道徳的動物日記

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ミルの「個性」と「卓越性」(読書メモ:『ロールズ政治哲学史講義』)

 

 

 

 ホッブズやロックやヒュームやルソーやミルやマルクスについてのロールズによる解釈を読むことで、ロールズ自身による「公正としての正義」とか「リベラリズム」とか「公共的理性」についての考えも直接的・間接的に伝わってくる……というのがウリであると思うんだけれど、なにしろ講義録であり、紹介されている各思想家のテキストを事前に読んでいたり手元にあったりすることが前提となっているフシもあるし、不自然な傍点も多かったりして、お世辞にも「おもしろい」とは言えない。教科書としても、もっと読みやすく理解しやすい本はごまんとあるだろう。

 

 とはいえ、ところどころ、印象に残る箇所もある。たとえば、ミルの議論における「個性」や「卓越性」について扱っている箇所は、他の(日本人による)ミルの解説書や研究書に比べてバランスが取れていて内容も充実しているとは思った。

 以下、写経。

 

私は、見るが、他の人々と異なった者であるために自分を他の人々と異なったものにしなければならない、と言おうとしているとは思いません。むしろ、彼が言わんとしているのは、生のプランが他者のそれと類似していようといまいと、私たちはそのプランを自分自身のものにしなければならない、すなわち、その意味を理解し、それを自分の思想や性格に相応しいものへと具体化しなければならない、ということです。私たちは、言われるところの諸目的の選択者として、自分の生を選ぶ必要はまったくありません。むしろ、私たちは、相応の反省の後で自分の生き方を肯定することがあり、それにただ習慣として従うのではないということがあります。私たちは、思想、想像力、感情の力を十分にかつ自由にはたらかせることによって、自分の生き方を理解できるところまで達し、そのより深い意味合いを洞察できるようになるのです。そういう仕方で、私たちはその生き方を自分のものにしていくのです。たとえ、その生き方がそれ自体旧くからあるものであり、その意味で伝統的であるとしても。

私がこの問題に言及するのは、ミルは、異性であること(エクセントリシティ)を強調し、自分のやりたいようにやることを強調した、としばしば言われるからです。これは誤読だと私は思います。たしかに、彼は、自由な制度がより大きな文化的多様性を導くだろうと予期していますし、彼はそれを望ましいと考えています。しかし、彼の強調は、自由な自己発展と自己陶冶にあります。後者は自己規律を含意していますし、両者のいずれか、あるいはその双方とも異例であることと混同されてはなりません。ミルの基本的な考えは、私たちの関心は、私たちの思想や性格を自由にかつ反省的に形成するものとして理解された個性にあり、その形成は、万人にとっての平等な正義の権利によって課される厳格な規則の枠内で行われる、ということです。

(p.556 - 557)

 

まず、ミルは、称賛すべきものや卓抜したもの、その反対の品位の劣るものや軽蔑すべきものという卓越主義的な価値の存在をたしかに認めています。しかも、それは、彼にとって重要な価値です。さらに、彼は、私たちがそうした価値を承認していることと考えています。というのも、そうした価値は、尊厳の原理という形をとって、何が私たちに相応しいかについての判断をつねに含む確固とした選好の基準という彼の中心的観念の根底にあるからです。このように、卓越主義的な価値の存在と、それが私たちにとって非常に重要なものであることを私たちが承認することは、彼の規範的な教義の根本的な部分をなしており、彼の基本的な人間心理学によって支持されているものです。

しかしながら、自由原理ーーそれはk、個人の自由を制限する卓越主義的な根拠を排除しますーーの内容という観点から見るかぎり、そういう[卓越主義的な]価値は、法や強制的な社会的圧力としての共通の道徳的意見という拘束力(サンクション)を課すことで得られるものではありません。それを私たち自身の価値とするかどうかは、私たちの一人ひとりが友人や仲間とともにどうするかに依存しています。その意味で、彼の教義は卓越主義的ではありません。

 (……中略……)

卓越主義的な価値を実現する活動を追求するよう人々に強いることは不要である、と彼なら言うだろうと思います。そして、正義および自由の制度がはたらいていない場合にそのようにすることは有益というよりも有害である、と述べると思います。これに対して、そうした制度が十分にはたらいているなら、卓越という価値は、正義および自由の制度の拘束のもとで、自由な生き方や結社のうちに最も適切な仕方で実現されることになるでしょう。正義および自由という価値は、根本的な背景の役割を担っており、その意味でそれらには一定の優先が与えられているのです。ミルは、自分は、卓越主義的な価値にそれに相応しい位置づけを与えたのだと言うはずです。

(p.559 - 561)