道徳的動物日記

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「共通善」で問題が解決できるなら苦労はしないよ(読書メモ:『実力も運のうち』①)

 

 

 

能力主義」に対する批判には、二つのパターンが考えられる。「不徹底な能力主義」に対する批判と、「能力主義」そのものに対する批判だ。

 

 学問的なものにせよインターネットなどにおける世俗的なものにせよ、能力主義に関する昨今の議論でなされている批判の大半は、「不徹底な能力主義」に対する批判である。

 この批判は、「能力主義は出自や属性に縛られずに自分の意志と努力と才能で自分の人生を決定するチャンスを人々に与えるのであり、機会の平等を保証して、社会の流動性を高めるものだ」という主張に対して、「実際には能力主義の社会でも人々は出自や属性に縛られており、生まれ落ちた環境や場所によって人々の人生はあらかた決定されている」、という事実を突きつけるものだ。

 たとえば、アメリカでは大学受験は階層移動のチャンスを人々にもたらして社会の流動性を担保するための制度と見なされているが、実際には、入学のために求められる試験や人物評価はどんどん複雑化して高コストなものとなっているために、富裕層にとって有利なものとなっている。それどころか、該当の大学のOBである親が多額の献金をすればその子どもが入学をしやすくなるという制度は「レガシー制」として合法的に認められているし、富裕層たちは法律のグレーゾーンを突く「裏口」入学や違法な「通用口」入学も大金を払って利用しているのである。

 こうした事情から、アメリカでは他の国よりもむしろ社会的流動性が低くなっており、人生の選択肢は生まれた家の経済的事情に左右されるようになっている。能力主義は、「だれであっても勉強さえすれば良い大学に入って良い仕事に就く機会を得られる。勉強を怠った人は良い大学に入れずその後の人生のチャンスが狭まるかもしれないが、それは自己責任だ」という主張にお墨付きを与えながらも、実際には不平等なシステムである大学入試を正当化してしまうことで、不当な格差を肯定しているのだ。

 

 不徹底な能力主義に対する批判は、さらに二つのパターンに分かれる。ひとつめは、「徹底した能力主義を実現せよ」という批判だ。この場合、試験の内容を変えたりレガシー制を廃止したり裏口入学を禁止したりするなどの処置をとることは要求するが、大学受験のシステムや「入った大学によって将来の人生の機会が大幅に変動する」という状態を保つことはヨシとされる。能力主義が理想通りに実現すれば機会の平等が保証されるという主張は肯定したうえで、理想にそぐわない現状の方を改善すべきだ、と主張するわけである。

 ふたつめの批判は、能力主義が徹底したものになることなどありえず、不平等な入試制度のような問題は必ずどこかで発生するのだから、能力主義は絵に描いた餅であり実現不可能なものである、という批判である。理想的な条件下では能力主義が機能して「努力ができて才能のある人が報われる」という機会の平等が保証されるとしても、現実では制度を悪用する人があらわれたり既得権益が介入したりしてくる事態は必ず起きるのであり、理論通りに機会の平等が保証されるわけではない。むしろ、能力主義は不純物の存在を見過ごして計算を行ってしまうために、必ず間違った結果を生み出してまう。いわば、「摩擦のない平面の誤謬」を犯しているのだ、と批判者たちは主張するのだ*1

 議論の場でなされている「不徹底な能力主義」に対する批判の多くは、ふたつめのものであるようだ。批判者たちは「能力主義が理想とするような平等な競争なんて、実現されるはずがない」と冷静に認識したうえで、能力主義者たちの欺瞞を糾弾しているのである。……とはいえ、厳密にいえば、「不徹底な能力主義」に対する批判は能力主義そのものに対する批判ではない。「理想通りに実現することが不可能だから能力主義は問題である」という批判は、「もし理想通りに実現することができるなら、能力主義は正当である」という主張に対する反論にはなっていないのだ。

 

