の運のうち』のなかでも論じられているように、アメリカの知的エリートは、人種的マイノリティや性的マイノリティの権利には敏感で配慮を欠かさないが、(白人)労働者のことはためらいもなく馬鹿にする。わたし自身、個人的な来歴から知的エリートなアメリカ人の言動を身近に見聞する機会があったからこそ、彼らの「職業に貴賎あり」なスタンスには見覚えがある。

 さらに、アメリカ映画においては「田舎」も労働者階級と結び付けられて、バカにされて、否定されることが多い。「本来は能力を秘めている主人公が、機会に乏しく無知で偏狭な人に囲まれた田舎に生まれ育ったために頭角を現せてこれなかったが、都会の大学に合格して引っ越しをすることで夢へと一歩を踏み出す」といったストーリーは、アメリカ映画では定番のものとなっているのだ。たとえば、恋愛映画である『
ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』でも、同性愛者でありアジア系である主人公が田舎から都会へと「脱出」することがオチになっていた。

 

ただし、エンディングは「秀才だけど諸々の事情で田舎でくすぶっていた主人公が、学識や才能を認められて理解者に後押しされて、晴れて都会の大学に進学する」というアメリカの青春映画のテンプレート通りである。メリトクラシーを讃えるアメリカ的な価値観からすれば、ハイスクールの物語がハッピーエンドで終わるには「能力を認められて良い大学に進学する」ことが絶対的であるのだろう。しかし、いつもいつもこういう終わり方になるのにはやっぱり辟易する。移民や同性愛を描きながら「多様性」を賞賛する風味なこの作品ですらも、より根源的なイデオロギーからは抜け出せられていないのだ。

『ハーフ・オブ・イット 面白いのはこれから』 - THE★映画日記

 

 そして、近年では、「差別に抗う能力主義」という発想や都市部の知的エリートの文化をこれでもかとばかりに肯定した映画として『ブックスマート:卒業前夜のパーテイーデビュー』が存在する。

 

theeigadiary.hatenablog.com

 

 サンデルは、能力主義が勝者たちに驕りをもたらしてしまうことは避けられず、知的エリートたちが労働者や田舎をバカにすることも能力主義に必ず含まれる副作用である、と思っているようだ。

 しかし、実際には、わたしやサンデルが問題視していることは能力主義に由来しているのではなく、アメリカという国に特有な要素から生じていることかもしれない。たとえば国内産のビールをバカにして外国産のビールやワインを飲むことがマナーである、といったアメリカのエリート文化は他の国にはないちょっと独特なものであり、その背景には能力主義のほかにももっと具体的で個別的な歴史的・文化的な事情が関わっているだろう*3

 逆に言うと、アメリカ以外の国では、エリートたちはアメリカほどには労働者や田舎をバカにしているわけではない。はてなの匿名ダイアリーでは自称知的階級の人による労働者に対する侮蔑や田舎に対する怨嗟が毎週のように書き込まれているかもしれないが、それだって「チラシの裏じゃないと言えないことだ」という認識があるからこそ、匿名ダイアリーに書かれているわけである。たとえば日本の映画や漫画では「田舎」は肯定すべき暖かな場所として描かれていることが多いし、労働者階級の登場人物はエリート以上に主人公の理解者であることが多い*4TwitterなどのSNSでは田舎に対して否定的な意見が多いが、それはあくまで少数派の意見であって、その意見が新聞やテレビといった主要メディアに反映されているわけではないのだ。

 

