道徳的動物日記

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リベラルが「分裂」する理由(読書メモ:『リベラル再生宣言』)

 

 

 マーク・リラの「アイデンティティリベラリズム」論についてはトランプ当選直後の記事を自分で訳した*1。『リベラル再生宣言』も以前に図書館で借りて読んだことはあるが、メモを取るために、改めて読んでみた。

 ブックレットのように小さくて短い本ではあるが、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」に関する諸々の問題や異常さがうまく指摘されて表現されている。のっけから長文の引用となるが、以下の指摘は、現在の日本にもがっつり当てはまるものだろう。

 

キャンパス内のリベラルが個人のアイデンティティだけに固執するようになると、彼らは理詰めの政治的議論をしたがらなくなる。過去一〇年くらいの間に、断定的で反論を認めないような話し方をする人が増えてきている。「Xの立場で言えば、〜」という言い回しははじめのうちは大学の中だけだったが、やがて主流のマスメディアにもそうした話し方が入り込んだ。Xとして意見を述べるというのは、一見、謙虚なようだが、実はそうではない。Xとして発言すると言えば、聞き手に対し、「私は特権的な立場から発言する」と告げたことになるのだ(たとえば、「ゲイのアジア系の立場で言うと、私はこの問題について判断するには不適任なんじゃないかな」という発言はありえない)。自分の意見に対する疑義を跳ね返す壁を築いているのである。自分の意見に疑義があるのは、すなわち、その人はXという立場にいないということなのだから、聞く必要はないというわけだ。どの立場で話すかは、議論での力関係を決める。道徳的に上であると思われるアイデンティティを使い、また疑問を呈された際に最も激しく怒った者が議論の勝者となるのだ。たとえば教室での議論なら、過去には誰かがまず「私はAだと思う」と言い、その後、互いに自分の意見を言い合う、という流れになったはずである。今はそうではない。Xの立場で意見を言った人は、たとえば誰かがBという意見を言っただけで、それを自分への攻撃だと受け取り、怒り出す。アイデンティティがすべてを決めていると信じているのだとしたら、意見に反論されて怒るのは当然である。アイデンティティを否定されたのと同じだからだ。これでは偏りのない公平な対話の余地はどこにもないことになる。白人の男性には白人の男性の認識があり、それは黒人の女性とは違っている。それに対して何を言えばいいというのか。

他人に意見を変えさせようとするのはタブーにすらなっている。誰もが特権的な立場で話をし、誰も人の話を聞かないキャンパスにいると、宗教に支配された古代世界にような気分にもなる。どの問題についても、それについて話すには、話すのにふさわしいと皆が認めるアイデンティティを持っている必要がある。適切なアイデンティティを持つ者だけがシャーマンのように言葉を発することができる。アイデンティティは古代社会の「トーテム」にも似ているだろう。重要性を持つトーテムはその時々で変わるーー現在ならたとえば「トランスジェンダー」かもしれない。保守の人が議論の場にいれば、即座に見つけ出され、「生贄」のように扱われる。そして排除の儀式を受け、キャンパスから逃げ去ることになるのだ。意見が正しいか誤りかではなく、純粋か不純化が問題にされる。それは意見の内容のみならず、意見を伝える言葉についても同じだ。自分たちが過激であることを知っている左派のアイデンティタリアンたちは、反論を受けた時、それに打ち勝つために、あえて堅物のプロテスタントの女性教師のように振る舞う。相手の発言の中に下品で不穏当な言葉がないかを探し、もし、うっかりそういう言葉が使われていることを発見すれば、ここぞとばかりに叩くのだ。

(p.97 - 98、強調は引用者による)

 

・『IDENTITY』を執筆したフランシス・フクヤマと同じく、マーク・リラも、1960年代以降に文化がどんどん個人主義的なものになっていたことからアメリカ人たちの関心は「私たち」から「私」にへと狭められていった、と指摘している。フクヤマに比べるとリラの議論には思想史的な要素は薄いが、個人の感性とアイデンティティを絶対視する「政治的ロマン主義」に問題の原因を見出すあたりは、フクヤマの議論と近い。また、一九六二年に学生運動の闘士たちが執筆した「ポートヒューロン宣言」に含まれている、「人生の意味」に関する実存主義的なアジテーションについて、「たしかに人を鼓舞する力を持った文章であるかもしれないが、このときに問題になっていたミシシッピ州における参政権と"人生の意味"は何の関係もないし、ここでこの宣言をする意味は不明だ」とツッコミを入れているくだりはジョセフ・ヒースの『反逆の神話』っぽい*2

 