 サンデルの『実力も運のうち』のポイントは、不徹底な能力主義に対する批判だけでは済まさずに、能力主義そのものに対する批判にまで踏み込んでいることにある。

 たしかに、この本の「序論」では裏口入学がまかり通るアメリカの入試制度が批判されており、前半を読む限りでは「不徹底な能力主義」を批判する本であるかのように思える。各種の新聞記事やWeb媒体に掲載されるサンデルへのインタビューも、「不徹底な能力主義」批判に焦点をあてた内容となっていることが多い。……しかし、裏口入学は不当で非道徳的であることなんて誰にとっても明白だろうし、アメリカン・ドリームの理想とは裏腹にアメリカは格差が固定化されて機会の平等が保証されていない国になっていることも、ちょっとでもアメリカの社会や文化に興味がある人ならみんな知っている。そんなことをいまさらドヤ顔で指摘したところで、なんの新鮮味もありはしない。サンデルの議論の要点も、そこにはないのだ。

 

 この本の前半では、(不徹底な)能力主義が現実の社会に引き起こしている様々な問題について詳細に議論されている。そして、後半にさしかかる第5章の「成功の倫理学」では、現実の問題から離れて、倫理学や政治哲学における規範的主張としての能力主義が槍玉に挙げられることになる。つまり、サンデルは摩擦のない平面においてのみ実現する「完全な能力主義」を想定したうえで、そのような能力主義ですらも否定されるべきである、と論じるのである。

 すこし長くなるが、彼の批判を引用しよう。

 

だが、その強い魅力にもかかわらず、能力主義が完全に実現しさえすれば、その社会は正義にかなうという主張はいささか疑わしい。まず第一に、能力主義の理想にとって重要なのは流動性であり、平等ではないことに注意すべきである。金持ちと貧乏人のあいだの大きな格差が悪いとは言っていないのだ。金持ちの子供と貧乏人の子供は、時を経るにつれ、各人の能力に基づいて立場を入れ替えることが可能でなければーーつまり、努力と才能の帰結として出世したり没落したりしなければーーおかしいと主張しているにすぎない。誰であれ、偏見や特権のせいで、底辺に留め置かれたり頂点に祭り上げられたりすべきではないのである。

能力主義社会にとって重要なのは、成功のはしごを上る平等な機会を誰もが手にしていることだ。はしごの踏み板の間隔がどれくらいであるべきかについては、何も言わない。能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ。

このこと自体は、能力主義に反対する議論ではない。だが、それはある疑問を提起する。能力主義的な競争の結果として生じる不平等は、正当化されるだろうか?能力主義の擁護者は「イエス」と答える。全員が平等な条件で競い合うかぎり、その結果は正義にかなっているというのだ。

(……中略……)

この議論に説得力があるかどうかは、才能の道徳的地位にかかっている。最近の公的言説において非常に目につく出世のレトリックを思い起こしてみよう。政治家たちはこんなふうに公言する。出自がどんなに卑しくても、われわれは誰もが、才能と努力の許すかぎり出世できなければならない、と。だが、そもそも才能と努力の許す限りであるのはなぜだろうか?自分の才能が自分の運命を決めるのであり、人は自分の才能がもたらす褒賞に値するのだと仮定するのはなぜだろうか?

この仮定を疑うのには二つの理由がある。第一に、私があれこれの才能を持っているのは、私の手柄ではなく、幸運かどうかの問題であり、私は運から生じる恩恵(あるいは重荷)を受けるに値するわけではない。

(……中略……)

第二に、自分がたまたま持っている才能を高く評価してくれる社会に暮らしていることも、自分の手柄だとは言えない。これもまた運がいいかどうかの問題なのだ。

(……中略……)

能力主義の擁護者が応戦のために持ち出すのは、努力と勤勉だ。彼らはこう主張する、勤勉なおかげで出世する人びとは、自らの努力が生む成功に貢献しているのだから、彼らの勤勉さは称賛に値すると。この主張はある程度まで正しい。努力は大切だ。どんなに才能があろうと、それを開花させる努力なくして成功はおぼつかない。すばらしい才能に恵まれた音楽家であっても、カーネギー・ホールで演奏するほどの腕前になるには長い時間をかけて練習しなければならない。ずば抜けた素質を持つアスリートであっても、オリンピック代表になるには何年にもわたる厳しい練習に耐える必要がある。

