道徳的動物日記

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ロールズの社会は「地獄」なのか?(読書メモ:『<責任>という虚構』)

 

 

 以前に同じ著者の『社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 』も読んだけれど、読んでいてとにかくイライラした。本書も同じく。

 著者の立場は極端な社会構築主義。『責任という虚構』にせよ『社会心理学講義』にせよ、「自由意志」は存在せず「責任」はだれかに罪や貧乏クジを押し付けて社会秩序を回復するための虚構に過ぎないと言い張ったうえで、自由意志とそれに伴う責任を前提としたうえで有るべき社会秩序を考えて「規範」を説こうとする哲学者の傲慢さや偽善性を批判する、という論旨がよく登場する。また、ベンジャミン・リベットの実験やスタンフォード監獄実験などの脳科学・心理学の研究結果をかなり大袈裟に解釈して牽強付会に用いているところも特徴。ほかの心理学者の本を読んでみるとなんだかんだで謙虚であり、「現在の心理学の知見で言えるのはここまで」「ここから先の文明論や人間論は哲学や社会学などの他の領域の出番である」という切り分けが意識されているものだが、小坂井の議論はオレ流社会心理学帝国主義となっていて仰々しく大雑把。しかしこの大雑把さのために一昔前や他学問に対する敬意がなかった頃の「哲学」っぽい内容にもなっていて、牽強付会な議論こそが哲学や人文学であると勘違いしているタイプの読者を釣りやすい本として仕上がっている。

 そして論旨や議論の内容以前にイライラさせられるのが、断定や決め付けが多くてやたらとレトリカルで、読者に対してニュートラルな知識・議論を提供しようとするフェアネスも他の論者に対する敬意も感じられない、傲慢な文体である。他の読者たちの書評を見るとこの文体を「明晰」だと評価していたり「知性」を感じていたりするようだが、そういう読者は粗雑さや性急さを明晰さと勘違いしたり謙虚さの欠如を知性だと勘違いしているだけだと思う。

 とくにひどいと思ったのは第6章の「正義という地獄」の節。

 

正義という地獄

問題はそれだけに止まらない。人間世界の<外部>を排除し、あくまで内部に留まったままで秩序を根拠づける試みは論理的に不可能なだけでなく、ロールズの善意を裏切る悲惨な結果が待つ。

『正義論』が構想する社会において底辺の人々は自らをどう捉えるだろうか。遺伝・家庭・教育・遺産など外因に左右される能力は本人の責任でないから、そのために劣等感を抱く必要はないとロールズは説く。格差は単なる手段であり、人間の価値が判断されるのではない。

 

[……]最も恵まれない状況の人間が他者に劣ると考える理由はない。一般に同意された公共原理によって、彼らの自尊心は保護される。自他を分ける絶対的または相対的な格差は、その他の政治形態における格差に比べれば感受しやすいはずだ。(※ロールズの本からの引用)

 

だが、このような理屈や慰めは空疎に響く。ロールズの想定する公正な社会では下層の人間にはもはや逃げ道はない。社会秩序が正義に支えられ、改装分布の正しさが証明されている以上、自分が貧困なのは誰のせいでもない。まさしく自らの資質や能力が他の人より劣るからに他ならない。貧富の差は正当であり、差別のせいでもなければ社会制度に欠陥があるのでもない。恨むなら自分の無能を恨むしかない。ある日、正義を成就した国家から通知が届く。

 

欠陥者の皆さんへ

あなたは劣った素質に生まれつきました。あなたの能力は他の人々に比べて劣ります。でも、それはあなたの責任ではありません。愚鈍な遺伝形質を授けられ、劣悪な家庭環境で育てられただけのことです。だから自分の劣等性を恥ずかしがったり、罪の意識を抱く理由はありません。不幸な事態を補償し、あなた方の人生が少しでも向上するように我々優越者は文化・物質的資源を分け与えます。でも、優越者に感謝する必要はありません。あなたが受け取る生活保護は、欠陥者として生まれた人間の当然の権利です。劣等者の生活ができるだけ改善されるように社会秩序は正義に則って定められています。ご安心下さい。

 

同期に入社した同僚に比べて自分の地位が低かったり給料が少なかったりしても、それが意地悪い上司の不当な査定のせいならば自尊心は保たれる。序列の基準が正当でないと信ずるからこそ人間は劣等感に苛まれないですむ。ロールズの楽観とは逆に、公正な社会ほど恐ろしいものはない。社会秩序の原理が完全に透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界だ。

 

(p.368 - 369)

 

