道徳的動物日記

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「どこに投票したか」に対する批判は許されないか?

 

 投票日から一ヶ月くらい経ってしまったが、思うところあって雑感をいくつか。

 

・ここ数年間の選挙では、右派が多くの議席を獲得して左派は大して議席を獲得できない、という結果になることが定番だ。自民党は毎度のように圧勝するし、大阪は相変わらず維新の党が強い。アメリカの大統領戦でトランプが勝利した時の衝撃は記憶にあたらしいだろう。また、今回の選挙で議席を獲得した「NHKから国民を守る党」は、党首の立花考志の過激で暴力的な言動から、右派左派以前にテロリズムやカルト化の危険性が指摘されている。

  選挙結果が出るたびにはてブTwitterなどで話題にあがるのが、「なぜ左派やリベラルは負けたのか」というタイプのブログ記事やTogetterまとめなどなどだ。それらの記事で書かれるのは毎回同じようなことで、「左派は経済をわかっていないからだ」「労働者や貧困層の現実をわかっていないからだ」「護憲やフェミニズムなどのイデオロギーに凝り固まっているからだ」という指摘がされていることが多い*1

 これらの記事で論じられる「左派が負けた理由」には、一理あることもあるだろうが、個人的な体験や感情を一般化した、根拠のないものであることも多い。ネットの世界には隙あらば左派に関する悪口を書きたいというタイプの人が多々いるし、「水に落ちた犬は打て」式の溜飲を下げるためだけの条件反射的に書かれた、内容のない記事も多い。匿名ダイアリーやTogetterで書かれた記事に比べれば個人ブログで書かれる記事はより考えられていて内容にも誠実性があるだろうが、それでもデータや学識に基づいたものは稀であり、所詮は自分が左派や各政党に対して抱いている感情から類推して書かれたものに過ぎない。「左派が負けた理由」を分析しているというテイであっても、そこで分析されている「理由」が正確なものであるという保証もないのであり、左派にとってもこれら有象無象のネット記事を読んだところで選挙戦略で何かの役に立つということはほとんどないだろうと思われる。

 

・上記の左派批判とは別に、選挙後によく見かけるありがちな主張としては「選挙に行け、投票しろ、と言っていたくせに自分の支持政党と違う政党に投票されると批判するのは不当だ」みたいなタイプの主張だ。 たとえば、以下のようなもの。

 

 

 また、「選挙結果を批判するのは民主主義の否定だ」とか「人が考えたすえに行った投票を批判するべきでない」などの主張もよく見かける。「どこに投票するか」は個人の自由に委ねられる神聖なものであり、他人がそれについて批判することは許されない、という考え方はかなり強く広まっているようだ。

 一般的に、選挙における投票というものは自分で考えたすえに自己利益に基づいて行うものであることは確かだ。法的や政治的には、民主主義社会では「自分な好きなところに投票する権利」が保証されているものであり、「自分は権利を正当に行使しただけなのに、なぜ投票先について批判されなければならないんだ」という気持ちもわからなくはない。

 だが、私が以前に訳した記事倫理学者のジョセフ・ボーウェンが論じていたように、「選挙権を持つということは、ある程度の政治的権力(どんなに小さなものであったとしても)がそれぞれに市民に与えられるということだ。そして、その政治的権力は当人自身に対してだけ発揮されるのではなく、他の人に対しても発揮される」。…つまり、法的には「自分な好きなところに投票する権利」が保証されているとしても、その権利を行使した結果は他者にまで及んでくる。そして、影響を及ぼされる他者がその行為について論じたり批判したりすることは許されない、というのもおかしな話だろう*2

 たとえば、その政党が議席を獲得したら他者に危害を及ぼすことが明らかである時にその政党に投票するなら、批判される覚悟は必要になるだろう。「自分の状況が非常につらく、その状況を解決してくれそうな政党が、他人に危害を及ぼす政党くらいしかない」という場合にはその投票も倫理的に正当化されるかもしれないが、それにしても、「自分の状況のつらさ」の度合いと「他者に及ぼす危害」の度合いを比較する程度問題になってくるだろう。もちろん、自分の状況が大してつらくないのにヘイトやコンプレックスから他者に危害を及ぼす投票行動をするのは論外である。また、短期的には特定の人々には危害を与えないとしても、民主主義や法治制度を毀損することで長期的には人々に危害を及ぼす政党への投票行為も、批判の対象となるだろう。

 白紙投票や棄権、単に投票を怠るなどの「投票しない」投票行為も、批判の対象となる。たとえば、候補となっている全ての政党が当選したら他者に対して何らかの危害を及ぼしてしまうという状況であっても、それぞれが及ぼす危害には程度の差があるはずだ。自分が投票すれば危害の程度が少ない政党に議席を獲得させることができたかもしれないのに、投票しないことによって危害の程度が大きい政党が議席を獲得してしまうかもしれない。そのような場合には、「行為しない」という行為によって他者に及ぼす危害を増大させているのと同じことになる。倫理的な責任を怠っているとして批判されても仕方がないだろう。

 自己利益や他者への危害について深く考えずに浅はかな判断で投票してしまい、自分の想定していた以上に利益が得られず他者への危害が増えてしまった、という場合ももちろんダメである。投票するなら、ある程度以上の合理的な思考をはたらかせて判断することも倫理的責任として求められるのだ。

 …という風に、法的権利としての「自分の好きなところに投票する権利」にとどまらずにその権利の行使に関する倫理的側面を考えていくと、自分が「どこに投票したか」(「どこにも投票しない」「どのように投票したか」)が批判の対象となることは当然であるかもしれない。

 

・上述したような主張は規範論(「べき」論)であり、たとえば選挙に関心がない若者やカルト政党に投票した人々などに対して上記のような主張を行なっても説教がましく思われるだろうし、その人の投票行為を変えられないことも多いだろう。倫理的には人々の投票行為は批判の対象となるとしても、戦術的には批判しない方がよい、という場合はいくらでも有り得るだろう。

 しかし、特にネットでの政治に関する議論を見ると、規範的な議論と戦術面での議論を混合している場合がかなり多い。戦術の良し悪しばかりに注目して、規範の部分がおざなりにされてしまっている場面もよく見かける(左派を批判しようとする人々が「左派の主張の不正さ/右派の主張の正しさ」を論じるのではなく「左派の戦術の悪さ」をあげつらう、というのが典型だ)。また、「批判しないほうが戦術的によいから」という理由で若者や特定層の政治に対する無関心を助長させたり、非合理的で非倫理的な投票行為を看過し続けてしまったという側面もあるかもしれない。

 維新の会やNHKから国民を守る党、トランプなどに投票した人々を「理解」して「共感」を示すタイプの言説は、既にごまんとある。いま必要とされているのは、真っ向からの規範的議論かもしれない。

*1:トランプが当選した時には、私も同じようなタイプの記事を訳したことがある。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:倫理学者のピーター・シンガーも、トランプを当選させた人々に対する倫理的批判を行なっている。

davitrice.hatenadiary.jp