道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

サンデル教授の「大学入試くじ引き論」

 

 

 

『実力も運のうち』の第六章「選別装置」で、サンデルは以下のような提案をしている(太字部分は強調のためにわたしがつけたもの)。

 

 四万人超の出願者のうち、ハーバード大学スタンフォード大学では伸びない生徒、勉強についていく資格がなく、仲間の学生の教育に貢献できない生徒を除外する。そうすると、入試委員会の手元に適格な受験者として残るのは三万人、あるいは二万五〇〇〇人か二万人というところだろう。そのうちの誰が抜きん出て優秀かを予測するという極度に困難かつ不確実な課題に取り組むのはやめて、入学者をくじ引きで決めるのだ。言い換えれば、適確な出願者の書類を階段の上からばらまき、そのなかから二〇〇〇人を選んで、それで決まりということにする。

(p.266)

 

  サンデルがこのような提案をする根拠のひとつは、「受験者である若者たちの学術的才能を正確に測る方法なんて存在しない」ということである。明らかに優秀な受験者たちと、それに比べると劣る若者たちとの間には違いが存在するだろうが、トップレベルの受験者たちの違いを見極めて公平にランキングして、入学できる2000位以内までと入学できない2001位以降を確実に選り分ける、ということは土台不可能であるのだ。

 しかし、不可能であっても、現状の大学入試は「公平で正確に、受験者たちの能力を適切に測って、ランキングしている」という建前を捨てることはできない。すると、合格した若者は「わたしの能力が優れていることと、がんばって努力したことのおかげで、トップの2000位に入れることができたんだ」という認識を持つことになる。逆に、不合格になってしまった若者は、「自分の能力や努力が足りなかったから、トップの2000位から漏れてしまったんだ」と思ってしまう。大学入試という制度には曖昧さや運の要素が存在しているはずなのに、建前としては公正で確実な制度であると言い張っているために、合格者には慢心や優越感を、不合格には屈辱や劣等感を与えてしまうのだ。

 それならいっそ大学に合格するかどうかをくじ運に任せることで、曖昧さや運の要素が含まれるということを白日の下に晒すべきだ、というのがサンデルの主張だ。

 

しかし、適格者のくじ引きを支持する最も説得力ある根拠は、能力の専制に対抗できることだ。適格性の基準を設けて、あとは偶然に任せれば、高校生活は健全さをいくらか取り戻すだろう。心を押し殺し、履歴を詰め込み、完璧性を追求することがすべてとなってしまった高校生活が、少なくともある程度は楽になるだろう。能力主義によって膨らんだ慢心をしぼませる効果もある。頂点に立つものは自力で登り詰めたのではなく、家庭環境や生来の素質などに恵まれたおかげであり、それは道徳的に見れば、くじ運がよかったに等しいという普遍的真実がはっきり示されるからだ。

(p.267 -268)

 

 日本でいうところのAO入試の要素も強いアメリカの名門大学の受験システムは、ペーパーテストと人物評価の両方が課されるため、受験する高校生たちは生活のすべてを大学受験に合格するという目標に注ぎ込むことになる。寝る間を惜しんで勉強するのはもちろんのこと、面接や小論文で語る題材にするために、ボランティアやスポーツなどの課外活動をしたり海外経験を積んだりしなければいけない。一度きりの青春時代が、競争のために犠牲にさせられているのだ。

 大学受験という輪くぐりに成功したあとも、その成功体験は強迫観念となり得る。サンデルは自分の教え子たちが輪くぐり依存症になっていることを指摘している。彼らは、大学に合格してからも「もっと競争しなければならない」「努力を続けて、自分の能力を社会に対して示さなければならない」と思い込み、心身を削り続けているのだ。

 

能力の戦場で勝利を収める者は、勝ち誇ってはいるものの、傷だらけだ。それは私の教え子たちにも言える。まるでサーカスの輪くぐりのように、目の前の目標に必死で挑む習性は、なかなか変えられない。多くの学生がいまだに競争に駆り立てられていると感じる。そのせいで、自分が何者であるか、大切にする価値があるのは何かについて思索し、探求し、批判的に考察する時間として学生時代を利用する気になれない。

 (p.260)

 

 現代の学生は成績評価に過剰にこだわり、基準が曖昧な科目は敬遠する。また、文系の学生であっても、サンデルが教えているような哲学や政治思想の授業を敬遠して、より実利的なことを教えてくれる授業ばかりを選択するようになっている。いまの若者は自分の能力の糧となり、結果につながるようなことしか勉強したがらない。

 人文学とは「そもそも自分がこんなにがんばって追い求めるものはどんな価値があるんだろう?」とか「自分はいったいどのように生きるべきなのか?」といった自己批判と価値の探求につながるものであるが、「努力して、能力を発揮して、結果を出す」という行程を繰り返すことにしか興味のない若者たちにとっては、自己批判や価値の探求は役に立たないどころか足を引っ張るものでしかないのだ。

 社会の支柱となるべきエリートの卵たちがこんな体たらくなのだから、アメリカでは価値に関する議論が行われることがなくなって、禅に関する共通の認識も失われて、政治においてはテクノクラシーが蔓延するし市民たちも実利と数字でしか物事を判断しなくなって民主主義とか社会の連帯とかが失われて……云々、というのがサンデルの主張だ。

 

 人文学の価値を主張するサンデルの議論はあきらかにナイーブなものであるし、説教臭く、牽強付会な感じもある。とはいえ、実はわたしもそういうナイーブな人文学観を抱いているので、彼の議論に賛成だ*1

 また、受験という制度が若者たちの心情に与える影響についてのサンデルの議論にも、わたしはかなり同意している*2。受験競争に勝ち抜いた若者たちが「輪くぐり依存症」になってしまうこと、本来は曖昧で運の要素も大きいはずの受験制度が人間として能力や価値を図る絶対的にでブレのない指標として扱われてしまっていることは、アメリカだけでなく日本にも当てはまるはずだ。人物評価の要素が少なくペーパーテストの要素が強い日本の受験制度は、アメリカのそれに比べるとまだしも公平に見えるかもしれないが、表面上の公平さが強ければ強いほどそれに勝ち抜いたものの優越感や慢心と負けてしまったものの劣等感や屈辱は強まってしまうものである。

 日本における「受験」をめぐる言説にわたしはとことんうんざりしているので、ぜひとも、大学入試くじ引き論は日本でも盛り上がってもらいたい*3

*1:

s-scrap.comサンデルの議論はヌスバウムによる人文学擁護論とかなり近い。

*2:

davitrice.hatenadiary.jp村上春樹が日本の「超エリート」について述べている箇所は、サンデルによる「優秀な若者たち」についての議論と共通するところがあるだろう。

*3:

note.com