道徳的動物日記

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「がんばっている人」のための正義論?(読書メモ:『ロールズ正義論入門』)

 

 

 

 ここ最近はロールズの入門書をいくつか集中的に読んでいるが、そのなかでもこの本はいい意味でロールズの「信者」が書いたという趣があり、ロールズの議論について内在的に理解して読者に伝えようとしている意志や熱意が伝わってき、おもしろく好感も抱けた。

 著者は、『正義論』を具体的な政治や社会政策に関する本ではなく「哲学書」として読む、というスタンスを貫いている。そのために、特定の政治的・政策的目標のためにロールズの主張を都合よく解釈したり緩めて理解したりするということをしない。たとえば世間的にはロールズの主張は福祉国家を支持するものだと受け止められがちであるが、ロールズが認める経済政策はあくまで「財産所有の民主主義」のみであり、自由を制限する共産主義を認めないだけでなく、市場原理主義どころか福祉国家主義も資本主義を許容するものであるから認められない、ということが指摘されるのだ。

 また、「善の多様性」を肯定しているはずのロールズの議論が、彼自身の人間観を原因として、ある種の「卓越主義的」なものとなっている、というところが強調されているのもおもしろい。

 

ロールズが最も重要と考えるものは「平等な自由」である。そしてこの自由は人間の本性が完璧に発揮される状態である。じつはこの時点で、ロールズはひとつの人間観を前提にしている。

ロールズは自由を「なにも拘束のない状態」とは考えておらず、むしろ「人間が最も人間らしい状態」と捉えている。これはロールズが「人間であるならば、こうあらねばならぬ。こうあるはずだ」という特定の価値観にもとづいていることを示す。

人間が人間らしくあるとは、その精神を最大限に活用することであり、それを他人と共有することであり、他人と交流することでさらにその能力を伸ばすことである。そして他人と関わる以上、関わり方についてのルールを合意にもとづいて決めることであり、そのためには精神的にも身体的にも他人の支配下に入ることなく、他人との合意の結果である法律によって守られるということである。

(p.4)

 

 

性別(女性)、人種(アフリカ系)、宗教(イスラム教徒)という理由で差別され、男性、白人、キリスト教徒と同じ機会が与えられないと、それは前者の人たちの、自由で平等な市民としての尊厳を傷つけることになる。さらに、公平な機会の平等を得られないことは、自分の技能を駆使して到達する自己実現の場を奪われたことと同じである。自己実現こそ人生の目標だから、その機会がないことは人格を否定されたことに等しい。

背景にはロールズ特有の価値観がある。ロールズは人間を、持って生まれた才能を駆使して、みずからに磨きをかけていく存在だと捉えている。そして天性を伸ばしていくために、人間は自由と権利を有していなければならない、ということが、ロールズが「平等な自由」を理論の根幹に据えている本質的な理由である。

(p.59)

 

 

「善」はその人に利益を与えるものであり、価値のあるものであり、人生を充実させるものである。だから「善」と「価値観」は同じことであるが、「善」は諸価値の総体であり、かつそれらを実現するための手段をも含んでいる、抽象的で包括的な概念である。価値観はより個別な目的を指すとともに、人生の究極的な目標を意味することもある。「年末までに一〇キロ痩せる」も価値であるが、宗教のように人生すべてを統括するものも価値に入れられる。「善」はひとつであるが、価値は複数あるから、全部を一度に達成できないならば、そのあいだに優先順位をつけなければならない。

ロールズの重要なところは、ロールズが特定の人生観を描いていることである。ロールズにとっては、人びとには必ず「理想の人生」があり、それは努力して勝ち取るべきものであり、そのために求められる技能は卓越したものでなければならない。人はより上に、上に向かわなければならない。人が生きるのはそのためであり、それを効率的に成し遂げるために人は合理的である、ということになる。

(p.115)

 

ロールズは特定の人間観にもとづいて理論を展開しているが、ロールズは体力があるならば人は働くべきであると考えている。これは、働いても働かなくても政府が最低限度の生活保障をしなければならないのかどうか、という議論とは、ひとまず関係ない。

ロールズは、正義の二原理が創り出した秩序ある社会は社会的協力の場であると考えている。人びとは自由と権利を含む社会的基本財という道具を用いて、それぞれが理想とする人生の目標を追求すればよいが、なにかを成し遂げるためには、ほかの人たちとの協力は欠かせないので、社会に貢献することを勧めている。働くことは、その重要な部分である。ロールズは「卓越性」を重視しているが、その考えはここにも反映されている。

ロールズは「自分を価値ある存在」と見なすことができる独立した存在であるためには、意義があって自信を持てるような仕事に携わることが重要であると考えている。さらに、人びとが正義にかなっていて公平な社会的協力に関わっているならば、人びとには自分の役割を果たす義務があるとも考えている。自分は貢献しないけれども、ほかの人が努力して創られた成果はいただく、ということは悪いことである。

(p.202 - 203)

 

人びとに本性として「卓越性」願望が具わっているならば(ロールズはそう信じている)、人びとは正義の感覚を肯定することで、みずからの「自由・平等・合理性」の本性を外に対して表現することになるが、この行動はその人にとって合理的である。

「卓越性」願望が具わっていることで、(自由と平等が保障されている)秩序ある社会では、自分の本性を表現することは、その人の「善」の中心に来る。この心理傾向によって、人びとは行動を選択する際、「正しいこと」を優先するようになるが、これは単に「正しい」からしているというだけではなく、自分にとって心地よい(つまり「善))からでもある。

