道徳的動物日記

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「愛」は「正義」の代替となるか?(読書メモ:『新版 現代政治理論』)

 

 

 

 昨日に引き続き、キムリッカの『現代政治理論』から気になったところを引用。第5章「マルクス主義」から。

 

マルクス主義による批判の核心は、むしろ法的共同体の理念それ自体にたいする反論である。多くのマルクス主義者の考えでは、正義は社会制度の第一の徳性などではなく、真に善き共同体には必要のないものである。正義は、我々が「正義の状況」ーー正義の原理によってしか解決しえないような対立を引き起こすーーにある時にしか相応しくない。通例、正義の状況には二つの主たる特徴があると言われる。目標が対立していることと、物質的資源が限られていることである。目標が一致せず、資源が希少である場合、人々は対立する要求を出さざるをえない。しかし、人々の目標の対立を取り除くか、あるいは資源の希少性を取り除くことができるならば、法的平等論は必要なくなるであろうし、それがなくても巧くやっていけるであろう、というのである(Buchanan,Lukese)。

 

マルクス主義者のなかには、共産主義が克服しようとしている正義の状況とは、善の構想同士が対立している状況である、と論じる者もいる。彼らは家族を法的ではない制度ーーそこでは利害が一致しており、正しい義務や個人的利得の計算に基づいてではなく、愛に基づいて他者のニーズに自発的に応答するーーの実例と受けとっている(Buchanan)。共同体全体の利害が一致し、愛情によって結ばれるならば、正義など必要なくなるであろう。なぜならば、自らを権利の担い手と考えるならば、「自らを人間同士の対立ーーそこでは権利を主張することが避けられず、要求しているものが当然私のものであると「弁護する」ことが避けられないーーの潜在的な当事者であると見なす」(Buchanan)ことになるからである。しかし、愛や一致した利益に基づいて相互のニーズを満たすのであれば、権利のような概念が現れる余地などなくなるであろう、と。

 

私が別のところで論じたように、マルクスは、利害が一致し愛情によって統合された共同体というビジョンなど信奉していなかった。マルクスにとって、共産主義的関係が敵対と無縁であるといっても、それは「個人的敵対という意味ではなく、個々人の社会的生活条件から生じる敵対という意味である」(Marx and Engels)。実際には、正義の状況を「目的が一致する」ように解決するのは、マルクス主義的な理想であるよりも、コミュニタリアニズム的な理想である。さらに言えば、それが、正義の状況にたいする解決策でありうるのかどうかも疑わしい。というのは、一連の目標を共有したとしても、依然として個人的利害の対立が残るかもしれないからである(たとえば、二人の音楽愛好者が一枚のオペラのチケットを欲しがっている場合)。また、個人的利害の対立がない場合でさえ、どのようにして共有されたプロジェクトを達成するか、そのプロジェクトはどれくらい支援する価値があるか、という点では一致しないかもしれない。あなたも私も、音楽鑑賞は善き人生に欠かせないものであり、音楽を支援するために自分の時間や金銭を費やすべきだと考えているかもしれない。しかしあなたは、たとえ質が下がることになったとしても、なるべく多くの人々が楽しめるように音楽を支援すべきである、と望むかもしれない。けれども私は、たとえ鑑賞しえない人々がでることになったとしても、最高水準の音楽を支援したいと思うかもしれない。資源が希少であるかぎり、どの音楽のプロジェクトにどれだけの支援をすべきか、という点で一致することはないであろう。たとえ目的が共有されたとしても、手段や優先順位も共有されないかぎり、希少な資源の使い道をめぐる対立は取り除かれないであろう。しかし、同一の目的を同一の理由で同一の程度共有しているのは、同一の人物以外にはありえない。ここで、対立する目的は、「矯正」されたり克服されたりする必要のある「問題」として捉えられるのがよいかどうか、という疑問が起こらざるをえない。おそらく対立は、それ自体としては価値あるものではないであろう。しかし、そうした対立を不可避に引き起こす目的の多様性のほうは、価値あるものであるかもしれない。