 閑話休題

 さて、『ズートピア』にせよ『ハーフ・オブ・イット』にせよ、単純労働や田舎を否定的に描くというアメリカ映画特有の欠点があるわけだが、それでも、これらの映画は面白い

 わたしがこれらの映画について否定的なコメントができるのは、自分自身が異性愛者の男性であり、「自分の属性が原因で、能力を発揮して活躍をする機会が妨げられた」という経験が自分にはあまりないからだ*5。たとえば、日本においてキャリアを志向していたり学問の世界で活躍したいと思っていたりする女性のなかには、諸々の障壁に活躍を妨害された経験があって、不公平感や歯がゆさなどを強く感じながら生きている人も多いことだろう。そのような人たちが『ズートピア』の物語から勇気や元気を得たり、オバマやヒラリーが主張するような「機会の平等」を強調したレトリックに惹き付けられたりすることは、わたしにも想像できるし、共感もできる。

 

 ジョナサン・ハイトとグレッグ・ルキアノフの著書『アメリカン・マインドの甘やかし』では、「結果の平等」と「機会の平等」についてわたしたちが抱く直感の違いについて論じられていた*6倫理学や政治哲学の世界においては「結果の平等」についても「機会の平等」についても同じくらいに筋が通っていて妥当な理論を展開することができるかもしれないが、その理論に対してわたしたちが抱く感覚はだいぶ異なる。わたしたちには「分配的正義の直感」が備わっているからだ。

 

分配的正義の直感とは、「人々はそれぞれが払った労力や努力に応じた報酬を手に入れるべきだ」というものだ。頑張って成果を出している人は報いられるべきであり、努力せず成果も出していない人たちは他の人たちと同じだけの報酬を手に入れるべきではない、という直感は、子どもでも身に付けている。

この直感は自分自身にも向けられるのであり、たとえば給料が過剰に多く支払われてしまったら「その給料に見合うだけの努力をしなきゃ」と頑張ってしまうのが、人間というものなのだ。また、労力を払っているのに充分な報酬が得られていない人がいれば、その人が正当な報酬を得ることを、自分が余分な報酬を得ることよりも優先する。そして、この直感が「不当に得している」と見なされる人に対して向けられたときには、その相手に対して強い反発が抱かれてしまうことになる。

アファーマティブ・アクションとクオータ制が支持されない理由 - 道徳的動物日記

 

 わたしたちが「分配的正義の直感」を自然に身に付けているとしても、その直感が正しいものであったり倫理的に肯定されるものであるとただちに結論付けようとすると、自然主義的誤謬になってしまうだろう。しかし、能力主義のレトリックやそれを反映した映画のストーリーが魅力的である理由は、それがわたしたちの直感にかなうものであるからかもしれない。とすれば、理屈のうえでいくら否定したところで、能力主義を社会から排除することは難しいであろう。

 たとえばネオリラベリズムだとか社会ダーウィニズムだとかの政治的イデオロギー能力主義をもたらしているとすれば、論争によってそのイデオロギーの力を弱めさせることで能力主義を社会から取り除くこともできるかもしれない。だが、能力主義イデオロギーよりも根深い感情のレベルに由来するものであるとすれば、表面上の議論をなんとかしたところで根本の問題に対処することはできないのだ。

 

 この記事の冒頭でも書いたように、サンデルが能力主義が驕り・侮蔑・屈辱などのネガティブな心情を人々にもたらすことを批判している。

 しかし、前回の記事でも言及したように、たとえば勝者たちの感じる「誇り」などのポジティブな感情については、サンデルは意図的に無視しているように思える。また、彼は市民たちに「共通善」を教育することで勝者たちに「謙虚さ」を身に付けさせることができると論じていたが、その議論は現実味のない綺麗事であるというきらいが強いものであった。

 

 意志を持って努力をして、自分の能力を発揮することは、その人の人生に活力を与えることでもある。結局のところ、勝者は敗者よりも幸福だ。その幸福は、競争の結果として得られる資産や社会的地位だけからではなく、競争に勝ち抜くこと自体や、勝ち抜くために能力を発揮したり努力をしたりすること自体から訪れるものであろう。

 サンデルは、現代の能力主義は勝者たちに「自分の成功は、運の良さや他の人々の助力のおかげではなく、自分自身の意志や才能や努力によるものである」と思わせることを批判していた。この批判自体はとくにオリジナリティのあるものではなく、現代の「ネオリベ批判」や「自己責任論批判」などにおいては定番のものでもある*7

