道徳的動物日記

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読書メモ:『神はなぜいるのか?』

 

 

 

写経。

 

●超自然的行為者と道徳的直観

 

道徳的直観は、社会的相互作用のための私たちの心的傾向の一部をなす。では、なぜ、それらが神や霊や先祖と結びつくのだろうか?それらの超自然的存在が道徳的理解とどう関係するのかを知るために、前に述べた二つの事実について考えてみよう。第一に、幼い頃から、私たちの道徳的直観は、行動の善悪は行動それ自体にあって、それをだれが考えるかや、どの立場から見るかに依存しないということを示唆する。第二に、神や霊や先祖は一般に、法やルールを与える者としてよりは、道徳的選択や道徳的判断における関係者とみなされている。これらのことは、実は同じ心的プロセスの二つの側面である。

(p.246)

 

…私たちの道徳的理解の構造は、神や霊の概念をより適切なものにするが、道徳的理解をもつのに、とくに神や霊が必要なわけではない。ここで言う適切とは、神や霊の概念が、いったん道徳性という文脈におかれると、表象するのが容易であり、多くの新しい推論を生み出すということである。たとえば、ほとんどの人は、道徳に反するように思えることをした時には、罪悪感を抱く。すなわち、自分に都合のよいどんな正当化をしようが、その状況についてすべてを知っている存在なら、それを悪のほうに分類するだろうという直観をもつ。ここで、この直観を「私がしたことについて先祖が思うこと」や「私がしたことについて神がお感じになること」に置き換えると、きわめて漠然としていたことが簡単に表象される。すなわち、私たちの道徳的直観のほとんどは明快だが、私たちにはそれらの起源がわからない。というのは、その期限が意識的にはアクセスできない心的処理のなかにあるからである。これらの直観をほかのだれかの観点として見ることは、なぜ私たちがこれらの直観をもっているのかを理解する簡単な方法である。しかしそれには、戦略的情報をすべて知ることのできる行為者の概念が必要である。

以上のことは、[神や霊に関して]なぜ「関係者」という考えが、人々の実際の思考のなかで「立法者」や「鑑」との結びつきよりもはるかに広まっていて有力なのかを説明する。関係者モデルでは、神や霊は私たちのすることについてあらゆる関連情報を知ることができ、それゆえ私たちが直観的に得る道徳的見解を彼らももっている、と考える。最初に述べたように、宗教的規範や手本は、文字通り人々の道徳的思考の起源ではありえない。道徳的思考は、異なる宗教的概念をもった人でも、そうした概念を持たない人でも、驚くほどよく似ている。さらに、これらの思考は、当然子どもでも生じるが、子どもはそれを超自然的行為者に関係づけることはない。そして、宗教的な人々でさえも、道徳的問題についての思考は、規範や手本によってよりも、ほかの人と共有する直観によって制約されている。

まとめると、次のようになる。協力行動をとる種としての私たちの進化の点から、道徳的推論において実際に起こっている心のはたらきーー子どもやおとなが行為の道徳的次元を表象するしかたーーは、十分に説明できる。そしてこれは、宗教的行為者という特別な概念も、特別な規範も、従うべき手本も必要としない。だが、戦略的情報をもった超自然的行為者の概念をいったんもってしまうと、すでにある道徳的推論に宗教的概念などを容易にはめ込むことができるため、宗教概念、規範や手本は、より顕著で適切なものになる。ある意味では、宗教的概念は道徳的直観に寄生している。

 

(p.248 - 250)

 

●現代で原理主義者が登場する理由

 

宗教に話を戻そう。私が示そうとしたのは、共同体を作る上で、あるいは効力のある信頼を築く上で、神々や霊についてなにも特別なことはないということである。しかし、そこで終わるわけにはいかない。というのは、そこには、宗教集団のメンバーが自分の仲間には私心のない協力を提供し、ほかの宗教や宗派のメンバーを危険だとか不快だとか人間以下だとかみなす時の極度の熱狂の説明がないからである。答えは、人間の連帯形成能力とその能力の柔軟性にある。これに関わる心的システムは、宗教的概念だけに特化しているわけではないが、ある状況では、宗教的概念は、どんな場合に連帯が期待されるかをかなり正確に示すものになる。

このことは、なぜ多くの宗教集団が、交渉の余地をほとんど与えずに、根本的な選択として所属を強調しようとするのかという理由なのかもしれない。宗教団体のなかのあらゆる種類のメカニズムが、人は永遠にそのメンバーなのだというこの意味を強化する。もちろん、たいていの社会では、「選択」があるというのは理論上のことである。つまり、サウジアラビアに生まれたなら、人はイスラーム教徒になることを「選んだ」り、イスラーム教徒の共同体、ウンマと一体感をもつことを「選んだ」りするわけではない。同じく、アメリカ合衆国では、キリスト教徒になることに選択の余地はほとんどない。しかし、ここでの要点は、どの場合も、人はそのアイデンティティを表明したいと思う程度を変化せることができ、それを連帯への関与や連帯の利益の源にすることができる、ということである。ある者は、浅い関与の戦略をとり、メンバーであることを認め、さまざまな税を支払い、メンバーに要求されるさまざまなことを行うが、その程度だ。別の者は、深い関与の戦略をとり、自分の忠誠を表明し、しばしば信仰のためなら驚くべき行為を進んで行い、そしてその見返りとして富、権力、威信、そしてほかのメンバーからの連帯の保証を手にする。さらに、別の者は、より危険な道を選び、集団のために喜んで人を殺したり、自分の命を投げ出したりする。

