道徳的動物日記

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日本じゅうがわたしのレベルに落ちたら…(『布団の中から蜂起せよ』読書メモ:追記)

 

 

 

 

 表題にもなっている、第4章の「布団の中から蜂起せよーー新自由主義と通俗道徳」から引用。著者(高島)が博士後期課程に進学した直後に鬱病になった、というくだり。

 

本当に博士後期課程最初の一年間、私はほとんど何もしなかった。年度末に提出させられる業績報告書に、「闘病中のため研究を中断している」と一言書いて提出した。本当に、それ以外に書けることがなかったのである。記入欄が半分以上真っ白いままのプリントを見て、さらに落ち込んだ。私はやるべきことができなかった「怠け者」なのではないかと思い、ぼろぼろ泣いて自分を責めた。鬱なんだから仕方ないじゃないか、と頭では理解していたが、この白い紙を見た教授が何を思うのか、想像するだけで恐ろしかった。

これを書いている現在、私は博士後期過程[原文ママ]の二年目を終えようとしている。今年度の成果物もほとんどなかった。ようやく実家を出たのだから寛解に向かうはずだろうと期待していた症状は、統合失調症というおまけをくっつけて拡大し、私は今も絶え間ない破綻の中にある。薬によって得られた強制的なCHILLの背後に、いつも巨大な経済的不安、学業への不安が迫っている。手出ししようのない場所で時間が進行し、むしょうに「助けてくれ」と叫びたい衝動に駆られる。来季の学費の支払いが、そして業績報告書が、そして何もできない自分が、心底怖い。

書かねばならないと思うので書いておくけれど、本当に「この国」(こんな表現使いたくないけど!)は研究者を育てる気がさらさらないのだと思う。私が学費・研究費のために借りていた日本学生支援機構の第一種奨学金(無利子の貸与型奨学金。第二種は利子がある)は、業績に応じて返還免除の仕組みがあったけれど、業績!結局業績なのだ。参照されるのはあくまでも業績であり、学生の経済的状況ではなかった。

現状の研究支援環境は、そのほとんどが優秀な成績を修めた人、将来の業績を期待しうる人に金を払うシステムになっている。まず研究したいと思う人間全員にもれなく安心して研究しうる環境を与える仕組みでなくては、全くもって意味がない。そしてとにかく書類手続きが多すぎる。書類一枚を書く体力のない人にも門戸を開くべきだ。話はそれからだ。本当にそこがスタートラインなのだ。社会は絶対に、「何もできない人」に対して腐るほど多くの選択肢を用意すべきなのである。「何かする」道も、「何もしない」道も、それぞれが等しい価値を持って解放されねばならない。そうでなくては間違っている。

 

(p.117 - 118)

 

 前回の記事でも触れた通り、この部分を読んだときには、わたしは高島に対して一定の共感を抱いた。

 20代の半ば、わたしは修士課程までは修了したが、博士後期課程に進学するかどうかを数年間迷い続けながらフリーターになっていた。哲学を研究したいとは思っていたがアカデミックな哲学論文を書くことは自分には難しいであろうと考えていたし、かといって他の学問には魅力を感じなかった。というか、そもそも、研究者に必要とされる諸々の能力…論理性、忍耐力、自己管理能力など…が自分には備わっていないことは痛いほど自覚していた。しかし、会社員にもなりたくなかった。わたしは本を読み続けて…「研究」とまでは言えなくても…勉強したりあれこれ考えたりすることを続けていたかったし、フルタイムで働き出すと本を読んだり思索したりする時間も無くなるだろうと恐れていたのである。

 それで、進学するかどうかの決断を引き伸ばしながらアルバイトをしていたわけだ。こうして書くと気楽に思えるかもしれないし、外から見ればたしかに「院卒の気ままなフリーター」ではあったのだが、内心では全然そうじゃない。将来への展望がまったく見えず収入や雇用の状況も不安定であり、一部の友人たちとは精神的な壁が出来て恋人にも見放されて、なにより家族との仲も最悪になるなかで、わたしの精神の状態はかなり悪化していった。鬱病と正式に診断されたわけではなかったし、統合失調症が生じさせる苦しみとは比べるべくもないだろうが、なんらかの病気に近い状態ではあったと思う(実家の窓ガラスを割ったりするなどの暴力的な発作も起こっていたし)。もちろん、研究どころか勉強も読書もロクにできないような期間のほうが長かった。

 実際のところ、進学や学業に関して不安になり精神的な病気まで生じるというのは、日本の…おそらく海外でも…大学院生の多くが経験していることだと思う。また、日本では研究者(とその志望者)に対する支援が海外よりも遥かに薄いということも事実なのだろう。客観的な一般論というレベルでも、おそらく、「日本は研究者に対する支援をもっと手厚くするべきだ」とは言えると思う。

 

 しかし、その支援が、「業績」をまったく問わず、「書類一枚を書く体力のない人にも門戸」を開かれているほどの、「研究したいと思う人間全員にもれなく安心して研究しうる環境を与える仕組み」にまでなるべきかどうかとなると、話はまったく異なる。

