Stay: A History of Suicide and the Philosophies Against It (English Edition)
- 作者:Jennifer Michael Hecht
- 出版社/メーカー: Yale University Press
- 発売日: 2013/11/01
- メディア: Kindle版
この本の副題の「自殺と、それに反対する哲学の歴史」が示す通り、自殺について西洋の伝承や哲学者や知識人たちはどのようなことを語ってきたか、という思想史を軸に展開する本である。
この本の序文では、著者の大学時代からの二人の友人が立て続けに自殺した出来事について語られている。友人たちが自殺した後、著者は自殺を考えている人たちが自殺を止めるように説得するエッセイをブログに掲載して、それが Boston Globe 誌にも掲載された*1。その後に過去の西洋の思想や自殺についての社会学の知見なども参照しながらまとめられたのがこの本だ。つまり、著者の主眼は「自殺を止めるように人に訴えるためにはどのようなことを言えばいいか」という点にある。また、著者は思想史の研究者でもあると同時に詩の研究者でもある。そのせいか、文学者や文学作品からの引用が目立つのも特徴であるだろう。
この本の前半では、古代・中世・ルネサンス・近代の時代ごとにおける「自殺」についての主流派の意見や世論などがまとめられている。前半部分を読んでいてまず気付かさせられるのは、「自殺に反対する哲学の歴史」という副題とは裏腹に、西洋の哲学においては自殺を肯定する潮流が一貫して存在してきた、ということだ。
古代のギリシアやローマにおいては、ルクレティアの自殺事件に代表されるような名誉のための自殺が美化される傾向にあったし、ユダヤ教においても殉死のエピソードが多々存在する。古代哲学においても、カトーやセネカに代表させられるようなストア派や、エピクロス派が自殺を肯定してきたことは有名だ*2。
西洋の思想において自殺を否定する主張をリードしてきたのは、哲学ではなくむしろ宗教の側であった。つまり、西洋において自殺を禁じる根拠を提供してきたのはキリスト教であった、ということだ。アウグスティヌスは『神の国』で「自殺は罪である」という主張を展開して、トマス・アクィナスは『神学大全』でアウグスティヌスの主張をさらに発展させた。ダンテの『神曲』でも自殺者たちが地獄で苦しむ様子が描かれている。そして、プロテスタントも自殺を激しく批判し、カルヴァン派においては自殺者の死体を裸にして公共の場に晒すことで辱めるという慣習もあった(野蛮な慣習ではあるが、人々が自殺することを躊躇させる効果があったことも確かである)。
ルネサンスの時代になり古代の哲学や文化に関心が持たれるようになるにつれて、ルクレティアが絵画の題材として取り上げられるようになったり、ストア派やエピクロス派の自殺肯定論が注目されるようになったりした。人権意識の発達に伴い、キリスト教による自殺者に対する苛烈な扱いが疑問視されるようにもなった。…とはいえ、ルネサンス期の思想家たちは自殺ということに対してアンビバレントな状態であった。シェイクスピアの作品群における自殺の扱いは両義的だ(自殺が名誉でロマンチックな行為として描かれている場合もあれば、思慮の足りない愚かな行為として描かれている場合もある)。モンテーニュも自殺について様々に論じているが、全体的な結論としては否定的である。また、17世紀には、自殺を望んでいる人が自殺の罪によって生じる死後の罰を避けるためにあえて殺人を犯して死刑にしてもらう、という現象が目立つようになった。
そして、啓蒙主義の時代である18世紀には個人主義や自由の強調とキリスト教の権威に対する批判や反感が合わさり、自殺の権利の擁護が大々的に主張されるようになった。そのなかでも特に有名なのが、デビッド・ヒュームによる「自殺論」だ。『自然の体系』を著したポール=アンリ・ティリ・ドルバック男爵、ジョナサン・スウィフト 、モンテスキューなども自殺を擁護した。著者によると、彼らの自殺論は「生きる意味」についての深い洞察を行うことよりも宗教の権威に対して批判を行うことの方に焦点が置かれている(p.101)。つまり、「死後の罪」などの観念によって人々を脅かして人々の行動を縛り付ける教会を批判することが目的であり、自殺を正当化する根拠を提出することは副次的なものに過ぎない。しかし、結果としてこの時代には自殺者の数が増えたことと、自殺を擁護する議論が大っぴらに行われるようになったことがその原因の一つであることを否定するのは難しい。また、ゲーテの著作『若きウェルテルの悩み』が各国において若者の自殺を誘発したこと(ウェルテル効果)もこの時代の特徴だ。