だが、努力が大切であるとはいえ、勤勉なだけで成功が手に入ることはめったにない。オリンピックのメダリストやNBAのスター選手が二流の選手と異なるのは、厳しいトレーニング法だけではない。多くのバスケットボール選手がレブロンに劣らず厳しい練習を積んでいるにもかかわらず、コート上で彼に匹敵する偉業をなしとげられる者はほとんどいない。私が昼夜を問わず練習に励んだところで、マイケル・フェルプスより速く泳ぐことは決してできないだろう。金メダル保持者で世界最速のスプリンターと考えられているウサイン・ボルトは、同じく才能あるスプリンターでトレーニング・パートナーのヨハン・ブレークが自分より熱心に練習していることを知っている。努力がすべてではないのである。

(……中略……)

能力主義の理想に欠陥があるのは、才能の道徳的恣意性を無視し、努力の道徳的意義を誇張しているためだとすれば、ほかにはどんな正義概念がありうるかーーまた、そうした正義概念が代わって提示する自由や報いの概念はどんなものになるかを問う必要がある。

(p.180 - 185)

 

 既得権益などの社会的な障壁を取り除いて、徹底した能力主義を実現できたとしても、どんな「才能」を持って生まれて落ちるかは本人の意志にはよらない運の問題だ。いくら努力をしたところで、結果は才能の有無によっても左右される。本人の意志によらない出自や属性を理由とする不平等が道徳的に不当であるなら、同じく、才能を理由とする不平等も道徳的に不当であるはずだ。……これが、サンデルによる能力主義批判の、ひとつめの論点である。

 この批判は、「正義」や「公正」といった規範的な概念に関わるものだ。

 ただし、サンデル自身も留意しているように、才能が本人の意志によらず不平等に分配されているという事実に基づいた能力主義批判は、倫理学や政治哲学の世界ではとくに目新しいものではない。

 実のところ、サンデルにとっての主要な論敵であるジョン・ロールズこそが、才能の不平等の問題に取り組んだ政治哲学者のなかでももっとも有名で代表格であるひとだ。また、サンデルはフリードヒ・ハイエクについても紹介している。ハイエクが『自由の条件』で展開した自由市場リベラリズムでも、ロールズが『正義論』で展開した福祉国家リベラリズム(平等主義リベラリズム)でも、才能に基づいた所得や資産の不平等を正当化しようとする能力主義に対する反論がなされているである。

 ロールズどころかハイエクですら、「市場において、人々はどんな才能を持っていてそれを市場でどのように活かすことができているか」という能力の問題と、「道徳的には、人々はどれだけの資産や所得を得られることに値するべきか」という価値の問題とを区別している(ハイエクは再分配に否定的であり、ロールズは再分配の重要性を強固に主張しているという点では真逆であるのだが)。

 

 しかし、サンデルは、ハイエクロールズの議論ですら能力主義に対する有効な反論になっていないと批判するのだ。ここで、サンデルによる能力主義批判のふたつめの論点が顔を出してくる。ひとつめの批判は規範的な概念に関わるものであったのに対して、ふたつめの批判は、能力主義が現実の人々に発生させる「心情」に関わるものである。そして、こちらの批判の方がずっとオリジナリティがあって、『実力も運のうち』で展開される議論の核心となっているのだ。

 

 サンデルによると、能力主義は勝者と敗者のそれぞれに次のような心情を生み出す点で、有害である。

 能力主義を前提とする社会では、ある人がどれだけの収入を得られていたりどのような社会的地位についているかは、その人の才能と努力をただしく反映したものであるとされる。勝者はその能力と努力のゆえに勝者としての地位に値して、敗者は能力と努力の欠如ゆえに敗者としての地位に値する、と見なされるのだ。つまり、能力主義社会においては、ある人の社会的地位や所得はその人自身の価値を示している、と判断される。

 そのために、能力主義社会の勝者たちは驕りを感じる。「自分がいまこんなに収入を得ていてこんな地位についているのは、生まれつきのアドバンテージや運の問題などではなく、自分自身の力を発揮して戦って勝ち抜いた結果であるのだ」と思うことが許されてしまうからだ。

