道徳的動物日記

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読書メモ:『自由原理:来るべき福祉国家の理念』

 

 

 あまりコメントすることがないので、覚えておきたい箇所の「写経」みたいな記事になっちゃいます。

 

ヌスバウムのケイパビリティ論について

 

第一に、アリストテレス的な社会民主主義の文脈におけるケイパビリティ・アプローチは、人間的な善を、客観的かつ包括的に把握するため、ケイパビリティは、人々の欲望とは独立して促進するに値するものとされる。不平等と差別の構造は、人々が選択したり価値を置いたりする際の理由を歪めているかもしれず、人は自己の欲望に基づいて正しい判断をすることが難しいからである。これに対して、ロールズ的な政治的自由主義の文脈におけるケイパビリティ・アプローチは、人間的な前についての客観的な把握を退ける。その場合のケイパビリティ・アプローチは、各人が自分で自分の善き正を選びとる能力とみなされ、そのような能力をもった人々が、政治的な意思決定に参加することが望ましいとされる。潜勢的可能性としてのケイパビリティは、そうした選択の背後に前提とされる、ケイパビリティの選択肢集合を与えるものとして位置づけられるだろう。

ただし、政治的自由主義が想定する「善き生の選択能力」としてのケイパビリティは、その能力を政治的自由のための手段とみなすが、潜勢的可能性としてのケイパビリティは、それ自体が善き生の理念であり、政治的自由を実現するための手段を超えたものとみなすであろう。それは人間の内的ー生成に関わる善き生であるがゆえに、無限に促進されるべきものであり、またそのような可能性を秘めたものとして肯定されなければならない。さらに、潜勢的可能性としてのケイパビリティは、他のケイパビリティを発展させる作用としても、肯定されなければならない。新たな人間的善の生成を促すことは、人間的世界の多様性を促すと同時に、人間の潜在能力を最大限に発揮するという理想に近づく。潜勢的可能性としてのケイパビリティは、新しい善の可能性を拓き、その生成を促すという観点から促進される。……(中略)……

第二に、アリストテレス主義は、ケイパビリティに基づく善き生の実現を義務として捉え、各人は、善の客観理論を構成するケイパビリティを、実現する機械をもたなければならない、と考える。その場合の機能のリストは、善き生の構成要素であり、それは、人間の生活にとってなにが最も価値あるものかについての評価的な探求から生まれ、ある一定の文脈のなかでは客観的に同定されるとみなされる。これに対してロールズの政治的自由主義は、ケイパビリティを権利のための道徳的基礎であるとみなし、人びとが自分で望んだ生活を自由に探究するために必要なものとみなすだろう。その場合のケイパビリティのリストは、どんな特定の善理論にも依拠しない。それは、人々の評価的な探究によって導かれるのではなく、人々のあいだで重なる合理によって特定されるべきである、とみなされよう。

ここで注目すべきは、権利としてのケイパビリティのリストが、人々の重なる合意によって導かれる場合、そのリストの中身が、各人の探求と選好に応じて、無限の可能性に開かれているという点である。……(後略)

 

(p.125 - 126)

 

 

●「器のなかの卓越主義」

 

J・S・ミルの場合、もしある高次財(例えばクラシック音楽)を経験した人のほとんどがそれをよいと認めるならば、その高次財はウェルビイングの観点から共有されるべきであるとみなされる。このような判断の背後にはおそらく、人々はそのような高次財を享受するために、人格を陶冶することがふさわしいという信念があるだろう。しかしこのように、人格の理想(「人間的完成の理想」)に照らしてウェルビイングの程度を測るよりも、むしろ各人が自分で自分の器を評価し、バランスのとれた仕方で理想を求めるほうが望ましいのではないか。各人は自分の器に照らして、ある程度まで人格の理想を追求し、ある程度まであきらめた方が望ましいのではないか。グリフィンは、ミルやシジウィックの功利主義を補うために、「深慮ある卓越主義(prudential perfectionism)」という立場を展開している。すなわち、各人がどれだけ人格を陶冶することができるのかという器に照らして、ウェルビイングを判断するという考え方である。

グリフィンによれば、「諸々の器の異なるコンビネーション、あるいはさまざまな程度の器をもった人々」は、それぞれの処世術的価値にしたがって、よりよい状態に至ることができる。器の大きい人は、すぐれた能力の実現、すなわち卓越の基準を自分の内的動機として取り込むだろう。器の小さい人はそれほどでもないだろう。こうしてウェルビイングの基準は、グリフィンにおいては各人の器の程度に応じて設定され、その器に即して各人に機会を与えることが望ましいとみなされる。

(……中略……)

自分を知るとは、自分の器を知ることである。ウェルビイングをめぐるグリフィンの立場は、このような人生理解から、各人がその器にふさわしい実践をすること、自分の器を満たすこと、あるいはその器を従前に機能させることが望ましいと解釈する。しかし私たちが自分の器について無知であり、器の大きさが不明確であるとすれば、どのように対応すべきなのだろうか。

 

(p.243 - 245)