この本の後半部分では、自殺を否定する根拠となるいくつかの理論と、その理論を提出してきた思想家たちの意見が紹介される。
自殺を否定する理論として最もメジャーなものは、自殺は自殺する本人だけでなく他人にとっても危害を与える行為であるから自殺するべきではない、という理論である。つまり、他者やコミュニティへの責任という観点から自殺を批判する、という主張だ。この主張は、プラトンの『パイドン』や『クリトン』におけるソクラテスの主張、そしてアリストテレスの『ニコマコス倫理学』など、西洋哲学の開祖の時代から主張されてきたものである。中世のトマス・アクィナスやルネサンス期のジョン・ミルトンも、自殺が他者への害となること、そのために自殺をしたくなった人も忍耐すべきであることを論じている。啓蒙時代においても、『百科全書』の著者のディドロはヒュームやドルバック男爵などと同じようにキリスト教の権威は否定していたが、友人たちが自殺の権利を主張しているなかで、家族や友人や社会への責任という観点から、自殺せずに耐え忍んで生きることは義務であると論じた。自殺を擁護する主張を行なっていたとみなされがちなルソーやヴォルテールも、残された周囲の人々の苦痛やコミュニティへの貢献という観点から、「自分が苦しいから」という理由で自殺を行うことは認めていなかったのである。ヒュームの『自殺論』は、出版当初は著者不詳の『反-自殺論』とセットで出版されていた。…そして、「他者に対する義務」という観点から自殺を否定する主張を最も明確に理論化した思想家が、イマニュエル・カントである。カントの理論は「周囲の人」や「コミュニティ」という特定の対象への義務を超えたより普遍的な義務として、自殺を行わずに生きることを要請したのだ。「他者に対する義務」という観点からの反-自殺論はメルヴィルやユゴーやチェスタトンやヘッセなどの文学者たちの作品にも描写されている。自殺をしたくなっても自殺を決行せずに生き延びて、そしてできれば他人に対して親切にしたり自分と同じように辛く苦しんでいる人を支えることが人間に求められる義務である、ということがこれらの主張の要点だ。また、他人に対して親切にしたり義務を果たすことで、自分が他人に必要とされていたり愛されていたりするということを認識できる、という点も重要である。ただ生き延びるだけでも他人と繋がるきっかけになり、それによって次第に自殺欲求が減ることも見込まれるのだ。
「自殺は他人に危害を与える行為だから自殺してはならない」という理論は、自殺に関する現代の社会科学の知見によって補強される。つまり、「誰かの自殺は他の人の自殺を誘発する」という事実が立証されることで、自殺が他人にもたらす「危害」が可視化されるのだ。…家族の自殺や友人の自殺やコミュニティ内における誰かの自殺が自殺を誘発することのほか、有名人の自殺に関するニュース報道やフィクションなどのメディアを通じて自殺が誘発されることも社会科学によって示されている(どのような人の自殺によってどのような人の自殺が誘発されるか、ということの詳細には、最初に自殺した人とそれに誘発された人との関係性や誘発された人の精神状態や年齢など様々な要素が関わってくる)。著者は、これらの誘発現象のことを「伝染contagion」と呼んでいる。そして、他者への自殺の伝染を防ぐために自分が自殺しないことを、ある種の協定や約束として考えることもできるのだ。