 まず、「欠陥者の皆さんへ」と題された手紙が届くというくだりは、ロールズなどの平等主義論者に対する「平等性からの屈辱的な手紙」批判として英米系の政治哲学者の間では広く知られており、元ネタはアメリカの哲学者エリザベス・アンダーソンの論文「平等の要点とは何か」である。さすがに「註」にはそのことが書かれているが、多くの読者は「註」まで読まないものなので、わたしだったら「エリザベス・アンダーソンの有名論文によると〜」といった風に本文中に元ネタの名前を挙げるだろう。とくに「平等性からの屈辱的な手紙」批判は具体的なイメージを想起させやすい印象的な批判だけに、「こんなに鋭くておもしろいロールズ批判を考えられるなんてこの本の著者はすごいなあ」と読者に誤解させてしまう可能性が高い。実際、『責任という虚構』の感想を調べてみると、元ネタがアンダーソンであることを忘れて(註を読まずに?)「平等性からの屈辱的な手紙」批判とは小坂井オリジナルのものだと思っている人もいるようだ。

 そして、『平等主義基本論文集』の監訳者である広瀬巌の「あとがき」によると、元ネタであるアンダーソンの論文自体も、哲学者たちの間では必ずしも高く評価されていないようである。

 

アンダーソンの論文は二つの点で重要とされている。第一に、運の平等主義に対する重要な批判をしたという点。第二に、「民主的平等」ないしは「関係性平等主義」と呼ばれるようになった立場を初めて表明したという点。第一の点について言えば、アンダーソンは大まかに二つの批判を繰り広げている。一つは「平等性からの屈辱的な手紙」批判、もう一つは「遺棄」批判である。前者の批判はまったく的はずれな批判と目されており、真剣に議論されることはない(同じような屈辱的な手紙は、いかなる分配的正義の理論に対して書くことが可能である)。

あとがきたちよみ/『平等主義基本論文集』 - けいそうビブリオフィル

 

 とはいえ、「平等性からの屈辱的な手紙」批判はマイケル・サンデルの『実力も運のうち』でも引かれていた。「恵まれない人に対する再分配を行う際に、国家(アンダーソンの元ネタでは「国家平等委員会」)から"あなたは恵まれない可哀想な人間なので、再分配の対象になりました”とわざわざ強調する手紙が届く」という光景のインパクトは強いし、その手紙が恵まれない人に与える屈辱感についてもわたしたちは想起して同情してしまうから、つい印象に残ってしまうのだろう。……逆にいえば、アンダーソン(と小坂井やサンデルなどの追随者)は、おそらく意図的に読者の感情を操作して、論理的でないかたちでロールズや運の平等主義の説得力を下げようとしている。

 もちろん、ロールズや運の平等主義者たちの提唱する「正義」が仮に実現したとして、国家や再分配機関がわざわざ「手紙」を送ることはないだろう。再分配をする際に、対象となる人に「屈辱」を与える意味がないからだ。実際には、「平等性からの屈辱的な手紙」批判では手紙が送られるかどうかは重要ではなく、「生まれ持った能力の格差や運の悪さに対しても再分配による補償がなされるほどに平等が実現した社会では、自分の人生がうまくいかなかったり競争に敗れたりしたときに言い訳することができなくなり、能力のない人は自分の能力のなさを常に思い知らされ続けて逃げ場の余地がなくなる」という点に主眼が置かれているようだ。

 

 とはいえ、引用部分で書かれている通り、ロールズは「公共原理」が一般に同意されたら「最も恵まれない状況の人間が他者に劣ると考える理由」はなくなると考えている。

 ここでロールズが想定しているのは、正義の各原理が完全に達成されて、再分配がなされる根拠である正義の原理について人々が完全に理解している状態での社会におけるわたしたちの思考や感性であるだろう。

 ロールズ流の正義論(または運の平等主義など)がしっかりと実現された社会とは、財や資源が格差原理などの正義の原理にしたがって配分される社会というだけでなく、社会の成員がその配分の理由を理解して同意している社会でもある。そのような社会では、ある人の状況が恵まれないこととその人が他者よりも劣っているかどうかはまったく関係がないこと、また自分の才能や能力の有無は道徳的には全く恣意的な事柄であるために自分が恵まれた状況で過ごせるかどうかとも本質的には関係ないといったことを、自分も他人も理解している。

 そのような社会では、たしかに、恵まれない状況にいる人が他者よりも劣っていると考える人はいなくなるはずだ。再分配によって資源や財を得られる側の人々は劣等感や恥辱を抱くことなく「能力のある人たちが稼いだ財が能力のない自分に再分配されるのは、公共の原理(正義の原理)にしたがっているのだから正しいことなのだ」と考えて堂々と受け取れるだろう。さらに、稼いだ資源や財の一部を再分配のために徴収される側の人たちすらも「これが正しいことなのだ」と納得するはずである。

