道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

政治参加(熟議民主主義?)が個人の思考・感性にもたらすメリット(読書メモ:『正義論』その①)

 

 

 

 散々いっぱい入門書を読んでから「いざ」と意気込んでジョン・ロールズの『正義論』を読んでみたはいいものの、これがおそろしくつまらない。なにしろいちいち長ったるしく、注意して読まなければ「ロールズ自身の主張」と「(続く文章で反論するために出している)相手側の主張」との区別も難しくつい混合してしまうし、同じような主張が繰り返されるし、なんといっても悪文だ(翻訳も良くない気がするけれど、原著も名文ではなさそうな予感がする)。同じタイミングでJ・S・ミルの『自由論』を読み返していたぶん文章のひどさが強烈に伝わってきたし、いくら哲学の学術書だとはいえ読みものとしての面白さがないとテンションやモチベーションが下がる。よくみんなこんな文章を必死に読めたものだなと思う。

 まあそれはそれとして、いつものように、気になった箇所を(写経的に)メモ。

 

 

さらに平等な政治的権利の価値が公正である場合、自己統治には、平均的市民の自己肯定感と政治的力量の感覚を向上させる効果がある。市民はおのれの共同体における小規模の連合体の中で自分の真価について自覚して行くが、その自覚は社会全体の基本法において強固なものとされる。市民は投票するよう期待されているから、政治的意見を抱くことも期待されている。市民が自己の見解を形成するために捧げる時間と思考が、彼の政治的影響力を通じて得ることになりそうな物質的見返りによって律せられることはない。むしろ、おのれの見解を形成すること自体が楽しい活動であり、それによって社会観が拡大され、そして彼の知的・道徳的能力が向上する。ミルが気づいていたように、市民は自分以外の人びとの利害関心を考慮するよう求められており、また自分自身の性向ではなく何らかの正義および公共善の構想によって導かれるように求められている。自分の見解を他の人びとに説明しかつ正当化しなければならないとすれば、市民は他の人びとが受諾しうる原理に訴えかけなければならない。また、もし市民たちが政治的義務と責務に関する肯定的・積極的な感覚をーーすなわち法と政府にただおとなしく従おうとする意欲以上のものをーー身につけるべきであるならば、公共精神を目指す教育を施すことが必要となる。このようにミルは付言している。このような〔公共精神に向かう〕包括的な情操がなければ、人びとはおのれの小規模の連合体の中で互いに疎遠となり孤立するようになる。また、家族あるいは狭い友人の輪を超えて愛情の絆が広がることはあるまい。市民たちはもはや、互いを公共善の何らかの解釈を推進すべく協働できる仲間としては捉えない。代わりに、市民たちは互いを競争相手として、さもなければ互いの人生目的の障害物として見なす。以上のような留意事項は、すべてミルたちのおかげで周知のこととなった。平等な政治的自由はたんなる手段にとどまらないことがこうして判明している。これらの自由は、自分自身に価値があるという人びとの感覚を強め、知的・道徳的感受性を高め、正義にかなった制度の安定性を左右する義務と責務の感覚の基盤を提供する。こうした重要事項と人間的善および正義感覚の間にあるつながりについては、第三部で論じることにする。そこでは、以上のものごとを<正義の善>という構想のもとでしっかり結びつけることを試みる。

 

(p.316 - 317)

 

 関係しそうな議論として、『リベラリズムの系譜学』からハーバーマスに関するところを引用。

 

 

 

理性的なコミュニケーションにおいては、各自が自身や自身がもつ知識や価値を特権視することなく言語的に相対化している必要がある。そして、他者を道具として扱うのではなく語り手である自身と同格の主体としてみなし、自身を含め議論参加者の意見が根拠のあるものかどうかなどの批判可能性が開かれつつ言語コミュニケーションが行われることで、批判に耐えうる合意が共有されることになる。そこでなされたある発言について、それが誤謬可能な知識(に関する命題)を示しているとしても、それに関する批判を通じて、その発言の妥当性や根拠づけが共通了解されてゆき、相互主観的に共有されるところの生活世界と合致する形でその意味内容はよりクリアなものとなってゆく。所与の常識や慣習についてもそのようにときに反省され修正されながら、言語能力と行為能力をもつ諸主体の共同体にとっての同一かつ唯一の世界としてそれらは同定される。このように、各主体は自らが生きているその世界を世界内在的観点から適切に認識しつつ、世界をよりよく認識・変更してゆけるようになる(その中で、世界内存在としての共通の「知」のもとで生きてゆく)。これこそが、個々人それぞれにおける認知的・道具的合理性とは異なるところの、「コミュニケーション的合理性 kommunikative Rationalität」というものである。

そもそも、何が正しいか、何をなすべきかがいまだ不明なーーしかしそれが重要な意味をもつようなーー共同体においてはいまだ客観的世界は構成されているとはいえない。ゆえに、客観的世界を構成するための条件がそこでは必要となる。客観性が成立しているといえるためには、世界内の出来事や実現すべき事柄に対し、それらは言語能力および行為能力をもった個々人にとっての世界として共有されていなければならない。もちろん、感受性が異なり、さらには経験もさまざまであるような個々人においてそれはときに食い違いをみせるが、その際、「あなたがそう思うのはなぜですか?」「それはね…」といった開かれた問いの形式、そしてそれに対して答え(言い分)としての水準を満たすような答え方、さらにはその水準を満たした答えに対し、それを好き嫌いで排除することのない理知的な態度、これらがそもそもなければ、客観的世界という概念は無意味なものとなってしまうだろう。そして、こうしたコミュニケーションのための理性が発揮される場こそが「公共」なのである。

 

(p.134 - 135)

 

 ロールズハーバーマスが論じているのは、民主主義のなかでもとくに「熟議民主主義」的な物事が市民にもたらす恩恵のことであるだろうか(だよね?)。

 

 わたしは熟議民主主義にはけっこう憧憬を抱いているほうだが、とはいえ、それはゲームや映画などの理想化されたフィクションを通じてのことである*1。たとえば現状のネット空間における政治的議論を見れば、「熟議民主主義」や「コミュニケーション的理性」に対してシニカルになって否定的な意見が出てくることも無理はない。それに対して、まず熟議やコミュニケーションが通じるような環境を整えることが前提である、という反論はあるだろう(昔読んだロバート・グッディンによる熟議民主主義の本でも、熟議を実際に行う際の運営方法や注意事項と言った具体的な事柄に紙幅が割かれていた)。でもまあ実際のところどんな感じなんだろうね。