道徳的動物日記

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「徳」とアイデンティティ(再読メモ:『IDENTITY:尊厳の欲求と憤りの政治』)

 

 

 

 以前にもこのブログで何度か扱ってきた本なので、簡潔にメモ。

 

・女性が同一賃金を求める理由について「メガロサミア(優越願望)」の観点から説明しているところや、「収入」と「尊厳」はかたく結びついているために、雇用喪失に対する解決策としてのベーシックインカムが実現しても人々が幸福になるとは限らない(仕事によって得られるのは財産だけでなく、社会的に価値のある何かをしているという承認欲求も含まれているから)と指摘している点は、言われてみれば当たり前の話でもあるけれど、おもしろい。メガロサミアが生物学的なものである点を指摘しているあたりは、サンデルの議論よりも優れている。

 

・下記の部分も、安直で耳触りがいいだけな「能力主義批判」とは一線を画すものだ。

 

〔「自尊心と個人の社会的責任を促進するカリフォルニア特別委員会」の報告書に関して〕

 

しかしこの報告書には大きな矛盾が見られ、その矛盾はアイソサミアとメガロサミアの根本的な緊張関係を反映している。報告書では、一人ひとりが創造的で有能な内なる自己を持つと主張されている。価値判断を押しつけるのを避けようと、報告書は自分を他の人と比べるべきではなく、自分はほかの人の基準で判断されるべきではないと報告する。しかし報告書の作成者たちは、たちまち問題に直面する。われわれが祝福する内なる自己は、残酷だったり、暴力的だったり、自己中心的だったり、不誠実だったりするかもしれない。あるいは単純に怠惰で浅はかかもしれない。自尊心があまねく認められる必要があると説いたあと、報告書はその自尊心には「社会的責任」と「他者への尊敬」も含まれていなければならないとして、犯罪が起こるのはそれを欠いているからだと論じる。そして、自尊心の中身として「性格の高潔さ」を重視する。そこに含まれるのは、「誠実さ、思いやり、規律正しさ、勤勉さ、威厳、忍耐力、献身、寛大さ、やさしさ、勇気、感謝の気持ち、気品」といった徳である。しかしだれもがこのような徳を持っているわけではないので、ある人はほかの人よりも尊敬を受けるに値することになる。強姦者や殺人者を高潔な市民と同じように尊ぶことはありえないからだ。

自尊心は具体的な社会ルールに従う個人の力、つまり「徳」を持つ力に基づくというこの見解は、人間の尊厳についてのきわめて伝統的な理解である。しかしだれもが有徳なわけではないので、この理解は、すべての人の本質的価値を認めるべきという報告書の考えと衝突する。これはアイソサミアとメガロサミアのあいだに内在する緊張関係を示してもいる。メガロサミアは、野心的な人間のうぬぼれをただ反映しただけでのものではなく、高潔な人間が当然の成り行きとして持つものでもあるなかには、ほかの人よりも価値が低いとみなされなければいけない者がいる。実際、他の人に対して悪いことをしたときに恥を感じられなければ、つまり自尊心を低めることができなければ、他者への責任を引き受けることはできない。それでも特別委員会の報告書では、箇条書きでふたつの相反することが続けて勧められている。州の教育制度は「教化ではなく解放に力を尽くす」のと同時に「責任感ある性格と価値観を促進する」べきだというのである。リベラル派の委員が包摂性を広げようとする一方で、強硬な保守派の委員はそれが社会秩序に与える影響に懸念を示し、今度はリベラル派が「自尊心を高めるには一方的な判断を押しつけてはいけない」と反論する、そんなやり取りが聞こえてきそうだ。

(p.135-137、強調は引用者による)

 

・本書におけるフクヤマの結論は、「アメリカはプロテスタント的な労働倫理や徳の理念に基づくナショナル・アイデンティティに基づいて、ふたたび国民を統合すべきである」といったものだ。これ自体は、アイデンティティ・ポリティクスに対する処方箋としてはスタンダードなものであり、「共通善」に基づく統合を主張するサンデルもほとんど同じような議論をしていると言える。しかし、能力主義を批判するがゆえに「徳」については言及せず、またプロテスタント的な労働倫理がメリトクラシーをもたらす可能性を警戒するサンデルの議論に比べると、「徳」が含む選良主義や排他性を指摘しながらもそれでも「徳」の必要性を強調するフクヤマは、より現実的で正直な主張をしているように思えるのだ。

 

マズロー的な「自己実現」を称賛する文化と宗教の衰退が相まって「セラピー的な道徳」が生まれて、「社会」や「他者」を抜きにして「自分」のことばかりを考えるナルシシズム的な幸福感が蔓延したこと、ファシズムにせよマイノリティによる大学カリキュラムの書き換え運動にせよこの種のナルシシズムが背景に存在する……という議論は、やや説教くさく保守的ではあるが、覚えておくに値する。まったく別の切り口からマズロー的な幸福の「自己中心性」を指摘したダグラス・ケンリックの『野蛮な進化心理学』とも共鳴するところがあるかもしれない。

 

・「(労働者として階級的利益に基づいて)目覚めよ、団結せよ」というメッセージは、宗教や民族主義ナショナリズムに「誤配」されがちである、という議論。これはもちろんポピュリズムに当てはまるだろう。貧困であることの苦痛は、経済的なものというよりも他者との比較で生じる屈辱などの実存的なものであるところのほうが大きい、というのがその理由だ(宗教や民族主義は実存的な苦痛から救ってくれるのだ)。

 

・「生きられた経験」への着目がアイデンティティの分裂につながった、という点も覚えておきたい。

 

フクヤマは、師匠であるハンティントンとはちがい、移民でってもアメリカの理念やプロテスタント的な労働倫理に共鳴して同化することはできるし、不法移民であっても(奉仕活動を義務付けてほかの市民たちの反発を抑えることなどは必要とされるが)帰化させてアメリカの市民として包含することが重要である、と説いている。