 たしかに、この批判は間違ってはいない。……しかし、正確に言えば、ある人が成功する背景には、運や他の人々の助力といった外部的な要因と意志や才能や努力といった内部的な要因の両方が関わっているものであるだろう*8。どちらの要因をどれだけ強調するかは程度問題といったところもある。そして、「自分の成功は自分の力によるものである」と信じやすい人は、そうでない人よりも成功しやすくて、自己肯定感を抱いて幸福に生きられやすいという点も、見逃すべきではないのだ。

 

『実力も運のうち』は政治哲学の本ではあるが、第5章でロールズハイエクが批判的に取り上げられる点をのぞけば思想家や哲学者の主張が紹介されることはあまりない。アリストテレスについても、「共通善」を主張するくだりで肯定的に言及されるくらいだ。しかし、サンデルは公正や正義などの「正」の問題に関する主張だけでなく価値観や心情などの「善」に関する主張についても積極的に展開しているのだから、彼はアリストテレスのような哲学者たちが徳や幸福について論じた主張も紹介するべきなのだ。

 たとえば、このブログでも以前に紹介したリチャード・テイラーの『卓越の倫理』では、古代ギリシャの哲学者たちの幸福論とはエリート主義的なものであったことが示されている。

 

 …古代の哲学者のほとんど誰も疑問に思わなかった「ある種の人々は他の人々より本当に優れており、したがってより大きな値打ちがある」という信念がなかったとしたら、アリストテレスの重要な特徴が失われてしまうであろう。まことに、これこそ「気概」という観念自体に内在しているものなのである。アリストテレス以上に気概の倫理を見事に表現している道徳哲学などないのだ。

古代の道徳学者たちが考えていたように、道徳哲学の目的が「人間の自然本性」についての理想を描き、その実現への道筋をつけることであるとするなら、「賢者も愚者もみな等しく理想に到達できる」と想定するのはほとんど不可能である。事実はその反対であって、「少数の人を除けば、どのような人でもいずれは理想に到達できる」などということはなさそうだ。だから、理想を実現した人は理想を実現できなかった大多数の人々よりも文字通り「より善い」のである。このような前提なしに古代の道徳哲学者たちを理解しようとするのは、義務の観念を削除してカントの道徳哲学を理解しようとするようなものである。

 

このようなエリート主義、すなわちアリストテレスが価値ある人々とそうでない人の間にはっきりとした不公平な区別を設けたことは、決して気まぐれではないし特異な嗜好でもない。これと同じようなことは、「奴隷と友人になれるか」ーーアリストテレスによると奴隷とは「生きた道具」にすぎないーーという難しい問題をやや苦心しながら論じた箇所で繰り返されているし、アリストテレスが真の友人関係は比較的少数の「善き」人々、つまり「個人の卓越」の厳格な水準に達した人々の間でしか成り立たないとしている箇所にも見られる。まさしくエリート主義はアリストテレスの倫理概念全体に固有なものなのである。

(p.110 - 111)

『卓越の倫理:よみがえる徳の理想』

 

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 また、ジュリア・アナスの『徳は知なり』では、テイラーに比べれば現代人にも受け入れやすいマイルドで穏当なかたちでアリストテレスの徳倫理学が解釈されているが、それでも、「ある人が幸福に生きるためには、当人の意志や才能や努力が欠かせない」ということが論じられていた。

 

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 現代の能力主義に代わるものとしてサンデルが提案する「共通善」とは、『実力も運のうち』ではその中身が曖昧にごまかされているが、あきらかにキリスト教的なものである。たしかに、キリスト教道徳は弱者に優しいものであるかもしれない。しかし、だからこそ、ニーチェによって「ルサンチマン道徳」と批判されたわけでもある。テイラーは徳の倫理とルサンチマン倫理を対比させて論じたが、能力主義を批判して共通善を主張するサンデルの議論では、その構図が奇しくも再現されているのだ。