 また、能力主義社会の勝者たちは、敗者を侮蔑するようになる。能力主義のロジックでは、「運」は原則的に不在とされる。ある人の賃金や社会的地位が低く、ほかの人たちに比べて不幸で惨めな生活を過ごしているとしても、それはその人の能力のなさや努力不足、意志の欠如や怠惰さがもたらしたものであると見なされる。したがって、これまでの人生でがんばったり自分なりに能力を活かそうとしてきたけれど、巡り合わせやタイミングが悪かったりがんばる方向を間違えたりした結果として敗者になる、という可能性は想定されないのだ。

 そして、能力主義社会の敗者たちは屈辱を抱くようになる。たとえば宗教的規範が強くて、「神の恩寵は人の努力とは関係なくわたしたちには与り知らない理由で与えられる」といった考え方が通底している社会では、弱者は苦しくはあっても惨めさや屈辱を感じることはないかもしれない。どんな社会であっても賃金や社会的地位の低さは本人の生活を制限して様々なストレスを与えることにはなるだろうが、「わたしはたまたま神の恩寵に恵まれなかった」「自分は運が悪かだっただけだ」と思えることができれば、自分が弱者であることは自己否定につながらない。しかし、能力主義のロジックでは、自分の賃金や社会的地位が低いことは運や巡り合わせの悪さによるものではなく、自分の無能さや怠惰さをただしく反映したものであるとされる。したがって、能力主義社会の敗者たちは自分に言い訳をすることができない。彼らは、勝者たちからの侮辱に耐えつつ、「おれに能力がないのが悪いんだ、おれが頑張らなかったのがいけないんだ」と思いながら生きていかなければならないのだ。

『実力も運のうち』では、アメリカ社会における労働者の「絶望死」の問題などが取り上げられながら、敗者たちが抱く屈辱の感情は彼らの健康や生死にまで影響を与えていることが指摘されている。また、強者が驕りや侮蔑の感情を抱くことで、彼らとそうでない人たちとの対立はますます深まる。もし仮に能力社会は公正や正義などの観点では問題ないものだとしても、人々の間に分断を招いて社会の連帯を破壊するために、とうてい受け入れることはできない。……これこそが、サンデルの主張の要点である。

 

 この本のなかでもとくに批判の対象となっているのは、ドナルド・トランプの前の大統領であるバラク・オバマであり、また大統領選でトランプと対峙したヒラリー・クリントンである。たしかに、彼や彼女の発言のなかには、サンデルが指摘するような「驕り」が滲み出ていることがある。たとえば、ヒラリーは大統領選でトランプ支持者たちを「みじめな人たち」と呼ばわったことで反感を買った*2。また、オバマペンシルバニアの人々を「銃や宗教にすがる、田舎町の人たち」と表現したことで批判された*3

 アメリカの知的エリートは人種的マイノリティや性的マイノリティには同情的で寛容であり、彼らの権利を尊重したり彼女らを傷付けないように配慮した言葉を用いたりするが、労働者階級の白人のことはためらいもなくバカにする。フィクションのなかでも、労働者階級の父親は道化としての役割が与えられていることが大半であるし(サンデルは『ザ・シンプソンズ』のホーマー・シンプソンを例に挙げている)、中西部の田舎町などが映画に登場する際には「まともな人間がいてはいけない場所」や「脱出すべき場所」として描かれていることが多い*4

 サンデルは、2016年にトランプが大統領選で勝利したことを、都会的で成功した知的エリートに対する田舎の労働者たちの反逆であるという風に論じている。能力主義社会の勝者たちはあまりにも明け透けに「驕り」を表明していたために、敗者たちの「屈辱」の気持ちを逆撫でして、彼らの怒りに火を付けたのだ。

 ……とはいえ、実のところ、トランプが勝利した理由を「驕れるエリートに対する労働者の反逆」というストーリーで解釈すること自体は、とくにオリジナリティのある発想ではない。この本のなかでも引用されているアーリー・ラッセル・ホックシールドの『壁の向こうの住人たち:アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』や、J・D・ヴァンスによる『ヒルビリー・エレジーアメリカの繁栄から取り残された白人たち』のの原著が出版されたのが2016年であるように、トランプが大統領選に勝利する前から、アメリカ社会の「分断」や「アイデンティティ・ポリティクス」は意識されてきた*5むしろ、最近ではそのような分析が実際に妥当なものであったかどうかが疑われるようになっているくらいだ。『実力も運のうち』の原著が出版されたのは2020年であるが、学問的なトレンドからみれば、「心情」に関するサンデルの議論それ自体には、やや時代遅れな感がある。