 もちろん、これは理想である。実際にはわたしたちがロールズの正義論や運の平等主義の背景にある考え方を完全に受け入れて内面化することは困難だろう。自分が稼いだ財を能力のない人に再分配するために徴収されることには多かれ少なかれ苦痛や理不尽さを感じるだろうし、才能や能力のある人はそうでない人よりも恵まれた生活に「値する」という直感的な考えを是正するのは能力のある人とない人のどちらにとっても難しい。配分的正義に関する議論とは、「財や資源に(分配が可能かつ分配が必要とされる程度の)希少性があること」と「人々の利害関心や優先順位が異なっていること」という、非理想的で現実の状況に類するような「正義の情況」を前提としたうえで、「その情況では財や資源はどのような根拠に基づいて配分することが望ましいか」というベストな原理を探究するための、あくまで理想論である。

 しかし、「財が希少であるうえに人々の意見も異なるなかで財の配分のルールを定めなければならない」という「正義の情況」自体は常に存在している。どうせ財の配分が必要となるならば、適当に定められたルールや特定の人にとってだけ都合の良いルールや伝統的ではあるが根拠の不明なルールなどに基づいて配分されるよりも、平等であったり公正であったりして根拠もはっきりしたルールに基づいて配分されたほうがよい、ということには大半の人が同意するはずだ。ベストなルールを定めたところで現実の社会では様々な問題からそのルールは実現されず財の配分には歪みが生じるかもしれないが、「本来であればこのルールにしたがって財が配分されるべきであった」という理想的な基準や規範が存在することで、ようやく、「現状の財の配分のされかたは間違っている」と批判したり問題を提起したりすることができる。だからこそ規範は必要になるのだし、「責任」といった概念についても考える必要があるのだ。

 

 上述したようなポイントは、ロールズに限らず、政治哲学や倫理学の枠組みで規範を論じている哲学者たちの大半が自覚しているものだろう。したがって、「お前たちの論じていることは空想的な理想論だ」と断じるだけでは、規範論に対する批判にはなっていない。哲学者たちは、理想や規範と現実との落差を理解しながら、理想を論じるべきところでは理想を論じて、現実を論じるべきところでは現実を論じているだけである。

『責任という虚構』や『社会心理学講義』などの小坂井の本では、規範を論じる哲学者たちに「傲慢」「偽善」「おぞましい」などの価値判断を含む言葉を使いながら非難を浴びせかけられている。

「〜であるべきだ」とか「〜は悪い」といった規範を論じることを否定しながらも「規範は論じるべきでない」とか「規範を論じる行為は悪い」といった判断がなされているのだ。これは哲学者ならすぐに気が付くような、倫理的相対主義にありがちなジレンマである*1

 同じような問題は御田寺圭の『ただしさに殺されないために』にも見受けられるし、日本人が社会の状況について批評的に論じた著作の多くに見受けられる。哲学者やリベラルやフェミニストなどが「ただしさ」を語ることは否定しながらも、「ただしさがもたらしている悪さ」や「ただしさを語っている連中の悪さ」をあれこれあげつらって非難することで「ただしさ」を語るという自分の行為だけは特権的に許容する……という構造の議論は規範や「ただしさ」に対して居心地の悪い思いをしている人や規範や「ただしさ」を守りたがらない怠惰な人にとってはウケが良く、文筆の世界では昔から定番の手法となっており定期的に登場するが、使い古されているぶんかなり凡庸であるし知的にも見るべきところはない*2

 そして、小坂井は単にロールズを非難するだけでなく、彼が理想論としての正義を語る背景を無視しながら「善意」や「楽観」などの言葉を使うことで、ロールズは「頭がお花畑のアホ」であるかのようなイメージを読者に与えようとしている。もちろん、「現実を冷静に理解しているオレ」と対比させて自分の議論にハクをつけるためだ。『<責任>という虚構』はちくま学芸文庫で増補版が出版される程度には評価されている書籍であるようだが、やっていることはどこぞのネット論客とさして変わらない。

 