『実力も運のうち』の発売前から、SNSの一部では、「サンデルは日本のインターネット論客と同じことを言っている」という話題が盛り上がっていた。それは与太話や悪ノリと断じて切り捨てられるものでもなく、たしかに一面の真実を突いている。実際のところ、日本のインターネットで展開される幸福論や倫理論とはルサンチマン的なものであり、うだつがあがらなくて後ろ向きに生きている凡人たちの気持ちに寄り添う主張を展開しているからこそネット論客たちは人気を博していると言えるだろう*9*10。サンデルの議論も、ネット論客たちが行なっているものに比べるとずっと丁寧で生産的なものではあるとはいえ、弱者のルサンチマンに寄り添ったものであることには変わりない。

 だからこそ、わたしはサンデルの議論に対して「こんなことばっかり言っていても、ほんとうにみんなを幸福することにつながるのか?」という疑問を抱かずにはいられない。彼が能力主義がもたらすネガティブな心情ばかりをことさらに取り上げて、誇りや幸福といったポジティブな心情を意図的に無視していることには、読者の気持ちを慰撫するほかには意味がないように思えるのだ。

 

 たしかに、所得の格差や経済的な不平等が人々の心身に悪影響を与えて不平等をもたらすことは様々に指摘されており、それを改善することは必要だろう。だから、たとえばロールズ福祉国家リベラリズム(平等主義リベラリズム)の主張にはわたしも賛成する。しかし、サンデルが展開する主張の対象は再分配や平等などの制度的なものを超えており、市場における競争の存在や、強者が活躍して幸福になること自体を否定したがっているように見えるのである。

 ……だが、意志や努力や才能の力を信じて「自分の人生は自分で切り拓くものだ」という考え方をして自己肯定感を得ることは、強者にとってだけでなく弱者にとっても、幸福になるためには欠かせないことであるだろう。彼らが現に劣等感や敗北感を抱いているからといって、それに寄り添うことがただしいとは限らないのだ*11

 

*1:単純に「アメリカは差別の問題が他の国よりも多くて深刻である」と言ってしまうこともできるが、あえてこういう書き方にした。

*2:たとえば日本のアニメ映画だったら、前半で交通整理の仕事をさせられたことで得た技術や発想が意外なかたちで役に立って後半で事件を解決するきっかけとなる……といった展開にすることだろう

*3:

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*4:さいきん流行っている『呪術廻戦』では田舎がけっこうdisられているんだけれど、それは例外として置いておこう。

*5:人種の問題について話し出すとちょっと面倒なのでノーコメント。

*6:

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*7:

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*8:「意志力」や「努力する才能」の有無も生得的に分配されているから究極的にはすべて運の良し悪しの問題だ、と主張する人もいるが、その主張はあまりに不毛に過ぎる。

*9:インターネットには「幸福という概念の引き下げ」という傾向があることは、以前の記事で論じている。

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*10:ただし、ネット論客の議論とは「マジョリティのなかの弱者」のためのものである、という点には留意するべきだ。

*11:サンデルは「現在の社会で弱者が屈辱の気持ちを抱いているのは能力主義イデオロギーを内面化しているからであり、能力主義がなくなりさえすれば彼らも屈辱を抱かずに自分を肯定することができるようになる」と考えているようだ。しかし、彼の主張が心理学的に正しいものであるかどうかは疑わしい。たとえば、イデオロギーと関係なく、「人間はついつい自分と他人を比較してしまうものであり、自分よりも所得や社会的地位が高い人の存在を見聞するとストレスを感じてしまうものである」という事実はよく指摘されている。このことは、所得や資産の(過大な)不平等を是正することを肯定する論拠とはなる。しかし、能力主義そのものを否定する論拠になるかどうかは、また別の話なのである。