正義の状況にたいするもう一つの解決策は、物質的希少性を取り除くことである。

…(中略)…

マルクスは、物質的豊かさ(アバンダンス)が必要不可欠であると強調した。希少性のせいで対立が解決不可能になると考えたからである。生産力が最高度に発達することは、「〔共産主義の〕絶対的に必要な実践的前提である。なぜならば、それがなければ欠乏が広まるだけであり、貧困とともに必需品のための闘争と、旧来のあらゆる汚れた商売とが再生産されざるをえないであろうからである」(Marx and Engels)。おそらく、マルクスが物質的豊かさの可能性についてあまりにも楽観的であったのは、希少性の社会的影響についてあまりにも悲観的であったためなのであろう(Cohen)。

 

(p.250 - 252)

 

だが、正義は、捨て去られるべき矯正的徳性と見なされるのがよいのであろうか。マルク主義者によれば、正義は対立を調停するのに役立つとはいえ、対立を引き起こす傾向もあるし、少なくとも社交性を自然に表現させにくくする傾向がある。それゆえ正義は、今のところは必要悪であるとしても、物質的豊かさという条件の下では高次の共同体にとっての障害物になるであろう。人々が相互に愛に基づいて自発的に行動できるのであれば、そのほうが、自分たちを正当な権原の担い手と見なすよりも望ましい、というのである。

(p.253)

 

ロールズが正義の優位を主張しているといっても、それは「さまざまな利益への正当な権利要求を極限にまで押し進めるかどうか、また押し進めるべきかどうか、に関する」(Baker)主張ではない。正義の優位は、個々人が一定の利益を主張できるようにすると同様に、そうした利益を愛する人々と分かち合えるようにもする。寛大で愛する人々は、正当な権原でもって寛大であり愛するであろう。正義の優位は、そうした行動を抑止するどころか、可能にするのである。正義が除外するのは愛や愛情ではなく、不正ーー他者の正当な権原を否定することによって、その人々の善が別の人々の善に従属することーーなのである(Baker)。もちろん不正は、真の愛や愛情とは反対のものである。

(p.254)

 

 わたしはマルクス主義に詳しいわけではないのでたいしたことは言えないけれど、キムリッカがマルクス主義者(やコミュニタリアン)のものとして示している考え方……人々の利害対立を調停するはずの「正義」や「権利」はむしろ対立を前面化するように促すものであるために解決策とはならず、「愛」(と「物質的豊かさ」)によって利害対立そのものを無くすことが真の解決策である、という考え方は、近頃の日本でもよく目にするものではある。

 たとえば、自由主義系で資本主義全面肯定派の経済学者である柿埜真吾は、マルクス主義系の論者である斎藤幸平の主張について以下のように論じている。

 

脱成長コミュニズムがもたらすのも、他人とは違う独創的発想が迫害され、個人の自由が抑圧される社会である。斎藤氏によれば、脱成長コミュニズムは「使用価値経済」だという。「使用価値経済」の下では、主要資源が共同体に管理され、「使用価値」がないものは禁じられる。例えば、「マーケッティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止される。コンサルタント投資銀行も不要である」(斎藤,2020,303頁)。ブランド化や使用価値がない製品も認めないという。

 

だが、問題は一体誰がその「使用価値」を決めるのかである。市場経済では、使用価値があるかないかを決めるのは一人一人の消費者だが、社会主義経済では、何に価値があり何に価値がないかを決めるのは政府や共同体の命令と強制である。斎藤氏の言葉からも、脱成長コミュニズムの下では、職業選択の自由言論の自由も存在しないのは明白である。

 

「似たような商品が必要以上に溢れている」(斎藤,2020,256頁)とか、様々な職業が「不要」だと断言する斎藤氏に拍手喝采する読者は、何が使用価値で、何が必要か、自分が決める気でいるようだが、ある人にとって不要で下らないものは、他の人にとってはかけがえのないものである。脱成長コミュニズムは、特定の「使用価値」が全員に押し付けられ、あなたの大切なものが「不要」、「使用価値がない」と否定され、弾圧される社会である。