 もちろん、過去のわたしにとっては、そのような仕組みが存在していたらラッキーだったし、有り難く利用させてもらっただろう。きっとわたし自身の能力の限界からどれだけ支援されても大した論文は書けなかっただろうし、そもそも業績が問われないとなると研究をがんばる必要もないわけだから、のんびりと好きな本を読みながら、社会に価値として還元されるかどうかも不確かなお勉強を続けていたと思う。能力や業績も問わずに広く開かれている支援制度が存在するなら、わたしに限らず、同じようにして制度を濫用する学生は多発するはずだ。

 資源に限りがなく、人々の間に価値観の争いがないユートピアの世界であれば、このような制度も成立するだろう。しかし、現実はユートピアではない。研究者を支援するために使った金やリソースは、他のことには使えなくなる。そして、どんなことに金やリソースを使って支援すべきかということに関する意見は人々の間で分かれている。研究よりもスポーツや芸術を支援すべきだという人もいれば、労働に関する資格や技能の習得を支援したり起業を支援したりすべきだという人もいるだろう。女性の活躍を支援したほうがいいかもしれないし、移民や外国人を支援したほうがいいかもしれない。精神病を患った人に対する支援も必要であるだろう。そして、言うまでもなく、福祉や医療をはじめとして、金やリソースを分配しなければならない領域は他にもごまんと存在する。

 こうして考えると、わたしには、「業績や能力に関係なく研究を支援するべきだ」と言うことはとてもできない。研究支援の必要性を説くなら、「自分が研究したいから」と言うだけでなく、研究が社会にもたらす価値を説明しながら、他のことがもっと大切だと思っている人たちにも納得してもらえるように、研究支援の対象を選別するための基準を提示しなければいけないだろう。…そうして考えていくと、実際のところ、業績とはかなりいい基準である。院生たちにはダラダラと時間を浪費させたり制度にフリーライドし続けたりさせずに研究をがんばらせるためのインセンティブを与えるし、院生たちを助けるためだけではなく社会に価値を加えるための支援でもあるということを他の人たちに納得させやすい。

 もちろん、わたしにとっては、業績などを基準にした現在のシステムは災いである。わたしは自分の能力に自信を持っておらず、他の人たちと競走しながら一定以上の成果を出し続けることが求められるような環境は恐ろしくて耐えられない。実際、博士課程への進学や研究者になることを諦めた要因の一つは、研究者の世界は会社員や物書きのそれに比べてもずっと競争的だというところにある。……しかし、「わたしは自分の能力に自信がないし競争をするのも嫌いだから、業績などに関係なく安心して研究や勉強をダラダラと続けられるような支援制度を作ってほしい」と言うことはできない。それは正当化することが不可能な主張であり、単なるワガママであるからだ。

 

 最近では、社会運動に関連して、「日本人はもっとワガママを主張するべきだ」といった物言いがされることも多い。実際、日本人は他の国の人々よりも自分たちの権利を主張することが少なかったり、不利益を黙って享受するという傾向が強い、というのは事実であろう。……しかし、「正当な権利の主張」と「ワガママ」は異なる。結局のところ、社会とはわたしと他の人たちが構成するものだ。わたしが社会に対してなにかを要求したりなにかを支払わせようとするとき、負担を引き受けるのは「国」や「政治家」や「権力」だけでなく他の人たちでもある。わたしの権利は他の人たちの義務であるし、わたしが使った金やリソースは他の人たちが使いたかったことには使えなくなる。だからこそ、基準や理由を提示しながら、正当な主張とワガママを区別することは大切だ。

 上記は、(ジョン・ロールズの『正義論』やロナルド・ドゥウォーキンの『平等とは何か』などで展開されているような)分配的正義においては外すことのできない発想であり、社会についてのごく基本的な考え方でもある。……そして、分配的正義について考えるときにわたしの頭のなかにいつも浮かぶのが、『ドラえもん』のこのコマだ。

 

 

 わたしは自分が怠惰で能力に欠けており、規範意識すらもそれほど高くない人間であることを自覚している。長いこと両親の脛をかじって彼らが稼いできたお金に養ってもらってきたし、東京で一人暮らしを始めてからも見知らぬ人の善意に基づく支援を受けてきたし*1、公的な補助制度(家賃補助とか失業手当とか)も利用できるものは悪びれなく利用してきた。他の人たち…つまり社会からわたしが受けてきた恩恵は、わたしが社会に対して生じさせてきた価値をきっと上回っているだろう。そのことでとくに罪悪感を抱いているわけでもないし、卑屈になっているわけでもない。

 しかし、もし社会がわたしと同じような人々…怠惰で、能力がなく、隙あれば制度の濫用も厭わない人々…だけで構成されていたらと思うと、ゾッとする。きっと、そんな社会はまともに機能しない。だからこそ、この社会がわたしより勤勉で有能な人々に溢れているということは、わたしにとってラッキーなのである。

