道徳的動物日記

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読書メモ:『社会正義論の系譜:ヒュームからウォルツァーまで』

 

 

 

 先日にリチャード・ベラミーの『哲学がわかる シティズンシップ』の邦訳が発売されて、このブログでも記事を書いた。

 

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 また、8月にはポール・ケリーの単著『リベラリズム:リベラルな平等主義を擁護して』が邦訳される*1

 

 

 

 というわけで、記念?として、本書に収められているベラミーの論文「コミュニティにおける正義」とケリーの論文「契約論的社会正義」を読んだ次第。

 

 どちらの論文でも、本書の副題にも含まれているマイケル・ウォルツァーが主な批判対象として言及されている。最近の政治学の本を読んでいるとウォルツァーはあんまり出てこないのだが、原著の出版は1998年であり、リベラルとコミュニタリアンとの論争がまだ進行していたことを彷彿とさせる。

 ベラミーはウォルツァーの「領域的正義」や「複合的財」の考えを以下のようにまとめている。

 

ウォルツァーの正義論の中心命題は、財(goods)は社会的コンテクストの中で観念され、創造され、そして分配されるというものである。財は、すべてのコミュニティに立ち、それゆえ共通の、固定され内在的な「自然の」あるいは「理想的」な意味をもっているわけではない。すべての財は特定の社会関係の産物であり、そうした関係を用い、形成している男女の存在を離れては実在しないし価値ももたない。先祖伝来の家督財産、一パイントのビール、秘伝の発明といった私的に大切なものを含んでいるようにみえる財でさえ、そうした個人的な評価を理解可能なものにさせる公共文化を部分的に形成している。それどころか人格的アイデンティティすら、きわめて重要な面において、社会的財を利用し追求することを通じて社会的に構築されるのである。

財とその意味は社会的に構築されるから、「財とは何であるのか何のためのものなのかということにかんする共有された観念にしたがって分配はパターン化される」とウォルツァーは結論づけている。しかし、社会的な意味は不変でも普遍でもない。社会的な意味とは時を経て変化するものであり、社会ごとに異なっているし、ある場合には社会内部でも異なっているのである。ウォルツァーはこのよく言われる事実から、重要な結果を数多く引き出している。第一に、ロールズとは対照的にウォルツァーは、それぞれの社会は異なった仕方で財を価値あるものとみなすのであり、歴史の歩みを通じて自分たち自身の評価を変えるのだから、「あらゆる道徳的物質的世界の全域で受け入れられるような単一セットの第一義的、あるいは基礎的な財などというもの」は存在しえないと主張している。いくつかの財は、ある社会では非常に喜ばれるものであるかもしれないが、他の社会では周辺的なものとされるか、あるいは存在しないものであるかもしれない。…(中略)…

第二に、これと関係して、同じ財であってもそれにかかわる者たちにどのように理解されているかによって、さまざまなコンテクストでさまざまなしかたで分配されるだろう。…(中略)…

第三に、単一の分配原理、あるいはすべての財や社会を貫く一連の基準を適用させようとする普遍主義的理論は二重の意味で誤っているということが挙げられる。…(中略)…

第四番に、もう一度ロールズに反論する形で、ウォルツァーは、どのような所与の社会の分配基準であろうと、それを評価するためにアルキメデスの点、つまりロールズの言う原初状態のようなものが存在しうるという考えに疑義をさしはさんでいる。…(中略)…

最後に、正義にかんするどのような理論も、社会的コンテクストだけではなくある特定の政治的コンテクストを想定しなければならない。

 

(ベラミー、p.214 - 217)

 

 この要約からも分かる通り、ウォルツァーの議論は「文化相対主義」にかなり近いものであるようだ(政治哲学的には「多元主義プルーラリズム)」と表現するらしい)。したがって、文化相対主義に対する典型的な批判が、ウォルツァーの議論に対しても当てはまる。たとえばベラミーはフェミニストの政治哲学者スーザン・オーキンの議論を紹介しながら、「ある社会の分配基準がその社会の内部に埋め込められた差別的なバイアスに影響される」という問題を指摘している。……たとえば、性差別的な社会では諸々の財は男性にとって有利に女性にとって不利に分配されるだろうし、わたしたちはそのような状況を批判したいと思うだろうが(その社会の内部にいる女性たちもそうだろう)、その批判のためには「正義と平等について、たんに社会と領域に特殊ではなく一般的な見地から考察をすること」(p.230)が求められる。社会的な意味に影響されないように(普遍的な)分配領域を自律させておくことはやはり必要であるのだ。

 また、ウォルツァーの議論は財の多元性や複合性を強調することで価値とか意義とかが市場とか資本主義とかお金とかに一元化されないようにする、みたいなことも意図しているようだ。しかし、ベラミーの批判を読む限り、ウォルツァーの議論はかなりナイーブなものであるように思われる。たとえば、ヘルスケアの分配基準は健康へのニーズに基づいて他の領域からは独立して制定されるべきだとウォルツァーは主張するが、実際にはヘルスケアの基準は「予算」という経済的なものも考慮しなければならないし(いくら必要であるとしても膨大なお金が必要とされる治療を無制限に実施することはできない)、「危険なスポーツをやっている人は公的な保険だけでなく民間保険に入るべきだ」とか「大酒を飲む人やヘヴィ・スモーカーは普通の人より高い保険金を払ったり病気になったときの自己負担の割合を増やすべきだ」といった、責任などに関して人々が抱いている道徳的・規範的な考えも分配基準を制定する際には考慮すべきものである(人々の道徳原理に全く一致しないような基準は、その財や領域に関する「ニーズ」がどのようなものであっても、許容されたり採択されたりすることがないだろう)。ついでに言うと、わたしたちは健康だけでなく食糧や衣服も必要とするが、それらが国営スーパーマーケットや国営デパートで万人に対して公的に配給されるべきだとは誰も思わない。……しかし、健康だけを特別視する理由も自明ではない。結局のところ、「ヘルスケアは人間のニーズであると人々が認識すること[※そのような観念が社会的に共有されること]と、それが非市場的基盤に依拠して公的に給付されなければならないと人々が考えることはまったく別のことである」(p.227)。

