道徳的動物日記

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インセンティブから目を逸らして社会を語るな(読書メモ:『自己責任の時代:その先に構想する、支えあう福祉国家』)

 

 

 

 タイトルが想像できるように、近年に蔓延している(とされる)、いわゆる「自己責任論」を批判する本。

 また、著者のヤシャ・モンクの教師のひとりがマイケル・サンデルであるらしく、「謝辞」でも真っ先にサンデルの名前が挙げられている。

 そして、この本の内容も、ベストセラーになったサンデルの『実力も運のうち』とかなり近い。あちらは「能力主義」を批判する本であったが、かなりの部分までは「自己責任論」批判と重なるものであった。主に批判する思想家がジョン・ロールズであるところも似ている(サンデルはフリードヒ・ハイエクも強めに批判していたのに対してモンクは運の平等主義者を批判しているところに違いはあるが)。政治家などの発した世俗的な言葉を引きながら「最近ではこんな風潮があります」と紹介しつつ、ロールズなどの思想家の著作にその風潮の原因を見出して批判する、という構成もいっしょ。

 そして、残念ながら、『自己責任の時代』も『実力も運のうち』と同様の問題を抱えている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 なんといっても、「自己責任」に代わるものとして提示される「肯定的な責任像」とやらが、中身がなくてショボい。また、サンデルが「能力主義」に代わるものとして提示した「共通善」と同じく、肝心なところはみんなの同意や話し合い…「民主的討論」に丸投げされてしまっているのだ。

 

第二に、特定の行動やその帰結についていつ市民が結果責任を負わされるべきなのかは、客観的に見てどんな行動に責任を負うべきかに関する何らかの抽象的な、時には超越的理由に基づく前制度的説明によって定まるのではない。むしろ我々が市民に抱く期待は、それ自体が、どの価値を優先するかについての民主的討論ーーできれば政治理論上の主張から一定の見識を得た、ただし政治理論によっては決着のつけられない討論ーーに託されるのである。

 

(p.193)

 

 モンクはこの本のなかでロールズなどの議論を散々批判するだけでなく、弱者への道場から責任という概念を否定する現代の左派についても「結果として弱者を対等な人間と見なさない発想を招き寄せている」として批判している。しかし、「責任を負わされるべきタイミングはいつなのか」をはっきりとさせずに(「政治理論上の見識を得た」という但し書き付きで)民主的討論に任せるモンクの議論が、新たな責任像を提出するものであるとは、到底言えない。

 責任に関する議論を行うなら、それがいつ発生するものであるかという基準や方針を、(大まかであってもいいから)示さなければならない。法律や給与・福祉の需給などの制度上のものであっても、非難や称賛などの日常的なものであっても、「どういうことをしたらペナルティを受けたり非難されたりしてしまうか」「どういうことをすればメリットが得られたり褒められたりしてもらうか」ということを人々に理解させるようにして、社会や組織や集団にとって害になる行動を抑制させたり益になる行動を積極的に行わせたりするように個人を促すこと、つまりインセンティブを提示することが、責任という概念の重大な要素だ。モンクやサンデルはこのインセンティブという発想を嫌っているようだが、実際のところ、それがなければ社会はまわらない。ロールズはこのことを理解しているので、批判を承知で自らが提示する社会像にインセンティブの発想を組み込んだ(実際にはロールズは「責任」ではなく「正当な予期」という言葉を用いているが)*1。そして、「責任」が討論によってその都度に基準が変動するようなあやふやなものになると、人々はペナルティを避けたりメリットを得たりするためにどのように行動すればいいかもわからなくなり、もはやインセンティブとして機能しなくなる。

 

 モンクやサンデルは、「社会を成立・維持させるためにはインセンティブが必要になるんじゃないの?」という当然の疑問に向き合っていない。彼らはインセンティブの必要性を論駁しているのではなく無視しているのであり、だからこそ、彼らが提示する社会像は向き合うべき面倒で複雑でイヤな物事が勘案されていない、薄っぺらい理想像にしかならないのだ。

 たとえば、モンクは「普通の人びとには責任を尊重すべき理由があり、その自覚もある」(p.190)から、インセンティブ的な責任像がなくなっても人々は福祉に頼るフリーライダーにとならずに努力して生産的な行為(または他者への責任を引き受けるケア行為)を行う、と楽観的に捉える。……だけど、わたし自身のこともわたしの身のまわりの人たちのことを想像してみると…もしかしたら「普通の人びと」ではない特殊な人ばかりが集まっているかもしれないけれど…とても、そうは思えない。

 本書では主に福祉に関する自己責任の問題が取り上げられている。1970年代以前は生活保護や失業手当などを受給するのに条件はなかったが、現在では職を探していたり職業訓練などを行っていたりするなど勤労に前向きであることを証明しなければ受給できなくなっている、というのが問題視されている。モンクはこのことを「(勤労への復帰という)責任を果たさなければ福祉の受給資格が得られなくなる」と捉えて「懲罰的責任像」と呼ぶ。

