道徳的動物日記

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読書メモ:『ポジティブ心理学 科学的メンタル・ウェルネス入門』

 

 

 

 著者の小林はサンデルやアリストテレスについての著作もあるコミュニタリアン系の政治哲学者。とくにアリストテレスの「徳倫理」がポジティブ心理学に結び付くのはわたしも『21世紀の道徳』のなかで紹介しており、コミュニタリアンの人がポジティブ心理学についての本を出すこと自体も違和感がないというかむしろ望ましいことであると思う。

 とはいえ、サンデルの『実力も運のうち』を読んでからわたしの頭にある疑問は、アリストテレスの「ユーダイモニア論」やそれに基づく「強み」や「美徳」を重視するポジシティ部心理学の議論と、同じくアリストテレスの「共通善」概念を発展させたサンデルのコミュニタリアニズムは矛盾するのではないか、というところだ。端的に述べると、リチャード・テイラーは『卓越の倫理』のなかでアリストテレス倫理学はエリート主義であると明確に述べておりルサンチマン道徳に対比されるものと論じているが、「能力主義」を批判するサンデルの議論はむしろルサンチマン的である、という点に疑念を抱いている*1

 

 それはともかく、本書のなかでとくにわたしの問題関心に沿っており気に入ったのは以下の箇所。

 

庶民が語り伝えてきた神話や昔話の中にも、美徳をそなえた者が最後の成功を得る、美徳に欠けた者は不幸になるという教訓談がじつに多い。「舌切り雀」や「花咲爺」は、善良で優しいお爺さんの幸せや喜びと強欲なお爺さん・お婆さんの失敗を対比しているし、桃太郎・金太郎や一寸法師は男気・元気や強力の価値を示すお話だ。「こぶとり爺さん」は「勇気」の物語であり、「浦島太郎」や「鶴の恩返し」は亀や鶴を助けるという優しい行為と約束を破るという不誠実な行為の帰結を語る。さらに「かちかち山」や「猿蟹合戦」のような敵討ち物語は、非道な者によって失われた正義を知恵や協力によって回復することがモチーフである。こうした物語を通して、【仁】や【勇】【智】や【義】などの美徳や元気やチームワークなどの強みの重要性が暗示されてきたわけだ。物語によってこれらを自覚しようとしてきたのは、過去の人々ばかりではない。現代の私たちもまた美徳と人格的な強みを学習するツールを欲し、それを再生産し続けている。

例えば、ハリウッド映画の中には、文化の違いを超えてヒットする作品が少なくない。アメリカ合衆国じたいがさまざまな人種、文化に属する人々が集まってできている国だから、その違いを超えて楽しめる映画が作られている。もちろんヒットの裏には巧みな商業戦略とお金の投入があるし、作品がその時々のアメリカ国家流の「正義」のPRになることもある。だが、さまざまな問題がありながらも、文化的な違いを超えて大勢の人が観てしまう、楽しめてしまうのはなぜか。それは、ヒット作の多くが【仁義礼智信勇】あるいはVIAで示された普遍性の高い美徳や人格的な強みをわかりやすい形でふまえているからだ。……

(p.139 - 140)

 

 一方で、下記の箇所はサンデルも『実力も運のうち』や『それをお金で買いますか』などで述べていたような議論だが、わたしはかなり疑問を抱く。

 

[コロナ禍において医療従事者や保健行政関係者の業務が増加したことについて]この事態をふり返って、私たちは自問すべきだろう。これら共通善を担う人々やその組織、制度に対し、パンデミック前のわたしたちの社会は、その善にふさわしい人材やお金などの資源を提供していただろうか。あえて素朴な言葉で言えば、私たちが政治を通じて示してきた価値判断や行動選択の中に、共通善を担う人や組織に対する「引き受けてくれてありがとう」や「よろしくお願いします」は、「正しく位置づけられていたのだろうか。

むしろ私たちは経済性や効率性といった尺度のみに左右されやすく、道徳的な価値判断を政治に持ち込むことを怠りやすい。例えば、医療や福祉、保育などの人手不足が指摘されてきたにもかかわらず、これらの分野に従事する人々の賃金水準は低いことが少なくなく、その引き上げペースも鈍かった。この人々が担う共通善の「善さ」について考えるより先に人件費の抑制を考えてしまう風潮は、市民の間にもあったはずだ。

(p.204)

 

  この種類の発想に対するジョセフ・ヒースの批判は以前にも紹介した。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

それに対して、左派は「社会の認識」の誤謬とでも呼ぶべきものーー賃金率は「社会」が特定の労働に与える価値で決まるという考えーーの餌食となることがしばしばだった。現実には、賃金率は雇用主が労働者の仕事に与える価値で決まるのですらない。ましてや社会全体のそれでは決まらない。残念なことに、社会の認識の誤謬から多くの人たちが「ワーキングプア(働く貧困層)」問題は労働者の社会に対する貢献の認識を変えれば直せると考えるようになった。バーバラ・エーレンライクの著書『ニッケル・アンド・ダイムド』は、ジャーナリストが低賃金労働に潜入して発見を報告するという零細産業を生み出した。話の教訓はどの例でもほぼ同じだった。善良で勤勉な人たちが骨の折れる仕事をしていて、屈辱に耐えることを強いられながら悲惨なほど薄給ということだ。まったくそのとおり、肝に銘じておきたい。しかし、どうしたらいいのか?あからさまにも、暗黙のうちにも、一般に勧められるのは以下の二つ。その一、そういう人たちには親切に。これには異論はないと思う。その二、賃金を上げる。ここで議論が(たいしたことではないが)ややこしくなる。

勤勉で善良な人はかなりいい給料をもらうのが自然な考えのように思えるのに、資本主義ではそうはいかないのが純然たる事実だ。国内的にも国際的にもそうならない。結果としての所得の分配には控えめに言っても道徳的に問題がある。肝心なのはそれをどうしたいかだ。総合的な問題は、市場経済における賃金は他の価格と同様に、報酬というだけでなくインセンティブでもあることだ。分配の公正を理由に慈善的な価格方針をとれば、負のインセンティブ効果を招きかねない。要するに、いつもながら市場には、国民の支援を意図した発案をかえって前より困窮させるものに変える苛立たしい傾向があるのだ。このため貧困撲滅の構想は、単に賃金を上げるよりもっとずっと高度なものでなければならない。支払われる賃金を操作するよりは、いっそ労働者に(税制などを介して)金銭を与えるほうがましなことが多い。

(p.260 - 261)

 

 もっと単純な問題として、わかりやすい「善さ」に基づいて「医療や保健に関わっている人は共通善を担っているのだからもっと給料を上げてあげるべきだ」と主張することは、恣意的で不公正なきらいがある。

 たとえばコロナ禍では持続化給付金や家賃支援給付金がセックスワーカー性風俗店に支給されないことは大問題になったし、この仕打ちは公平性や正義という観点から見ても正当化できないだろうが、これはまさしく「医療や保健は"善い"仕事だから特別に支援してあげる必要がある」という発想の裏返しであるだろう。

 また、大阪府アメリカなどで行われた対応はコロナの影響を長引かせたり悪化したりして、医療者に多大な負担をかけている。見方によれば、これは「自由」という特定の「善さ」を行政に持ち込んだことの帰結だ。世界の状況や社会・国家のシステムが複雑になればなるほどコミュニタリアニズムの「共通善」が衰退してリベラリズムの価値中立的なテクノクラシーの影響力が増すことには然るべき理由があるし、それは多くの場合には望ましいことでもあるのだろう。