「平等性からの屈辱的な手紙」批判に話を戻すと、「完全に平等が達成された社会では"言い訳"の余地がなくなり、不平等が残っている社会よりもむしろ惨めさを抱くようになる」というポイントにはサンデルも賛同しており、それなりに説得力のある懸念だとみなされているようだ。サンデルが大学入試くじ引き論を主張する背景にもこの懸念が存在する*3。また、アンダーソンの論文では、配分的正義の問題から個々人の心情やイデオロギーの問題を含んだより社会的・政治的な物事へと議論を拡大させた「民主的平等(関係性平等主義)」が論じられている(これについても広瀬の評価は厳しいし、わたしもアンダーソンの議論はかなり微妙だと思う)。一方で小坂井は「制度化された階層制度や身分制の存在する伝統社会であれば、能力や個性が重視される近代で生じるような劣等感やアイデンティティ喪失は存在しなかったかもしれない」と示唆はするが、もちろん「前近代の身分制社会に戻るべきだ」と主張するほどの度胸も持っておらず、ただ放言するだけ。

「社会秩序の原理が完全に透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界だ」という小坂井の一文もかなりスジが悪い。たしかに、ロールズ的な正義論が完全に達成された社会は、言い訳の余地がなくなるという点で、能力がない人にとっては多少は住みづらくなるかもしれない。でも、住めないことはないだろう。「地獄」という表現はあまりにオーバーである。本を読み終わったあとにこのレトリックが記憶に残って「ロールズの社会って地獄なんだな」とだけ覚えて帰ってしまう読者もいるかもしれない。

 また、社会秩序の原理が透明化されていない社会であっても、能力のない人は自分自身の経験や他人との関係を通じて、多かれ少なかれ能力のなさを自覚するはずだ。言い訳はあくまで言い訳であり、現在の社会で「自分の給料が低いのは意地の悪い上司の不当な査定のせいだ」と言っている人がいたとして、他人はもちろん本人すらもその言い訳を心からは信じていないかもしれない。そして、言い訳を止めて自分の能力のなさを直視したところで、それで生きられなくなるというわけでもない。多少の屈辱ややるせなさは感じるかもしれないが、「自分はこの程度の人間であるのだ」という自覚をしたうえで、自分自身に折り合いをつけながら、分相応にがんばったり、自分に足りない能力が必要とされる場所から自分の持っている能力が必要とされる場所へと活動のステージを移したり、あるいは競争したり能力を発揮したりすることを重視するのを止めてのんびりと過ごす……というのは現代の社会でも多くの人がやっていることだ。むしろ、「自分はもっと能力があるかもしれない」とか「社会状況や環境のせいで自分は本来の能力が発揮できなかった」とか「自分が不幸であるのは他人のせいである」とかいった認識を改めて、欠点や劣っていることを含めて自分自身をありのままに認識できるようになることには、それ特有の喜びや充実感もあるものだ。

 「伝統的社会では身分制が存在するために欲求不満やアイデンティティ喪失が解消されていた」という小坂井の主張も、おそらく極端な社会構築主義が背景にあるのだろうが、かなり疑わしい。むしろ、人間には「対等願望」や「承認欲求」と共に、自分の能力を発揮して他人から抜き出た人間になりたいという「優越願望」が生得的・生物学的に備わっているというフランシス・フクヤマの議論のほうにわたしは同意する*4身分制度などの差別が存在する社会では「自分はもっと能力を発揮して幸せになったり充実した人生を過ごしたりすることができていたかもしれないのに、差別のせいでそれができなかった」という後悔をずっと抱きながら死んでいった人が大量にいただろう。「地獄」という言葉を使いたいのなら、むしろ彼らや彼女らの人生のほうに使うべきだ。

 

 余談だが、これは、サンデルによる「大学入試くじ引き論」がうまくいかない理由とも関係している。

 大学入試に話をしぼっても、わたしの周りの人たちを見ていると、「自分の能力をベストに発揮できる条件のもとで第一志望の大学を受験したが、根本的に能力が足りていなかったために落ちてしまった」という人よりも「運の悪さや環境・家庭の問題などから、受験の際に自分の能力が発揮できなかったり、第一志望を受けること自体ができなかった」という人のほうが、より強い後悔を抱えており、入試がその後の人生に及ぼす負の影響も大きかったようだ。

 おそらく、わたしたちにとっては「自分の能力のなさ」に耐えるよりも「運の悪さ」に耐えることのほうがずっと難しい。だからこそ、悪影響があるとしてもわたしたちは「くじ引き」よりも「完全に公正な競争」を望むし、実際には不公正が潜んでいたとしても競争は「くじ引き」よりかはマシだと思うのだろう。

……同様に、いくら近代や現代に問題があるからといって、まともな人のなかで身分制度のある伝統社会に戻りたいと思っている人は存在しない。これこそが、能力主義が魅力的であり、また、リベラル・デモクラシーが(なんだかんだで)人々から望まれる理由でもある*5

*1:「補考」では「本書は規範論ではなく、認識論としての相対主義を提唱している」などと言い訳しているが、反論になっていない。

*2:

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