(p.240)

 

 また、この本では、「理性」と「合理性」といういかにもややこしそうな二つの能力の違いについて実にわかりやすく整理されているのがありがたいところだ。原初状態を「オリジナル・ポジション」と表記したり、「モラル・パワー」というカタカナを使うなど、訳しづらい言葉はそのままカタカナにして説明するという点も優れていると思う。

 

ロールズにとって「自分を価値ある存在」と見なすための社会的基盤は、人びとに自信を持たせるために必要な仕組みである。自信とは、社会における自分の位置は他人から敬意を示され、かつ自分の「善」は追求に値するものと他人から見られることである。その具体的な内容は歴史と文化で異なるであろうが、ロールズが民主主義社会において中心になると考えているものは、平等な政治的自由と、公平な機会の平等である。

オリジナル・ポジションの下にいる人びとは、社会的基本財の、適切な分け前を欲しいと思っている。というのも、社会的基本財が、人生の合理的な計画の達成と、ふたつのモラル・パワー(理性と合理性)の発揮に必要だからである。だれもが、すべての目的に使える社会的基本財を求めるが、それは少ないより多いほうがよい。そして社会的基本財を求めること自体が合理的な動機である。

整理すれば、オリジナル・ポジションの下にいる人びとは、人生に意味を与えるような人生の合理的な計画を遂行する、という意味で、形式的に合理的である。その人生の合理的な計画の一部として、人びとは、ふたつのモラル・パワー、すなわち「正しさ」を見分ける「理性的であること」と「善」を追求する「合理的であること」という能力を使って、さらにその感覚を伸ばすという実質的な関心を持っている。

(p.126 - 127)

 

 もちろん、ロールズは「これこれこういう善は他の善よりも優れている」と指定してそれを他人に押し付けようとする、という意味での「卓越主義者」ではない(むしろその種の主張を否定するのがロールズリベラリズムの本懐であるはずだ)。

 しかし、「善」の「中身」の多様性は認めても、「善」の「追求のされ方」について<人びとには必ず「理想の人生」があり、それは努力して勝ち取るべきものであり、そのために求められる技能は卓越したものでなければならない。人はより上に、上に向かわなければならない。人が生きるのはそのためである>とすることは、それ自体が「善の構想」や生き方としてとり得る形にかなりの束縛や制約を課すという点で、卓越主義的な発想であるはずだ。「がんばらない人生にも価値がある」「向上心を抱かずにダラダラと趣味や娯楽に明け暮れて過ごしてもいいんだ」的な発想は却下されるわけだし、ほどほどに追求していればそのうち達成されるような目標が「善」となることもないだろう。現在に多くの人々がとっている生き方は否定されて、特定の「理想」は押し付けられなくても、「理想を追求する生き方」が押し付けられることになる。

 この本の著者も冒頭で危惧を示しているように、『正義論』を「哲学書」として、ロールズの価値観を内在的に理解しながら読むことには、これまでに「ロールズって自由を肯定するし福祉国家も支持するんだからいいじゃん」とやんわり思っていた読者をロールズから遠ざけてしまうおそれはあるだろう。福祉国家に比べるとロールズの提唱する「財産所有の民主主義」はおよそ経済政策としての現実味がなさそうだし、人間としての卓越性が強調されて、生き方や価値観がなんでもかんでも「善」と認められるわけではないことを「窮屈だ」「偏狭だ」と思う読者も多いはずである。

 

 とはいえ、ほどほどの目標やダラダラした生き方ではなく前向きに努力することを是とするロールズの卓越主義っぽさには好感が抱けるところもある。「がんばれない人」や「がんばらない人」のことを甘やかす議論ばかりが大手を奮っている昨今では、「がんばっている人」のための正義論を唱えるロールズの主張は新鮮だ。

「自分は貢献しないけれども、ほかの人が努力して創られた成果はいただく、ということは悪いことである。」や「…なにかを成し遂げるためには、ほかの人たちとの協力は欠かせないので、社会に貢献することを勧めている。」というあたりは、「サンデルによる「ロールズメリトクラシーだ」という批判にもつながってくるかもしれない(メリトクラシーは「能力主義」ではなく「功績主義≒貢献主義」という訳語の方がふさわしいので)*1。しかし、サンデルの本に関する書評記事でも書いたように、メリトクラシーはそれは私たちの正義の感覚に適っているがゆえに、魅力があるし、それを抜きにした規範も社会もあり得ないとも思う。

 また、一般的には徳倫理と関係があるコミュニタリアニズムを主張しているサンデルが『実力も運のうち』のなかで卓越性の価値を実質的に否定していた一方で、徳倫理と相反するはずのリベラリズムを主張するロールズのほうが卓越性を重視している、というのもやはり新鮮だ。

 

 ……とはいえ、ロールズが「政治的自由」を最重要しているあたりは、わたしとしてもあまり受け入れられない。サンデルにせよロールズにせよ、「そりゃ君たちは政治学者なんだからそもそも政治が好きだろうし政治が重要だと言わないとご飯食べられなくなるから政治を重要視するだろうけれど、ふつうの人にとって政治はそこまで(他のなによりも優先されるほどに)重要なの?」という疑問はやっぱり抱いてしまう。

 倫理学者のなかには「倫理なんてない」「道徳なんてなにも重要じゃない」というスタンスの人が一定数いる一方で、「政治は重要じゃない」というスタンスの政治学者はほぼいないところも、なんだか気になるところだ。