他者への義務ではなく、将来の自分自身に対する義務、という観点から自殺を批判する理論も主張されてきた。そもそも、ある人が自殺を検討しているときにその人は正常な精神状態でない可能性が高い。そして、自殺を選択せずにしばらく耐え忍べばやがては精神が回復することを考えると、ある時点で自殺をしてしまうことは、将来の自分が経験したかもしれない様々な幸福や選択肢を奪う行為であると考えられるのだ。危害原則に基づいて愚行権を擁護したJ・S・ミルですら、自分自身を奴隷として売り渡すことで「自分自身から自由を奪う」行為は認められないと論じている。同様の論理は、自殺に対して当てはめることも可能なのだ。…「自分自身に対する危害」という論理で自殺を否定する主張を唱えた人のなかではショーペンハウアーが最も有名だろう。ウィトゲンシュタインもショーペンハウアーと同様の反-自殺論を展開していたようであるし、レヴィナスも独自の理論に基づいて自殺を否定していた。…そもそも、自殺とは一時的な問題を永続的な方法で解決してしまおうとする行為であると言える。うつ病の状態では物事の全てが暗く希望のない状態に見えてしまうものだが、そのように現実認識能力や判断能力が低下しているときに自殺を選択してしまうことの非合理性は認識されるべきだろう。
20世紀において自殺を論じた論者のなかでも最も有名な二人が、デュルケームとカミュである。デュルケームは『自殺論』で自殺を社会学的な分析の対象とした一方で、社会を結び付ける基盤である「人類教 religion of humanity」を傷付ける行為であるとして、自殺という行為に対する道徳的批判も言明している。そして、カミュは『シーシシュポスの神話』のなかで「自殺は不条理に対する人間の敗北だ」と主張して、不条理に抗って生きることを高らかに肯定したのであった。
自殺を否定する主張においては、「苦しみや困難がやがては幸福につながる」という思想も重要な役割を果たしてきた。つまり、自殺を考えさせられるほどの苦難であっても、それを克服することで人間性を成長させられたりそれまでは理解できなかったような人生の深みが理解できるようになる、ということだ。このような思想は仏教やキリスト教などの宗教にも見受けられるし、ニーチェなどが主張してきたことでもある。しかし、著者がより強調するのは「自殺を考えるほどの苦しみや困難によって他者の大切さが理解できたり、同じように苦しんでいる他者とつながる」ことである。そして、自殺をせずに耐え忍ぶ行為そのものが賞賛に値する立派な行為であるという認識が広まること自体が人々に自殺を思いとどまらせる効果がある、と論じる。
そして、「結論」の章ではこれまでの自殺に関する思想史と自殺が他人にもたらす影響についておさらいされた後に、著者自身による自殺を否定するメッセージが改めて述べられる。
この本の特徴のひとつは、自殺に反対する理論の根拠として「他者」が強調されていることだろう。
また、後半では自殺に反対してきた様々な哲学者の主張が紹介されるとはいえ、啓蒙時代において宗教的・伝統的権威に対する「合理的」な批判を行った思想家たちが自殺を肯定する主張を唱えた、という点はかなり重要であるように思われる。この本では「安楽死」は自殺とは別問題であるとしてほとんど取り上げられていないが、安楽死については宗教的・伝統的権威と合理的な哲学者が対立する状況は依然として続いていると言える*3。私としても、安楽死の権利については賛成している側だ*4。とはいえ、幸福や苦痛や「生きる意味」、また他者への影響や社会への義務などの様々な要素についての考慮や分析を欠いた、自由主義や反権威主義だけに基づいた自殺肯定論はさすがに認めたくない。しかし、さいきん話題になっている反出生主義など、ある種の「合理主義」に基づいた極端な思想は、その思想の分析の深さや理論の強度に関わらず一部の人々にウケてしまいがちな傾向があることも確かだ。そういう層には「他者」や「コミュニティ」を強調する著者の議論は説教臭くて押し付けがましいものに聞こえてしまう可能性が高いだろう。
本気で自殺を考えている人に対してそもそも哲学的な議論が影響を与えられるものなのか、という根本的な疑問もある。私としては「将来の自分自身に対する危害」や「自殺を選択することの非合理性」に基づいた批判は論理としては優れていると思うが、誰かを説得する議論としての有効性には乏しいような気もする。…一方で、「説得」の必要性とは別次元で、自殺という行為がなぜ悪いか、どのように悪いか、ということに関する「分析」を行うためには哲学的な議論は欠かせない。その点では、本書で著者がまとめて整理した思想史や社会科学の知見は、かなり参考になるものであった。