 

(p. 376 - 377)

 

…人間が自分たちの集団の共通の「文化的価値」を保持したいと自然に思うというのは、完全に自明なわけではない。なぜそうしたいと思うのだろうか?その動機はなんだろう?私たちはふつう、人々が自分たちの文化を守ろうという強い願望をもつのは、自分たちの文化がアイデンティティの感覚と連帯感とをもたらすからだ、と考える。しかし、これは論点先取である。先に述べたように、ある条件では、文化的な概念や規範には、そのように用いられるものもあるが、すべてがつねにそうであるとは言えない。この欲望が暴力につながるというのも、さらに自明ではない。それはまさしく、私たちが説明しようと思っていることだからだ。

原理主義者の反応をもっとよく理解するには、宗教的な環境において現代的影響のなにがそんなにも許しがたいのかをより詳細に記述し、原理主義者の反応が連帯のプロセスの問題だということを考慮するとよい。現代世界からのメッセージはたんに、ほかの生き方も可能であること、ある人たちは信じなかったり、別のことを信じたり、あるいは宗教的道徳に縛られていないと感じたりすること、あるいは(女性の場合には)男性の承認なしに自分で決定をくだすことができるということ、だけではない。メッセージはまた、人間は高い代価を払わずにそれができる、ということでもある。信仰をもたないものや別の信仰の信者は、排斥されない。法を遵守するかぎり、宗教的道徳に従わないものも通常の社会的地位をもつ。そして女性は、男性の庇護がなくても、目に見えるような悪い結果をこうむることはない。この「メッセージ」はあまりに自明に見えるので、これが連帯的思考にもとづく社会的相互作用をいかに深刻に脅かすのかを私たちは認識できない。宗教的連帯の視点から見ると、現代的状況においては、多くの選択が高い代価を払わずになされうるという事実は、離脱は高くつかないし、それゆえ離脱が起こりやすいということを意味する。

 

(p.380 - 381)

 

●結論

 

私は、宗教を、すべての人間の心のなかにあるシステムの点から説明してきた。それらのシステムは、貴重で興味深いあらゆる種類の仕事をするが、本来は宗教的概念や宗教的行動を生み出すためのものではない。宗教の本能といったものはないし、心にそういった特殊な傾向もないし、宗教的概念のための特殊な性質もない。脳のなかに宗教の中枢があるわけでもない。信心深い人は、そうでない人と基本的な認知機能において異なるわけではない。信仰や信念は、概念や推論が宗教以外の領域ではたらく時と同じようにはたらいた結果にすぎないように見える。

宗教的な心の代わりに、私たちが見出したのは、いくつもの見えざる手という物足りなさの残るものだった。これらのプロセスのひとつは、人の注意を、特定の概念の可能な組み合わせに向けさせる。また別のプロセスは、それらのうちのいくつかの想起を強める。また別のプロセスは、もし行為者の概念が戦略的情報をもつ者や道徳との結びつきなどを含んでいるのなら、それらの概念をはるかに獲得しやすくする。心のなかの多重の推論システムの見えざる手は、これらの概念と生活のなかの際立った出来事との間にあらゆる結びつきを生み出す。文化的淘汰の見えざる手は、人々が獲得し伝達する宗教的概念を、その環境のなかで、もっとも説得力をもつように見えるようにするのだ。

これが物足りないことだというのは、宗教が私たちの脳の単なる結果や副産物として描かれていて、これはとりたてて劇的なものではないからである。しかし宗教そのものは劇的であり、多くの人々の生きる支えであり、きわめて感情的な体験に関係し、人を殺人や自殺に駆り立てることもある。私たちは、劇的なものごとの説明も同様に劇的であってほしいと思いがちである。似たような理由から、宗教に憤慨し宗教を拒絶する人々も、彼らには大いなる誤りに見えるものの唯一の原因ーーきわめて多くの人間の心が道を誤る、いわば分岐点ーーを見つけようとする。しかし実際には、そういった単一の地点などない。なぜなら、宗教的概念に説得力をもたせているのは、さまざまな認知プロセスの共謀だからである。

もちろん、私がそれをよいことと思っているのに、物足りないこととして述べたのはちょっとずるすぎたかもしれない。私たちが隠れた手や簡潔なデザインを見出せずに、代わりに調べ方のわかっているさまざまなプロセスを見出すということは、科学の営みにおいては時折あることであり、それはつねによい方向を向いている。この進展は、認知プロセスのことがよくわかっているので、宗教をよく理解できる、ということだけではない。逆にそれは、人間のもつ宗教的思考の傾向を研究することによって、私たちの心のしくみの多くの魅力ある特徴を浮き彫りにし、それらをよく理解できるようになる、ということでもある。これらの複雑な生物学的機械がどのようにありもしない幻に居場所と名前を与えるのかを理解すれば、それらの機械についても多くのことが明らかになるはずである。

(p.427 - 428)