 業績などに基づくインセンティブ・システムによって勤勉で有能な人々を支援することすら、わたしにとってタメになることかもしれない。勤勉で有能な人々をよりがんばらせることで、長期的には社会に存在する資源の量が増えて、わたしもその資源を利用することができるかもしれないからだ。

 一方で、社会のなかには、わたしよりもずっと辛い状況にいる人や、不運にまみれた人もいる。病気や障害が原因で働くことができない人もいれば、環境や現状の制度が原因で自由に能力を発揮することができない人もいる。わたしがワガママを言うことは(たとえば「業績を考慮せず書類一枚も書く必要がないような研究支援制度が欲しい」と言うなど)、その人たちが使えたはずの金やリソースをわたしが横取りしようとすることである。……だからこそ、怠惰で能力がなくても、わたしはわたしなりに努力したり働いたりしなければならない。それは他の人たちの権利を守るためにわたしに課せられている義務である。

 また、わたしの人生を有意義なものとするためにも必要なことであろう。

 以下は、『ロールズ正義論入門』からの引用。

 

ロールズは特定の人間観にもとづいて理論を展開しているが、ロールズは体力があるならば人は働くべきであると考えている。これは、働いても働かなくても政府が最低限度の生活保障をしなければならないのかどうか、という議論とは、ひとまず関係ない。

ロールズは、正義の二原理が創り出した秩序ある社会は社会的協力の場であると考えている。人びとは自由と権利を含む社会的基本財という道具を用いて、それぞれが理想とする人生の目標を追求すればよいが、なにかを成し遂げるためには、ほかの人たちとの協力は欠かせないので、社会に貢献することを勧めている。働くことは、その重要な部分である。ロールズは「卓越性」を重視しているが、その考えはここにも反映されている。

ロールズは「自分を価値ある存在」と見なすことができる独立した存在であるためには、意義があって自信を持てるような仕事に携わることが重要であると考えている。さらに、人びとが正義にかなっていて公平な社会的協力に関わっているならば、人びとには自分の役割を果たす義務があるとも考えている。自分は貢献しないけれども、ほかの人が努力して創られた成果はいただく、ということは悪いことである。

(『ロールズ正義論入門』、p.202 - 203)*2

 

 

 高島は、「「何もできない人」に対して腐るほど多くの選択肢を用意」すべきだと主張するなら、その選択肢を維持するための資源はどこから来るかということや、その選択肢を維持するコストは誰が負担するかということも考えておくべきだ。そして、「何もできない人」を守るべきだと言うのなら、「何かする」道には「何もしない」道よりも価値があると認めるべきだ。誰もが何もしなくなると、何もできない人を守ることもできなくなる。

 

 

蜂起せよと呼びかけるとき、私は全員に対して「立ち上がれ」とは絶対に言いたくない。文字通りに「立ち上がって」何かする必要があるなら、立ち上がれる人が立ち上がればよいのである。立ち上がれない人を無理に立たせるような革命には、私は賛同できない。布団に這いつくばり、顔をじっと伏せて、何も考えたくない、何もしなくてよいと誰かが命じてくれるのを心底望んでいるような苦境にいる人と、私は常にともに在りたい。私自身がそうであるからだ。蜂起するために必要なのは、その命たった一つではないか。われらーーあえてわれらと言うーーはすでにここに在る以上、存在にけちをつけられる余地はない。それ以上のことは基本的に全てオプションであって、社会から脅迫的に行動を求められるのは本来おかしいことだ。いかに動けなくとも、今そこに社会との摩擦を感じながら存在しているのなら、私はその生存を存分に祝福したいし、続く生存そのものを抵抗として捉える。湿った布団の中で力なく握られたその拳を、私は絶対的な蜂起の印として認めたいのである。

 

(p.119)

 

 この段落で高島が書いていることは、単なる気休めである。

 革命や蜂起が必要だと仮定して…『布団の中から蜂起せよ』を読んでいてもわたしはそれらが必要であるということを全く説得されなかったが…、立ち上がれない人を無理に立たせる必要は、たしかにないだろう。しかし、実際問題として、布団のなかでうずくまることと、デモをしたりアジ文を書いたりすることや、現状の社会の問題点を指摘したり新しい社会像を提示したりしながら相手を説得することや、実力を伴う行動を起こすことは、全く異なる。

 布団の中で拳を握りしめたとて、その拳を見ることができるのは自分だけだ。社会を変えるつもりなら、自分だけでなく他人の目に見える行動をしなければならないし、自分たちに向けてではなく他の人たちに向けて言葉を放たなければならない。

 何もできない人たちに寄り添うことは必要かもしれないし、気休めがあってもいいだろうが、嘘っぱちを言う必要はない。何もできない人たちは何もしていないのだから、抵抗も蜂起もしていないのである。耳心地のいいレトリックでそこを誤魔化してはならない。