 彼の議論にオリジナリティがあるとすれば、心情に関する議論を政治哲学の規範的な議論と結び付けて論じている点にあるだろう。

 

 サンデルによると、能力主義を批判しているはずのハイエクロールズですら、勝者の「驕り」や敗者の「屈辱」を発生させないような理論を構築することには失敗している。両者とも、「経済的報酬は人びとが値するものを反映すべきだという考え方」を拒絶しており、ある人が社会に対する功績(=merit≒能力)を通じて得た所得や資産とその人自身の価値を結び付けて考える「世間一般の素朴な見解」を否定している(p.197)。しかし、彼らの議論は人間の心情について充分に考慮したものではない、とサンデルは批判するのだ。

 

功績と価値の違いを心に留めておけば、所得の不平等もそれほど不愉快なものではなくなるとハイエクは言う。こうした不平等が人びとの功績とは無関係であることを誰もが知っていれば、知らない場合とくらべ、金持ちはもっと謙虚であり、貧乏人はもっと心穏やかであるはずだ。だが、ハイエクが言うように、経済的価値が不平等の正当な根拠だとすれば、成功をねたむ姿勢が弱まるかどうかはそれほど明らかではない。

こう考えてみよう。成功者が、自分の成功は美徳や功績ではなく貢献の価値を測るものだと考えている場合、彼らが自らに語る物語は実のところどう違うだろうか?また、恵まれない人びとが、自分の悪戦苦闘は自らの人格をおとしめるものではなく、自分が提供するものの乏しい価値を反映しているにすぎないと考えている場合、彼らが自ら語る物語はどう違うだろうか?

道徳的にも心理的にも、功績と価値の区別は無視できるほど小さくなっている。これは、お金がほぼあらゆるものの尺度となる市場社会にとりわけ当てはまる。こうした社会では、裕福な人びとに、彼らの資産は社会への貢献の優れた価値(だけ)を反映しているにすぎないと気づかせても、おごりや自己満足の解毒剤にはなりそうにない。いっぽう、貧しい人びとに、彼らの貧しさは彼らの貢献の低い価値(だけ)を反映していると悟らせたところで、自尊心を回復させる強壮剤となることはほとんどない。

(p.200)

 

依然として、次のような問いが残っている。人びとは市場がもたらす経済的報酬に道徳的に値するという考え方を拒否するにもかかわらず、平等主義リベラリズム能力主義的おごりをかき立ててしまうのはどうしてだろうか?まず、ロールズが正義の基盤としての功績を否定することで、何を言おうとしているのかを明らかにすることが重要だ。ロールズは、自分で手にする所得や地位を正当に要求する権利は誰にもないと言いたいわけではない。正義にかなう社会にいて、懸命に働き、ルールを守って行動する人は、自分で獲得するものを得る資格がある。

ここでロールズは、微妙だが重要な区別をするーー道徳的功績と、彼の言う「正当な期待に対する資格」のあいだに。その違いとは、功績の主張とは異なり、資格が生じるのはゲームの一定のルールが定められている場合に限られるという点にある。そもそものルールを設定する方法は、われわれにはわからない。ロールズの論点はこうだ。われわれはそうしたルールを、さらに広く見れば社会の基本構造を規定すべき正義の原理をまず初めに特定するまで、誰にどんな資格があるかを知ることはできないのである。

この区別と能力主義をめぐる議論との関わり方は次のようなものだ。すなわち、道徳的功績を正義の基盤とすることは、高潔な人々や功績のある人びとに報いるためにルールを設定することだろう。ロールズはこれを拒絶する。彼は経済システムをーーさらに言えば国家構造をーー美徳を称えたり品格を育んだりするためのスキームと見なすのは間違いだと考えている。正義についての考慮は、功績や美徳についての考慮に先立つのである。

これが、能力主義に対するロールズの反対論の核心だ。正義にかなう社会において、裕福になったり特権的地位を得たりする人びとにその成功を手にする資格があるのは、そうした成功によって彼らの優れた功績が証明されるからではない。そうではなく、それらの利益が、社会の最も恵まれないメンバーを含むあらゆる人びとにとって公正な仕組みの一部である場合に限られるのだ。

(……中略……)

一見すると、経済的成功をめぐるロールズの非能力主義的な考え方は、成功者には謙虚さを、恵まれない人びとには慰めをもたらすはずだ。それはエリートにありがちな能力主義的おごりを抑制し、権力や資産を持たない人たちが自尊心を保てるようにするに違いない。私が、自分の成功は自分の手柄ではなく幸運のおかげだと本気で信じていれば、この幸運をほかの人たちと分かち合う義務があると感じる可能性が高いだろう。

こんにち、こうした感情は不足している。成功者の謙虚さは、現代の社会・経済生活において目立つ特徴ではない。ポピュリストの反発を誘発した要因の一つは、労働者のあいだにエリートに見下されているという感覚が広がっていることだ。それが事実であるかぎり、現代の社会保障制度が、正義にかなう社会というロールズの理念に達していないことを示すものだろう。あるいは、平等主義リベラリズムは結局のところ、エリートの自己満足をとがめていないことを示唆しているのかもしれない。

(……中略……)

〔労働者による、エリートに対する〕こうした反発を招く、成功に対する思い上がった態度は、ロールズ哲学が肯定する資格の意識によって助長されてもおかしくないーーたとえ、その哲学が道徳的功績を拒否したとしても。

(p.207 - 212)

 

 サンデルによるロールズ批判の核心は、以下の通りである(重要なので太字にした)。

 

善に対する正の優先を強調すれば、社会的評価は個人の道徳観の問題となり、そのせいでリベラル派はおごりと屈辱の政治に目が向かなくなってしまうのだ。

(p.214)

 

 というわけで、ハイエクロールズの主張に対する代替案としてサンデルが持ち出してくるのが「共通善」である。所得や資産の分配のあり方についてばかり議論していても、人々の心情の問題に対処することはできない。ほんとうの意味で真っ当な社会を成立させるためには、政治哲学は価値観の領域にまで踏み込む必要がある。

 たとえば、市民たちを教育して、「わたしたちは同じコミュニティに住んでおり、互いが互いに対して責任を背負っている。社会の連帯はわたしたちの幸福に欠かせないものであり、だからこそわたしたちひとりひとりがそれを守るための努力をしなければならない」といった価値観を植え付ければいい。そうすれば、競争に勝った人であっても「わたしが運良く成功して金持ちになったとしても、それはわたし一人の手柄ではなく、わたしを支えて活躍を後押ししてくれるコミュニティがあってこそだ。わたしが得ているものは、わたしの才能と努力だけでなく、みんなの協力があってこそだ。だから、わたしは自分が得たものを社会に還元しなければならない」という風に寛容で気前のいい考え方をするようになるだろう。なによりも、勝者たちは驕りの代わりに謙虚さを得るようになる。そうなれば敗者に対する侮蔑もなくなるし、すると敗者たちは屈辱も感じずに済むようになるはずだ。……これが、サンデルの言い分である。

 

 Twitterなどで感想を調べてみても、『実力も運のうち』を読んだ人の多くは、「現状の能力主義社会に対する批判は鋭くて優れているし、ロールズハイエクに対する批判も興味深いが、サンデルが提示する解決策には抽象的で具体性がなく曖昧だ」という感想を抱いているようだ。わたしもそう思う。

 とはいえ、サンデルがこの本のなかで「共通善」の中身について明確に論じない理由は、なんとなく察することができる。おそらく、彼の頭のなかにある共通善とは、リベラルな市民の目からみればかなり保守的なものである。それを具体的に述べたうえで「この価値観をみんなに共有させるべきだ」と論じたら、角が立って批判の的となるだろう。そうなると、本の前半で展開される能力主義批判がいくら優れていても、結論部分でミソがつくことになってしまう。だから、予想される批判を避けるために、サンデルは自分が提示したい「共通善」の内容を曖昧にごまかしているのではないだろうか。

 

 さらに、実のところ「共通善」は能力主義社会に対する処方箋としては不充分で頼りない。きっと、サンデル自身もそのことに気が付いている。

 多くの政治哲学者たちが「正」の問題を優先して「善」の問題に踏み込まないのは、個人の価値観に侵入することそのものに不当さを見出しているからだけでなく、個人の価値観を変えることの難しさを理解しているからでもあるだろう。学校での教育をなんとかしたり市民的連帯を感じられるような場を増やしたりするだけで人々の価値観が変えられるとしたら、苦労はしない。だれかがある価値観を成立させる背景には有形無形の文化や慣習が存在するのであり、それを変えるのは社会制度を変えることよりもずっと難しいことだ。さらに言うと、ある人が自分なりの価値観を成立させる背景には、その人なりの人生経験が影響している*6アメリカ社会のエリートにはほかの国のエリート以上に謙虚さがなく驕りが目立つことはたしかであるから、教育や社会的な規範をなんとかすれば人々の心情にある程度までの影響を与えられることは、事実であるのだろう。しかし、その影響力がどれほどのものであるかは、わかったものではないのだ。

 そもそも、起業家や政治家といったエリートの人々は、どこの時代のどこの国でも謙虚さからは程遠い存在であるかもしれない(謙虚な人はそもそも起業家や政治家に適性がない、と考えることもできる)。「不徹底な能力主義」の社会であっても、彼らが活躍したり成功したりするに至るまでには、運の良さや既得権益が関与しているのと同時に、本人自身の意志や努力も関与している。自分が努力をしたすえに成功したという経験は、「共通善」などという綺麗事よりもずっと強く、その人の主観的な認知に影響を及ぼすはずだ。

 そして、エリートたちは驕りというネガティブな感情だけでなく誇りというポジティブな感情も同時に抱くはずである。というか、ある意味では驕りと誇りは表裏一体であり、切り離せないものであるかもしれない。ロールズが「正当な期待に対する資格」を認めたのは、結局のところその「正当さ」は否定しようのないものであり、期待に対する資格という発想を抜きにして人々が努力したり活躍したりする社会を想定することは不可能であるからかもしれないのだ。

 

 いずれにせよ、政治哲学では無視されがちな「心情」の問題に取り組んだのがサンデルの議論の美点である。しかし、その取り組み方が不徹底であり、「能力」や「努力」や「市場」をめぐる人間の心理に存在する難しい問題やジレンマについて、綺麗事や曖昧さによってごまかしているのがサンデルの議論の欠点だ。この問題については、次回の記事でもっと詳しく掘り下げることにしよう*7

 

 

*1:この表現はジョセフ・ヒースの『資本主義が嫌いな人のための経済学』の第3章「摩擦のない平面の誤謬ーーーーなぜ競争が激しいほどよいとは限らないのか?」から拝借した。

*2:

iwllgiveitatry.com

*3:

www.asahi.com

*4:この話題について、以前のブログ記事から引用しよう。

・地方に在住する伝統的で宗教的な白人は、ハリウッド映画に対して「自分たちのような人間が注目されることはない。たまにばかにされるために登場するぐらいだ」と言う感情を抱いているそうだ(p.167)。実際、私もハリウッド映画を見ていると保守的で田舎在住の白人に対する扱いがひどすぎて辟易することは多々ある(イギリスが舞台の映画でわざわざアメリカ南部の教会に行って主人公が(差別主義者の)白人を虐殺する『キングスマン』は最悪だったし、そこまで極端でなくても、保守的な人物がストーリー上の邪魔者や障壁としてしか描かれていない作品は枚挙にいとまがない)。

フランシス・フクヤマの『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』 - 道徳的動物日記

 

*5:この話題についてはこのブログでも散々に扱ってきたが、そのなかからいくつか紹介。

davitrice.hatenadiary.jp

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*6:もっと言えば、人々の価値観の背景には生物学的な要素が影響していることも、近年の心理学ではよく強調されることだ。

davitrice.hatenadiary.jp

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*7:ほんとうは今回の記事で一気に済ませるつもりだったのだけれど、ちょっと長くなり過ぎてしまったので、いったん区切ります。