 しかし、失業手当を受けながら生活していた経験のある身から言わせてもらうと、「責任を果たさないと福祉が貰えなくなる」ことを「懲罰」と呼ぶのはかなりミスリーディングだ。なんといっても、勤労に復帰する意欲さえ示していれば、実際に働かなくてもお金が貰えてしまうわけだから。フリーターや会社員として数年働いた後だと、月に何度かハローワークに行くだけで(微々たるものだとしても)お金が入ってくるというのはかなりラッキーなことに感じられる。もちろん、理屈の上では、わたしたちには人権があるんだし税金とか雇用保険とか払っているんだし人間は互いに支え合って社会を成立させているんだから、働けなくなったり仕事を辞めたりした人がお金を貰うのは当然のことである。しかし、その「当然のこと」が成立するようになったのは、20世紀に福祉国家が誕生してからという人類史レベルで見ればごく最近であるのを忘れてはいけない(これはモンクに限らず、ここ数十年続いている「新自由主義」を異常なものだとして、福祉が成立していた戦後の一時期こそが正常だと主張する人々が忘れがちなことである)。それ以前の人からすれば、「条件を満たさないと福祉を得られなくなる」ということがペナルティなのではなく、「条件を満たせば福祉を得られる」ということ自体がボーナスなのだ。

 実際に、私のまわりでは、失業手当をできる限り多く取得するための計画を練ったり実行したりする人間が何人かいる。どいつも働こうと思えば働ける人なので正真正銘のフリーライダーだ。また、そいつらのことを別の人々に話すと、みんなイヤな顔をしたり怒ったりする。自分の身近に社会のフリーライダーがいるというのは、やはり気分が良いものではないのだろう。……そう考えると、福祉の受給に条件を課すということには、充分な理由がある。ハローワークに行ったり職を探しているフリをし続けたりするのを面倒に思わせて、あるいは金額自体を大したものではなくすることで「これならふつうに仕事したほうがマシだな」と思わせて勤労への復帰を促すことは、労働市場を正常に機能させるという点でも意味があるだけでなく、福祉に頼らずにまじめに生きている人たちに対して「福祉を維持すること」についてまだしも納得させやすくなる。もしどんな人でも無条件で失業手当を受け続けられるになったら、まじめな人たちの大半には、そのような雇用保険システムや社会保障・福祉システム全般を維持することが馬鹿らしく思えてしまうだろう。……そして福祉の削減を主張するポピュリスト政党が登場したら、みんなそこに投票する。

 実際には、充分に厳しい条件を伴う福祉システムが存在している状況でも、フリーライダーの存在を誇張したり実態からかけ離れた表現をすることで福祉システムに対する人々の悪意を煽ったポピュリスト政党が当選する、というのは国内でも海外でも起こっていることだろう。とはいえ、それに対して「そもそも福祉に条件なんていらないのです」なんて言い出しても、火に油を注ぐだけだ。……モンクやサンデルは「人間の対等な尊厳」や「だれもが承認を得られること」を重視するのと同時に「共通善」や「民主的討論」を理想化しているが、市井の人々の大半は(まじめであったり身近な人々を愛していたりするがゆえに)「人間の対等な尊厳」や「だれもが承認を得られること」をとくに重んじていないという事実から目を逸らすべきではない。市井の人々が共通善について民主的に討論したのちにもたらされる結論は、文系の学者や院生が教室や学会で話し合った後の結論に比べて、ずっと苛烈なものになるだろう。

 

 社会に「懲罰的責任」観や「能力主義」が蔓延した責任をロールズや運の平等主義者に着せようとしたりしなかったりする煮え切らない筆致も、『自己責任の時代』と『実力も運のうち』に共通する問題点だ。たとえば、モンクの言うところの「前制度的責任」やサンデルの言うところの「値する(ディザート)」という発想は、ロールズの『正義論』では採用されていないし、彼らもそのこと自体は認めている。しかし、ロールズの「正当な予期」の概念は結果的に「前制度的責任」や「値する(ディザート)」という発想を人びとに信じさせることになる、と彼らは批判する。……だが、そもそも、政治家や市井の人びとは『正義論』を読んだりロールズの議論を聞いたりしたうえで考えや価値観を定めているわけではないということは、モンクも認めているようだ。

 モンクやサンデルは、政治家などの言説を題材にした社会評論と、他の哲学者たちの思想に関する専門的な議論が行ったり来たりさせながら、「市井の人々が間違っていて不道徳的な意見を信じるようになったのは、ロールズなどのリベラリストのせいだ(しかしロールズなどはその間違っていて不道徳的な意見そのものは言っていないし、市井の人々がロールズなどを読んでいるわけでもない)」と主張する。端的に言ってこの主張は破綻しているし、サンデルやモンクがロールズと同じく政治哲学者であるとすれば、論敵を卑劣な方法で攻撃しているようにも思える。

 モンクやサンデルが向き合うべきは、懲罰的責任観が普及したり新自由主義の風潮が到来したりする以前の、(原初状態の!)人間とはどういう存在であるか、ということだ。ロールズはそれを真剣に考えたからこそ、インセンティブの発想を自身の正義論に持ち込んだ。懲罰や恩賞の基準を提示することなく民主的討論や共通善に丸投げすれば批判を回避することはできるかもしれないが、それは社会像を提案するという政治哲学者の務めから逃げているだけなのだ。