 また、ウォルツァーは「地位」に関する多元的な平等について論じている。……現代社会では所得や学歴や職種といった諸々が相互につながっており(相互交換性)、学歴が高ければ待遇が良くて社会的な評価も高い職業について所得も増やしやすいが学歴が低ければその逆となりやすい。しかし、財産や学歴や職業といったそれぞれの領域を分離できれば、学歴が低くても恵まれた仕事を得ることができたり、お金を持ってなくても良い大学にいけたりして、みんなが満足できる。……これについては、そもそも様々な財には因果的関連性が存在しており、教育レベルの高さは職業に必要とされる技能レベルの高さにも実際につながっている、という問題がある。たとえば、平等を理由にして大学を出ていない人を高度な知的専門職に就かせても、その仕事をこなすための技能を持っていないのだからナンセンスだ。ウォルツァーの理想を実現しようとすると共産主義的な計画経済社会になるだろうし、そのような社会は結局のところ資本主義に比べて人々を不幸にしてしまう(さらに、共産党へのコネクションを持つ人は地位も学歴も所得も手に入れる、という風に、資本主義社会よりもロクでもないかたちの「転換可能性」が到来してしまうことを歴史が証明している)。

 ウォルツァーのようなナイーブさは、同じくコミュニタリアンであるマイケル・サンデルの議論に対してもわたしが常日頃から感じていることである。ごく一般的なイメージで言えばリベラルに比べるとコミュニタリアンは保守とか右派とかに寄っていると思われており、そして保守とか右派とかの特徴や強みは左派に比べて「現実的」であったり「歴史的・経験的事実を尊重すること」であったりするはずなのだが、リベラル・コミュニタリアン論争を見ていると、リベラルのほうが現実的でコミュニタリアンのほうがナイーブであったりノスタルジックであったりすることのほうが多いのだ。リベラリストが提示する分配基準や社会像は人間の本性とか経済や社会のメカニズムをきちんと見据えたうえで実現可能(とリベラルが思っている)な範囲内ギリギリの「理想」であるのだが、コミュニタリアンはそのことを無視してリベラルを批判してしまうので自分たちでは実現可能な分配基準や社会像を提示することができず大雑把な理想論に終始する、ということだと思う。

 

 ケリーの論文ではウォルツァーに合わせてアイリス・マリオン・ヤングも批判している。「差異の政治」を主張する彼女の議論は、アイデンティティ・ポリティクスに基づいて社会契約論的なリベラリズムを批判しているという点ではウォルツァーと共通している。そして、ケリーはロールズ的な「公共的理性」を重視する議論によって、ウォルツァーやヤングに反論している。

 

……本章のはじめのほうで、わたくしは、契約論的な分配的正義の優先性がなおその存在意義を失っていないことを説明するのは、理由を与えるというその構想と、民主的社会における公的な正当化との類縁性であることを示唆した。社会的協働の利益と義務を分配する正義の原理を正当化するとき、その目的は、同意を強制することではなく、共通の地盤をみいだすことにある。このことは、すべての人が、何を信じていようとも受け入れることのできる理由を探究することを伴い、またこのことは、理由の潜在的な受益者として〔すべての人を〕平等に承認することを含む。それはまた、各人への負担の押しつけに対して、それらの負担を受け入れるべき理由が与えられない場合には、それを拒否する権利を各人に与える。いいかえれば、契約論的自由主義の根本的に平等主義的な前提は、公的正当化の理念のなかに組込まれているのである。なぜこの結びつきがあるのだろうか。その答えは、平等から離れることを正当化するためには、われわれは、平等に扱われない人々に対して、不平等を正当化しうる理由を与える必要があるということ、そしてこのことは承認の平等を伴っているということであるように思われる。ともかく、利益集団や社会階級、あるいは人種的集団の有利な立場を反映するにすぎないような理由を提供するのに、たいした知識や技術は存在しない。それに代わりうるのは、行為を正当化することをまったくしないで、たんにそれらを押しつけることであるが、しかしこれはもはや政治理論の問題ではなく、むしろ民主的な政治家にとっての実践的問題である。…(中略)…ひとたび包含と排除を正当化する必要が提起されると、そのときには、なにが公的理性を構成するのかという問題が前面にもち出され、アイデンティティに訴えることは根本的な重要性をもたないとみなされるのである。

 

(ケリー、p.269 - 270)

 

 ケリーは「二階の公平性」という議論も提出しているが、これは、異なる「包括的教説」を持つ人たちであっても支持できるものとしての「政治的リベラリズム」、というロールズの議論を彷彿とさせるものである。いずれにせよ、アイデンティティの政治も結局は理性に基づくリベラルな合意に立ち戻らなくてはならない、という主張だ。これは、最近でも『「社会正義」はいつも正しい』でなされていたものである*2。以前にも思ったことだが、昨今のアイデンティティ・ポリティクスや「特権」理論とそれに対する批判の多くは、リベラル-コミュニタリアン論争の際にすでに論点が提出されたり議論がされたりしたものであり、歴史は繰り返す(というか過去の議論を参照するのをみんな怠っている)ということであるかもしれない。

 

*1:レビューするので買ってくれればありがたい。

www.amazon.co.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp