前回の記事の下記の箇所についての補足も兼ねて。
資源に限りがなく、人々の間に価値観の争いがないユートピアの世界であれば、このような制度も成立するだろう。しかし、現実はユートピアではない。
<正義の情況>(circumstances of justice)は、人間の協働を可能かつ必要なものとする、通常の状態として描き出すことができよう。本書の冒頭で指摘しておいたように、社会は<相互の相対的利益(ましな暮らし向きの対等な分かち合い)を目指す、協働の冒険的企て>ではあるものの、通常その企ては利害の一致だけでなく利害の衝突によっても特徴づけられる。なぜ利害の一致が生じるかと言えば、各人がもっぱら自分の努力だけで暮らそうとした場合に比べて、ずっとよい暮らしを社会的協働が可能にしてくれるからである。だが、自分たちの協調行動が追加的に生み出した多大の便益がどのように分配されるかに関して、人びとは無頓着ではありえないので、利害の衝突が存在することになる。各人の目的を達成しようとするために、少ないよりは多い[便益の]取り分のほうを全員が選好するからである。それゆえ、相対的利益の分割を決定する多種多様な社会的制度編成の中から選択し、適正な分配上の取り分に取り分についての合意を裏書きするための諸原理が必要となる。こうした要求事項が正義の役割を規定する。これらの事項を必要・不可欠とする後ろ盾の条件こそが、<正義の情況>に相当する。
(p.170)
ロールズによると、正義の情況は「客観的・客体的な情況」と「主観的・主体的な情況」に分けられる。
「客観的・客体的な情況」は、以下の三種類:
(1)諸個人は体力と知力の面でおおよそ類似しており、他の人たちを支配できるほどに際立った体力や知力を持つ人はいない。
(2)どの人も攻撃に対して傷付き、どの人の計画も他の人たちが力を合わせられたら妨害されてしまう。
(3)資源の適度な希少性(moderate scarcity)…天然資源やその他の資源は、協働の枠組みが不必要になるほど豊富ではないが、協働の枠組みが成立し得ないほどには貴重ではない。人びとにマシな暮らしむきをもたらす程度の制度編成は実現可能であるが、制度によって算出される便益も人びとの需要(のすべて)を満たすほどではない。
「主観的・主体的な情況」とは、人びとのニーズや利害関心はほぼ類似しているとはいえ、人生計画や善の構想が異なることから、資源をめぐって対立する権利要求が打ち出されることがある(「利害関心の衝突」)、というもの。
また、人びとの知識や理性能力や記憶力などが制限されていること、不安や偏見や私事への執着によって人びとの判断が歪められることも、「主観的な情況」に含まれている(これは利己性や怠慢など「道徳上の落ち度」から生じる場合もあるが、大部分は「人々がおかれている自然本性的な状態の一部に過ぎない」(p.172))。
…議論を単純化するために、本書はしばしば、(客観的な情況のうちの)<適度な希少性>という条件と(主観的な情況のうちの)<利害関心の衝突>という条件を強調する。したがって手短に言うと、次のようになる。適度な希少性という条件のもとで、社会的利益の分割に関して相反する要求を人びとが提起するときにはいつでも、正義の情況が確立・定着する、と。生命と身体に対する危害の恐れがないところでは、体を張った勇気を必要とする直接の誘因が存在しないのと同様、正義の情況が存在しないならば、正義という徳目を必要とする直接の理由は存在しない。
(p.172)
『正義論』における議論に限らず、分配的正義…資源や負担の公平な分配とはどんなものか、ということ…について考える際には、「適度な希少性」と「利害関係の衝突」にを無視することはできないだろう。
なお、資源の量は一定ではなく、社会の制度や構造…「協働の枠組み」…のあり方によって増えたり減ったりするものであることにも留意しておくべきだ。単純に言えば、人びとが働いたり、様々なイノベーションが起こったりすることで、資源を増やすことができる。なので、一定以上の数の人びとを一定以上に働かせたり研究や起業などに向かわせることも考慮しておかなければならない。
もちろん、この「正義の情況」という発想に疑問を呈する人もいる。
たとえば、マーサ・ヌスバウムの『正義のフロンティア:障害者・外国人・動物という境界を超えて』では、「客観的・客体的な情況」の(1)と(2)を前提とする正義論では障害者や動物といった存在を正義の対象に含めることができないことを批判していた(健常者の成人がやろうと思えば容易に支配できてしまう存在は正義の対象にならない、ということになるので)*1。ヌスバウムは「[デビット・]ヒュームが力のだいたいの平等性に依拠していることは、彼の正義論にきわめて大きな悪影響を及ぼしている」(p.60)と書いたうえで、ロールズの議論もヒュームによる「正義の情況」論に依拠していることをかなり強く批判している。
とはいえ、上述の引用文にも示されているとおり、『正義論』のなかでは「力のだいたいの平等性」よりも「適度な希少性」と「利害関心の衝突」のほうが強調されているという点は留意しておくべきだと思う。
私見では、いわゆる「社会正義」的な議論では、この二点はとくに無視されることが多い。資源については「いま権力者や金持ちやマジョリティが持っているぶんを奪って他の人たちに平等に分配したら問題が解決するでしょ」という程度にしか考えていなさそうな人も多いし、利害関心については「間違った考え方をしている人や悪い意見を持っている人の利害関心なんて考慮しないのが正解っしょ」というくらいに思っていそうな人が多々いるように思えてしまうのだ。
ウィル・キムリッカが『現在政治理論』で解説していたような、マルクス主義(の政治哲学)では、「利害関心が対立する」という事態が解決されるべき問題であるされており真に善き共同体では「正義」は必要のないものとみなされる、ということも関連しているのだろう。
もちろん、リベラリズムにおいては、人びとの人生計画が異なっていることを前提にしたうえでそれぞれに自由に生きられる社会のほうが理想とされるので、利害関心の対立はどれだけ社会が進歩したところで不可欠的に生じるものとされていて、そのこと自体は問題でもないとされるはずだ。……とはいえ、マルクス主義者であると自認していない人ですら、このことはついつい忘れてしまいがちである。