・「個人的なことは政治的なこと」というスローガンはフェミニストだけでなく新左翼も用いていた。そして、このスローガンは「個人的に見えることは、実はすべて政治的であり、生活の中のどの部分も、権力を求める闘争から自由ではいられない」というふうに解釈することもできれば、「私たちが政治的な行動だと考えていることは、実はすべて個人的な行動であり、自分を表現し、自分を規定する行動にすぎない」と解釈することもできる。そして、後者の解釈が普及して活動家たちが「政治的な活動は、個人としての自分のアイデンティティの反映である」と考えるようになったことで、左派の運動は深刻な分裂を抱えるようになった。

 

どの集団も、社会正義の実現と戦争の終結以上のことを政治に求めるようになったのだ。もちろん、社会正義の実現もベトナム戦争終結も求めていたが、それだけではなかったのである。誰もが、自分の心の中の自分と、外側の世界での自分の差を完全に埋めたいと願った。また、そのために、自分たちが個人として理解していること、そして個人的として定義している自分が正しく反映された政治運動を求めた。自分の認識している自分を他人にも認識してもらいたいと望んだ。社会正義運動は、そのような認識を約束しなかったし、実際それをもたらすこともなかった。

(p.83)

 

健全な政党政治が行われている時には、そこに求心的な力がはたらく。複数の派閥があっても、少しの利益の対立があっても、皆が共通の目標、一つの戦略のために力を合わせて動くことができる。多くの人が共通の利益のために考えるし、共通の利益のために、行動しないまでも何か発言をするようになる。ところが政党外の運動が中心の政治では、遠心的な力がはたらくことになってしまう。つまり、関わる人たちが次々に小さな派閥に分裂していってしまうのだ。どの派閥も小さな一つの問題に固執する。どこも形式、イデオロギーの違いにとらわれ、他よりも少しでも優位に立とうと懸命になる。

(……中略……)

新左翼は、民主党の一体化には貢献しなかった。また、アメリカの将来についてのリベラル共有のビジョンを作ることにも貢献していない。関心はゆっくりと、問題ごとの運動から、アイデンティティごとの運動へと移り変わっていった。アメリカのリベラリズムの焦点は、皆の共通点から差異へと移ったのだ。全体を見渡す政治的ビジョンの代わりに現れたのは、擬似政治とでも呼ぶべきものだった。自分自身の姿を認識し、その姿を他人にも認知させるために闘うという、アメリカ独特の論法が広まっていった。結果として生じたものは、レーガンの「個人を優先し、個人の利益を追求する」という反政治的な論法とほとんど差がなかった。ただ、あれほどには感傷的でなく、偽善的でもなかったというだけだ。

(p.84 - 85)

 

『リベラル再生宣言』の冒頭では、アメリカの民主党のウェブサイトには "People(人々) "と題されたリンクのリストが載っていて、女性・アフリカ系・アジア系・ヒスパニック・LGBTネイティブアメリカンなど合計で17のアイデンティティ集団ごとにそれぞれに向けたメッセージを発信するページが用意されているが、「アメリカの将来はこうあるべき」というビジョンを示すページは存在しない、ということが指摘されている(共和党のウェブサイトでは、アメリカが直面する課題とそれに対する共和党の考え方を明らかにした文書が強調されている)。

 

change2021.cdp-japan.jp

 

 日本で立憲民主党が「この国に生きるすべてのあなたへ」のウェブサイトを発表したときには、わたしのTLにも『リベラル再生宣言』のことを言及していた人が何人かいた。けっきょくその後の選挙で立憲民主党はまたもや敗北を喫したことをふまえると、アイデンティティごとに「分割」したメッセージを発信するというのは、そのメッセージがストライクする一部の人にとっては感動的であるかもしれないが、選挙や政治における戦術や戦略としては悪手であるのだろう。

 

・リラやフクヤマ、ヒースにジョナサン・ハイトなど、「アイデンティティ・ポリティクス」を批判する論者はいずれも「共通の文化」または「共通の利益」に基づいてマイノリティを「同化」させて左派を「統合」することが重要である、という旨の主張を論じている。統合や同化という発想そのものが左派のそれとは相反する部分があるとしても、単純な問題として、それをしなければ左派は右派に負け続けて、アメリカがどんどんひどい場所になっていき、結局のところマイノリティは余計に苦しむことになるからだ(これらの論者の誰もが、トランプ政権やそれ以前の共和党政権について批判的であることを忘れてはならない)。

 アイデンティティ・ポリティクスの「原因」については、ハイトやヒースのように「部族主義バイアス」という(進化)心理学的な要素に基づいて説明することもできれば、リラやフクヤマのように「社会の個人主義化」という文化的な要素に基づいて説明することもできるだろう。もちろん、これらの説明は相反するものではなく、社会に生じた文化的な変化が人間の生来の心理を悪化させる環境を作り出した、と論じることもできる。