 

経済成長と自由を選ぶのか、脱成長と全体主義社会を選ぶのか――『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠 』(PHP新書)/柿埜真吾(著者) - SYNODOS

 

「一体誰がその価値を決めるのか」という問題は、デヴィッド・グレーバーによる『ブルシット・ジョブ』論にも当てはまる。不必要で無駄な商品と仕事と、必要(エッセンシャル)である商品と仕事とを区別して、前者をなくして後者に資源なり労働力なりを集中すれば、経済成長がなくても「物質的豊かさ」の欠乏の問題に対処できるかもしれないし、職業間での利害の対立とか格差とかも解決できるかもしれない。……とはいえ、「必要な商品」や「無駄ではない仕事」とは何であるかという考えは人によって異なり、どれだけ議論を重ねても意見の違いは残り続けるであろう。

 どんな商品が必要かとか、どんな仕事に意義を見出すとかは、各人の「善の構想」に委ねられることである。それに対して外側から「こんな商品には価値がない、こんな職業はブルシットだ」とジャッジして捌いていこうとする主張は、独善的なものにならざるをえない。

 

 また、「愛が正義や権利に取って代わる真の解決策だ」式の発想は、近年の「ケア」を強調する規範理論を想定せざるをえない。ケアと愛情が並べて論じられることも多いし、利害が対立する個人同士の法的な共同体に対比するものとして「家族」が持ち出されることもケア論的だ。

 だが、このブログでも何度か書いてきたように、わたしは「ケアの倫理」的な発想にはかなり否定的である。もちろん、ケアが正義の代替になるとも思わない。ケア論が流行っているのも、「利害の対立の調停」という難しい問題からの逃避であるというくらいにしか思っていない。

 

『現代政治理論』を読んでいるときにふと思ったのだが、ロールズ的・リベラリズム的な意味での「正義」を論じる人たちは、その単語の互換とは裏腹に、「悪」を想定している感じが薄い。功利主義者も同様。「善に対する正の優越」や「最大多数の最大幸福」などの規範・目標は、人々が異なる善の構想を抱いていて利害の対立の調停はどんな社会でも必要とされ続けることを前提とした、ニュートラルなものであるからだ。

 それに比べると、マルクス主義コミュニタリアンフェミニストなどは特定の「善」に人々を結束させることで利害の対立を克服することを目標とするために、「共通善」や「ケア」などの支障となる人や物事を「悪」とみなして、容赦しない傾向にある。

 

 また、「善を優先するか、正を優先するか」というだけなら理論の違いでしかなく、倫理学や政治理論の教科書でも書かれているようなことではあるのだけれど、「善」を優先するタイプの理論はそれを唱えている人の事実認識や世界観にまで波及して効果があるようにも思える。

 たとえば、「現在に人々の間で利害の対立が発生して問題が生じているのは、人々が誤ったイデオロギーにしたがって行動したり思考したりしているからであり、そのイデオロギーを取り除ければ利害の対立の克服に近づくことができる」という主張はマルクス主義者やフェミニストだけでなくコミュニタリアンもおこなうものだ。「個人や法人はそれぞれの観点からそれぞれの利益を合理的に追求している」という標準的な経済学の発想も、三者三様に否定しようとする*1

 しかし、それは、自分たちの理論にとって問題となる「愛やケアや共通善では解決できない事柄がある」という事実から目を逸らしているだけであるのだ。

*1:

経済学において「合理性」とは、各主体が与えられた状況・制約条件を所与として自己の達成目標を最大限に達成している、というあくまで個人レベルの形式的なものである。このことは、個々人は手持ちの情報を最大限に活用して「合理的」に判断していても社会全体としてはそれが故に負のサイクルにはまっている、という世の中によくあることと全く整合的である(と同時に、「それで世の中うまく回ってるのだ」という結論を結果的に排除するものでもない。うまく回っていることもある)。

 

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